回遊少女

時津彼方

1.

「……それにしても、このタイミングで美容室空いててよかったなー。おかげで余裕もできたし、運が良かった」


 周りに誰もいないのを確認しつつ、独り言をつぶやく。

 家に続く一方通行の一本道、それも午前十時ともなると、さすがに人通りが少ない。

 そのはずだった。


「ん? 家の前に……あれは、誰だ?」


 目を凝らすと、自室のあるマンションの入り口の前に誰かが立っているのが見えた。近づくにつれて、だんだん判別できるようになってくる。


「うーん……って、彩紗あやさか?」


 ちょうどよかった。話さないといけないことが……。


「…………あ、やっと来た。誠吾せいご、インターホン押しても返事がなかったから、ずっと待ってたんだよ?」


 少しすねた態度を取っているが、言葉尻からはこちらへの信頼と、かすかな怯えが滲み出ている。


「それはごめん。で、どうしたの?」


「どうしたって?」


「いや、待ってたんなら、俺に何か用があるんじゃないのか?」


「ああ、そうだったね」


 こちらから少し距離を取り、改まった態度をとる彩紗を前に、僕は何か妙な空気を感じた。


「……私とさ、出かけない?」


 それだけじゃないのは長年の付き合いだからわかる。しかし、言葉はそれだけで、こちらの返事を待っているようだった。


「いいよ。でも、さすがにちょっと準備はさせてほしいかな」


「分かった。じゃあちょっと待ってる」


「上がって待つ?」


「ううん。さっきまでの時間に比べたら、ね」


 少し人間っぽい悪戯心をのぞかせた彩紗に、少し安心する。


「にしても、どこ行くの?」


「内緒」


「なんで? 今日俺誕生日だっけ?」


「ううん。誠吾の誕生日は、八月の一日」


「よくご存じで。じゃなくって、サプライズにしても、用意は変わるでしょ?」


「まあ、そうだけど」


「着替えは?」


「あってもいいかもね」


「飲み物は?」


「買えるけど、あってもいいかもね」


「お金は?」


「まあ、ちょっと多めの方がいいかもね」


「……まさか、夜逃げ?」


 茶化して言ったつもりだったが。


「……」


 彩紗は黙ったままだった。顔から感情は読み取れない。


「……ごめん。だったらキャッシュカードも持ってくる」


「待って。その、借金取りに追われているとかじゃないから。そういうのじゃ、ないから……」


 急いでマンションのドアを通ろうとすると、彩紗は咄嗟にそのまえに立ち、誤解を解こうと必死にこちらに伝える。


「……分かった」


 俺は少し急ぎ足で階段を上がった。

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