お姉様を寝取られた鈴原鈴香の復讐について。

深水紅茶(リプトン)

鈴原鈴香と梨奥院梨子、そして花笠花火について

 クラスメイトに姉を寝取られた。

 血縁上の姉ではない。概念上の姉、血よりも濃いロザリオのチェーンで結ばれた姉である。

 崑崙女学院において姉を寝取られた妹とは落伍者であり、犬畜生にも劣る虫けらだ。虫けらのまま生きていくことはできない。なんとしても尊厳を取り戻さなくては。

 すなわち、復讐である。

 正義の名の元に報復の鉄槌を振り下ろす快楽だけが、鈴原鈴香をカメムシから人間へ戻すことができる。泥を啜り、岩に齧り付いてでも成し遂げなければならない。マイナスからゼロへ至るための復仇を。リベンジを。

 さもなければ、世界の全ては灰色だ。


 おさらいをしよう。

 おさらいは大切だ。鈴原鈴香は毎日一時間、授業の内容を寮の机でおさらいしている。鈴原鈴香は模範的な妹である。

 この復讐譚の登場人物は三人しかいない。

 姉を寝取られた妹。

 姉。

 姉を寝取ったクラスメイト。

 以上だ。

 クラスメイトに姉を寝取られたクソ雑魚ルーザーカメムシが鈴原鈴香である。自己を客観視するたびにはらわたが煮えくりかえるが、事実なので仕方がない。

 鈴原鈴香は崑崙女学院の一年生だ。

 崑崙女学院は明治時代から続く歴史ある女学院で、特別仲の良い上級生と下級生が姉妹の契りを交わす伝統文化がある。ロザリオの授受によって結ばれる姉妹の絆は血よりも濃い。濃すぎてちょっと不純な関係に至ることもあるが、それは本題ではないし、鈴原鈴香としてはバッチコイだ。

 バッチコイだった、というべきだろうか。

 鈴原鈴香が構えたミット目掛けてボールを打ち込んでくれるはずだった人は、名を梨奥院梨子という。名前に負けず劣らず美しいひとだ。

 しかし梨奥院梨子は、模範的な姉とはとても呼べない。

 容姿こそ恋愛映画に登場する清楚系ヒロインのごとしだが、中身はとんだお間抜けさんである。運動音痴で、バレーボールは顔でレシーブする競技だと思っているフシがある。勉学の成績も低空飛行で、赤点補講の常習犯だ。


 鈴原鈴香が梨奥院梨子と出会ったのは、服装点検日の朝だった。鈴原鈴香は風紀委員である。校門前でビシバシとスカートの丈を指摘するのだ。鈴原鈴香は使命感に燃えていた。

 しかし実際には、崑崙女学院のお嬢様がたの身だしなみは十全十美で、一介の風紀委員ごときが指摘すべき事項は皆無だった。

 ギラつく正義を振りかざしたいお年頃の鈴原鈴香は落胆したが、しかし彼女には密かな狙いがあった。風紀委員にあるまじきことに、彼女はこっそりと首元のタイを乱していたのだ。

 夏服のブラウスを清楚に彩るえんじ色のタイをあえて乱す。その意味がおわかりだろうか?

 もちろんそうだ。

 鈴原鈴香はお姉様を探していたのだ。合法的かつ三次元的に、「貴女、タイが曲がっていてよ」と言われたかったのだ。ここが重要なポイントだが、「貴女」の発音は漢字でなくてはいけない。

