VRアイドル殺し

菱川あいず

居場所を無くした少女

《アイドル》

「俺の今の気持ちが分かるか? 麻美まみ?」


 黒い無地のTシャツに、ダボダボのジーンズを履いた細身の男。


 顔にはさして特徴が無く、整えられていない無精髭だけがただ目立つ。


 

 男の手には、マッチ箱が握られている。



 「麻美」と呼ばれたのは、その男より、干支を二回り分も若い女性である。


 赤のワンポイントが入ったセーラー服のような上衣に、白いフリルのミニスカートを履いている。


 スカートから伸びる生脚は、形も色艶も良い。


 顔のパーツもビスクドールのようにハッキリしていて、整っている。


 麻美は、アイドルなのである。



「アイドル様には俺の気持ちなんて分からないよな?」


 マッチ箱を握りしめたまま、男は、一歩前へ踏み出す。


 ペチャリという音。床には、ガソリンが撒かれているのである。


 ペチャリとまた音を立てながら、男はさらに前へと出る。


 もっとも、麻美との距離は一向に縮まらない。


 男が一歩前に出ると同時に、麻美もまた一歩ずつ後退りしているからだ。



「おい、麻美、いつものお喋りはどこに行ったんだ? こういうときに限ってだんまりか?」


 男は、さらに麻美へと迫っていく。



「きっと飼い犬に噛まれるなんて思いもよらなかったんだよな? 俺らみたいなバカなファンたちは、ずっと騙し続けられると思ってたんだよな? いつまでも肥やしにし続けられると思ってたんだよな?」


「……違う」


 麻美がようやく口を開く。



「私は、ファンのことをバカだなんて思ったことはない」


「よく言うぜ。ファンのことを騙してるんだろ? その気もないのに、色香を振り撒いてよお」


「違う」


「何が違うんだ!?」 


 男がもう一歩踏み出す。


 二人の距離が縮まる。


 もうすでに麻美は壁に追い詰められており、これ以上の後退りもできない状況だったのだ。



「騙してるじゃねえか!? 俺は、雨の日も雪の日も工事現場に立って働いて、稼いだお金を全部お前に注ぎ込んでんだよ!! それなのに、お前はそれを嘲りながら、俺から搾取した金でオシャレをして、裏でカレシとよろしくやってるんだろ!?」


「カレシなんていない」


「嘘つけ!!」


 男の唾が、麻美の顔にまで飛ぶ。


 それでも麻美は、まっすぐに男の目を見続けている。



「嘘じゃないよ」


「じゃあ、麻美、俺と付き合ってくれよ」


「それはできない」


「はあ!? 俺が今までいくらお前に貢いだか分かってるのか!?」


「分かってる。でも、付き合うことはできない」


 麻美は断固として言う。



「俺のことがそんなに嫌いなのか?」


「違う。ファンのことはみんな大好きだよ。当然ミキハル君のことも」


「じゃあ、どうして俺と付き合えないんだ?」

 

「ミキハル君は分かってないよ」


「俺に何が分かってないって!?」


 「ミキハル」と呼ばれた男がマッチ箱からマッチを一本取り出す。そして、箱の側面で擦って火をつける。



「分かってないのは麻美、お前の方だろ? この状況が分かってないんだ。もし、俺がここでこの火をガソリンに落としたらどうなると思う? お前と俺は間違いなく死ぬ」


 ただそれだけじゃない、とミキハルは続ける。



「この上の階は楽屋だろ? ここは消防法を無視して作られている雑居ビルだ。お前のユニットのメンバー全員が逃げ遅れて焼け死ぬだろうな」


「ミキハル君、お願いだから、メンバーは巻き込まないで」


「じゃあ、麻美、お前のすべきことは分かってるよな?」


 ミキハルは、火のついたマッチ棒を持ちながら、バッと両手を広げる。



「麻美、今、俺を抱きしめてくれ」


 ミキハルは勝ち誇った表情である。



「俺の女になるんだ。そうすれば、誰も不幸にならずに済む」


「……ミキハル君は私と付き合いたいだけなんだよね?」

 

「……ああ。そうだ」


「メンバーに恨みがあるわけじゃないんだよね?」


「もちろん。ただ麻美が欲しいだけなんだ」


 麻美は、ミキハルの顔をしばらくじっと見つめる。


 そして、「ごめんね」と謝る。



「はあ!? 麻美、お前、自分の状況が分かってるのか!?」


「どんな状況であれ、私はミキハル君のものにはなれない。ミキハル君のことは好き。感謝もしてる。でも、誰のものにもなれないの。だって、私は――」



 「アイドルだから」と麻美は言う。



 麻美は、どういうわけか、この極限的な状況において、ウインクをした。


 麻美がステージ上で幾人ものファンを魅了してきたウインク。



 そのウインクで、時が止まった。


 

 止まった時の中で、麻美は、反転する。



 麻美が追い詰められた背後には、大きな窓があった。


 麻美は、窓を開ける。



 そして、そのまま吸い込まれるように、窓の外へ――飛んだ。



 やがて、ボーリング玉を床に叩きつけたような鈍い音がする。



 そこで、ようやくミキハルの思考が戻る。



「おい……麻美……嘘だろ……ここは七階だぞ」


 

 ミキハルはその場に崩れ落ちた。



 そして、ミキハルの手から――火の灯ったマッチ棒がポトリと落ちた。


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