第7話 彩美の世界 その2

「こんな世の中、壊れればいいのにな」

 病院の屋上から町並みを見ながら吐き出した時、背後から声が聞こえた。

「初めまして。君を幸せにするためにやってきました」

 振り向くとサファリハットにスーツ姿の若い男が立っていた。

「信用できませんよね。じゃあ、今から信用させてあげましょう」

 そう言って男が歩き出す。

 彩美はふらふらと男について病院を出た。

 知らない男の後についていくことには抵抗があったが、一方で“もうどうなってもいい”という感覚があったのかもしれない。

 男が向かったのは繁華街にある駐車場だった。

 男は駐車場の一角で目を凝らし――

「ふむ、ここが手頃ですね」

 ――などとつぶやくと、今度は彩美を毒々しいネオンと半裸の女性が描かれた看板の立つ雑居ビルの前まで連れていった。

 まだ日が暮れてないこともあってさほどの賑やかさはなかったが、それでも小学生の彩美にとっては生まれて初めての繁華街だった。

 自分の知っている世界とは明らかに異質な世界に、未知のものに対する恐怖や不安がざわざわとわき上がる。

 聞こえてくる音や流れてくる臭い、自分を包む空気すらも彩美にとっては“毒”としか思えなかった。

 そんな音や臭いや空気に絡まれて身を固める彩美だが、雑居ビルから上機嫌で現れた人影に目を疑う。

 叔父だった。

 叔父は彩美に気付くと一瞬、やべえという表情を浮かべたが、すぐに思い直したかのように平静を装う。

 そして、言った。

「彩美ちゃん、どうしてこんなとこにいるんだい」

 その日の叔父は酒だけでなく香水の臭いもまとわせていた。

 叔父はじっと自分を睨み付ける彩美の手を握る。

「こんなとこにいたら彩美ちゃんがおまわりさんに捕まっちゃうから、あっちへ行こう」

 叔父に従うつもりはなかったが、繁華街の音と臭いと空気から逃げたかった彩美は手を引かれるまま路地裏へと入った。

 叔父が言う。

「こないだ預かったお金だけどねえ、お医者さんが足りないっていうんだ。もっとないかなあ」

 彩美は答えない。

「例えば彩美ちゃんとか俊樹君とかお年玉を貯金してたりするよね。あ、そうだ――」

 不意ににやけた叔父の表情に、彩美は全身を走る悪寒の中で吐き気を覚える。

「――彩美ちゃん。アルバイトしないか。叔父さんの知ってる店があるんだよ。なにも怖くないよ。男の人と一緒にお風呂……」 

 彩美は無意識に叔父をぶん殴っていた。

 叔父の顔色が変わり――

「このガキ、つけあがりやがって」

 ――胸ぐらを掴んですごむ。

 が、すぐに表情を崩す。

 掴んだ“胸ぐら”の感触に。

「ガキだと思ったら、いつのまにかオトナになってるじゃねえか」

 そして、身を強張らせて立ち尽くしている彩美に抱きつく。

「オマエで我慢してやるよ。すぐによくなるからなあああああああああ」

 首筋に顔を埋めて吐き出される酒臭い息に彩美は思う。

 ダメだ、やっぱりこの世界は。

 すでに感情の欠落した彩美が涙で滲む目で見た先にはサファリハットの男がいた。

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