 しかし、そのようなお姉様はなかなか現れなかった。崑崙女学院でさえ、すれ違い様に下級生の服装の乱れに気づくSS級お姉様は数少ない。

 やはり夢は夢か。

 鈴原鈴香がほのかな憧れを諦め、校舎へ引き換えそうとした、そのときだった。


「ちっこっく、ちっこっくっ」


 綿菓子みたいにふわっふわの髪と、水風船みたいに膨らんだ胸部を豪快に揺らして、梨奥院梨子が現れた。

 一瞬その美しさに見惚れた鈴原鈴香は、しかし風紀委員の矜持の元、両手を左右に開いて女生徒を引き留めた。とおせんぼである。


「ふ、風紀委員です! あの、失礼ですが、その首元は……?」


「首元?」


 梨奥院梨子が、こてんと首をかしげる。ぶっちゃけこの時点で鈴原鈴香は大分ヤラレていたが、しかしまだ堕ちてはいなかった。


「タイが、ないようですが」


「あー」


 梨奥院梨子は六月の空を仰ぎ、それから太陽のように微笑んだ。


「ごめんなさいね。忘れてしまったわ」


 鈴原鈴香は一撃でノックアウトされた。

 そして二週間の猛アタックにより、鈴原鈴香は梨奥院梨子のロザリオを勝ち取った。

 圧倒的優勝。世界の全てが薔薇色だった。


 姉について語ったならば、次は姉を寝取った相手について語らねばならない。

 鈴原鈴香の不倶戴天は、名を花笠花火という。

 あろうことか、花笠花火は鈴原鈴香の親友だった。鈴原鈴香は、親友に、姉を、寝取られたのだ! なんという屈辱だろう。一面の雪の中、裸足で立ちすくんだドイツ皇帝ハインリヒ四世の心中もかくやである。

 二人の友情は、入学式で隣同士になったことから始まった。

 花笠花火は、ぴんと背筋を伸ばして学院長の講話に耳を澄ませていた。その横顔は端正であり、折り目正しく肩口で切り揃えた黒髪は艶々と光り輝き、なんだか清涼感のあるシャンプーの匂いがした。

 花笠花火は夜天に浮かぶ月のごとく美しい少女であったので、鈴原鈴香は、なんとしてもこの子と友誼を結びたいと考えた。なんだったら、より性的な関係もバッチコイだと思っていた。鈴原鈴香は惚れっぽく、おまけに思い込んだら一直線なところがある。この二つの特性は組み合わさるとロクなことがない。


「ここの挨拶って、『ごきげんよう』なんだって。知ってた?」


 式が終わった後、鈴原鈴香は完璧な笑顔で花笠花火に微笑みかけた。

 花笠花火は一瞬凍りついたように固まった後、頬を赤らめ、おずおずと答えた。


「うん。私は、内部進学組だから……」


「そうなんだ。わたし、受験組の鈴原鈴香っていうの。色々教えてほしいな」


「わ、私でよければ」


「オッケー。じゃあまず、貴女のお名前は?」


 花笠花火は、蚊の鳴くような声で「……花笠、花火」と答えた。苗字も名前も、儚くて綺麗だな、と思った。

 花笠花火は内部進学組であったが、社交性に欠けるところがあり、およそ友人と呼べる相手はいなかった。もちろんお嬢様学校だけあって、みな上品な節度と親切を持って彼女に接していたが、どこか一本、線が引かれていたことは疑い得ない。

 のちに花笠花火はその理由について、「うちは、成金だから……」と後ろめたそうに語った。令和の世にあって、出自が学校生活に影響を及ぼすことがあるなど、公立校出身の鈴原鈴香には慮外のことであった。ちなみに、鈴原鈴香の両親は共働きのサラリーマンであり、彼女が入学できたのは試験で特待生の地位を勝ち取ったがためである。


 鈴原鈴香と花笠花火は麗しい友情を築いた。少なくとも、鈴原鈴香の主観においてはそうだった。

 花笠花火は休憩時間のたびに鈴原鈴香の席へやってきたし、夜はメッセージアプリで長話をした。花笠花火は料理が趣味らしく、ときおり鈴原鈴香のために弁当を拵えて持参することがあった。いびつな形のおにぎりにはフォワグラやキャビアが入っており、そのアンバランスさに、鈴原鈴香は花笠家が成金であることを実感した。フォワグラ入りおにぎりとは、真のお嬢様からすれば失笑ものであろう。

 しかし鈴原鈴香は真のお嬢様ではなかったし、フォワグラはさすがに美味しいし、なによりおにぎりを差し出す鈴原鈴香のいじらしさは傑出していた。


「鈴ちゃん、あのね。おにぎり、作ってきたの……」


 中庭で、あどけない頬を赤らめて唐花華紋が入った巾着を差し出す花笠花火の姿は、まさしく一輪の花のようであった。鈴原鈴香が年上趣味でなければ、あるいは花笠花火がもう少し起伏に富んだ身体をしていれば、おそらく鈴原鈴香はその場で彼女の制服を剥ぎ取り、白桃のごとき柔肌にむしゃぶりついていただろう。しかしそうはならなかった。

 さすがに外はヤバいよね……。

 ギリギリのところで理性を働かせた鈴原鈴香は、笑顔でおにぎりを受け取り、もぐもぐ食べた。

 寮母さんが持たせてくれた一人前のお弁当を平らげたあとにあってなお、フォワグラおにぎりはとても美味しかった。

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