第7話 彩美の世界 その3

 男は彩美にこっちへ来いと手招きする。

 彩美はその男に操られているかのように、半ば無意識に叔父の身体を引き離す。

 そのまま振り切ろうとするが叔父は彩美の腕を掴んで放さない。

「っとお、逃がさねえよう」

 酒臭い息で笑う叔父に彩美がささやく。

「ここじゃ、イヤ。ヒトが来そうだから」

「ああ、そうだなあ。わかってるじゃないか。彩美はいい子だ」

 叔父は相好を崩し、彩美の後をついていく。

 彩美の前をサファリハットが歩いているが、その姿は叔父には見えていないらしい。

 彩美と叔父がサファリハットに先導されて着いたのは最初の駐車場だった。

「ちょっと待ってなあ」

 叔父は駐車場の一角で立ち止まり、壁に向かってズボンのファスナーを降ろす。

 彩美はその間に、サファリハットに手招きされるまま、駐車しているワンボックスカーを回り込む。

 同時に男が脱いだサファリハットから伸びた数本のケーブルが彩美の首筋に刺さった。

 痛くない?――戸惑う彩美へ、さらに男がサファリハットを突きだして微笑む。

「この中にあるものを取り出してください」

 彩美は言われるままサファリハットに手を突っ込む。

 彩美の手はなんの抵抗もなくずぶずぶとヒジまで入っていく。

 そのことに違和感を覚えたのと同時に指先が棒状のものを捉えた。

 はっとした表情で男を見る。

 男は穏やかな表情のまま頷く。

 その表情に促されて彩美が取り出したのは巨大なハンマーだった。

 彩美はハンマーを握りしめてワンボックスの向こうへ目を向ける。

 そこには壁に向かって身体を震わせ、ズボンのファスナーを上げる叔父の背中があった。

 しかし、男がささやく。

「それで危害を加えることはできません。それの使い道はね――」

 男はなにもない空間を指差す。

「――この位置です。ここ目がけて振り下ろしてください。思いっきり」

 彩美はわけがわからないまま――それでも従わねばならないような気がして――ハンマーを振り下ろす。

 なにもない空間に火花が散り、亀裂が走った。

「彩美ぃ、どこ行ったあ」

 亀裂に戸惑う彩美を探して叔父が怒鳴る。

 男が促す。

「呼んであげましょう」

 彩美は叔父に声を掛ける。

「叔父さん、こっち。クルマの方」

「おう、そこか」

 叔父はふらふらとワンボックスを回り込む。

 同時に亀裂から飛び出すのは巨大なタコの足。

 タコの足が触れると同時に叔父の姿は貝殻になって駐車場のアスファルトに転がった。

 それをぽかんと見ている彩美の手からハンマーが消え、首筋からケーブルが抜かれる。

 男がサファリハットを被りながら告げる。

「その貝殻が叔父さんですよ。このクラック、亀裂が閉じれば元に戻りますが。ただ、貝殻の状態で物理的な損傷があれば戻れま――」

 それ以上は聞く必要はないと彩美は貝殻に駆け寄り、全体重を掛けたカカトで踏みつける。

 何度も何度も踏みつける。

 そして、手に取り、今度はかたわらに立つビルの外壁に全力で投げつける。

 貝殻は外壁で跳ね返り、彩美の足元へと転がる。

 彩美は無言のままそれを拾い上げ、改めて外壁へと投げつける。

 それを延々と繰り返す。

 視界が涙でゆがんでも構うことなく繰り返す。

 不意に手元が狂い、外壁を大きく外れた貝殻が車道を転がる。

 そして、通りかかった長距離トラックに踏み砕かれる。

 そこでようやく彩美は平静を取り戻す。

 男がささやく。

「市内にある二十八箇所すべての亀裂クラックを開けてくれれば、あなたに幸せをもたらしましょう」

 彩美は両目から溢れる涙を拭いながら男を見上げる。

「信じていい?」

「もちろんです。あ、こうしましょう」

 男は左の手のひらを亀裂へと向ける。

 その奥からぷっと墨の塊が吐き出された。

 墨は男の手のひらに着弾するとスライムのように這って小指の先端にまとわりつく。

「二十八は指関節の数と同じです。ひとつの亀裂を開くごとにひとつの関節を黒く染めましょう。それが私たちの約束です。すべての指が黒く染まればあなたの願いが叶うという、わかりやすい話です」

 男は小指の先端が黒く染まっている様子を確認させるように、左手を彩美に差し出す。

「よろしいですね?」

 にっこりと微笑む男に彩美は無言で頷いた。

 男は改めてサファリハットを胸元におろし、彩美に会釈する。

「あ、申し遅れました。私は虎目と申します。お名前をよろしいですか」

「端岡……彩美」

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