第1話 明るすぎる親指姫 その2

 教室を出ると同時に“親指”が理久に声を掛けた。

「あのー」

 理久がぎくりと立ち止まり、弾かれたように目を落とす。

 親指少女が理久を見上げていた。

 頬を膨らませた不満顔で。

「な、なにかな」

 おずおずと問い掛ける理久に親指少女はきっぱりと言い放つ。

「この位置、イヤなんだけど。なんとかなんない?」

 その理由は問うまでもない。

 理久の姿勢はサッカーでいうところの“フリーキックの壁状態”、すなわち両手で股間を覆う姿勢になっていた。

 よりによって“彼女のいる左手を下”にして。

 もちろんわざとではない。

 教室を出る時に集中する視線を避けるべくあえて両手を下げ、さらに右手で左手を隠した結果、自然にそうなっただけで悪意もなければ下心もない。

 今になって思えば“上着のポケットに左手を突っ込む”という対処もあったが、小学生の頃からポケットに手を入れっぱなしにすることを厳しく咎められてきたこともあり、さっぱり、そんな考えに及ばなかった。

 理久にはそういう融通の利かないところがある。

 幼少時に親や小学校の教師から叩き込まれてきたことをいつまでも守り続けているような。

 普通ならそういう“幼少時の規則”は年齢を重ねるうちに友人たちとの関わり合いを経て失われていったり軽んじられていったりするものだが、いつまでも“幼少時の規則”の呪縛から逃れられないところが理久という人間がいかに友人が少ないかを表してもいた。

 それはともかく――。

「ごめん」

 理久は顔の正面に左手を持って行き、変貌した親指をいまさらながら凝視する。

 一方、視点の高くなった“親指姫”は“見晴らしがよくなった”とばかりに、きょろきょろと周囲を見渡している。

 その表情がそれまでよりキラキラして見えることから、彼女は不安よりも好奇心が優先する性格タイプらしいことが窺える。

 そんな彼女をしばらく眺めていたい理久だったが、呼び出されている立場であることを思い出し、左手の位置をそのままに改めて応接室へと歩き出す。

 少女は歩き出した瞬間に「おおっ」と感嘆の声を上げ、あとはそれまでと同じように好奇心に満ちた視線で周囲を見渡している。

 その様子は理久を巨大な観光施設か乗り物だとでも思っているように見える。

「なんか……落ち着いてんな」

 半ば無意識につぶやいた理久に少女がすました表情を向ける。

「焦ってもしょーがないってゆーか。絶対もとに戻れるし」

「へえ、そうなのか」

 少し驚いた理久に少女は真剣なまなざしで答える。

「根拠なんかないけど……。でも、そう信じればそーなる。それに……」

「それに?」

「今までもいろんな目に遭ってきてるしね。へへ」

 そう言って笑う。

 その様子に理久は呆れるよりも感心する。

「強いなあ」

 いきなり見知らぬ男の親指として目覚めたら、もっと混乱してもよさそうなものだけどな――そこまで考えて、理久は気付く。

 この子はそもそも何者なのだ?

 夢で見た女の子が親指になっていると思っていたが、もしかしたら、理久の親指が女の子になった可能性もあるんじゃないのか?

 そんな思考を少女が遮る。

「なに考えてるの、お兄さん」

 理久は言われ慣れない言葉に一瞬、戸惑う。

「お兄さん、て……僕?」

 問いながら無意識に渋面になっている理久に少女が問い返す。

「そうだけど……。もしかしてイヤな呼ばれ方だったらごめんなさい」

 一転して見せるしおらしい表情に、理久はあえて明るく答える。

「いや、びっくりしただけ。ていうか妹を思い出したわ。別にお兄さんて呼ばれてたわけじゃないけど」

「妹さんいるんだ」

「うん。で、なに?」

 呼ばれた真意を聞いていない。

「そうそう。お兄さんって七尾だっけ、名字」

 教室で呼ばれたのを聞いていたのだろう。

「そうだよ」

「七尾……なに?」

「理久だよ、僕は。七尾理久」

「理久さん、か。あたしは戸綿華穂とわたかほ

 その言葉に理久の抱いていた“女の子が親指になったのか、親指が女の子になったのか問題”はあっさり解決した。

 もともと“戸綿華穂”という名前だった女の子が理久の親指になったのだ。

 その経緯は相変わらずさっぱり謎なままだが。

 そんなことを思う理久に華穂が笑顔を向ける。

「ま、そう長いつきあいにはならないと思うけど。よろしくね」

「ああ、うん」

 華穂が差し出した小さな手に、理久は右手の人差し指を突きだして応える。

 華穂はその人差し指に「おっきー」と歓声にも似た声を上げて自身の小さな手を添える。

 その様子を見ながら理久は考える。

 華穂にとって“自分の下半身が理久の左手になっている”のと同様に、理久にとっては“自分の親指が華穂になっている”のが今の状態である。

 つまり、華穂だけでなく理久にとっても“身体の一部が変容している”という前代未聞かつ科学的に説明できそうにない怪奇現象に見舞われているのだ。

 にもかかわらず、今の理久は自分でも不思議なくらい焦ってはいない、困ってはいない、戸惑ってはいない、不安を覚えてはいない。

 根拠のない憶測ではあるけれど、どうやら“華穂と名乗った親指”の、深刻さを感じさせない楽観的な表情と口調が理久を落ち着かせているようだった。

 とはいえ、やはり、リラックスしている場合ではない。

 訊きたいこと、訊かねばならないことはいくらでもあるのだ。

「――と」

 そんなことを考えながら歩いていたせいか廊下の段差につまずいて我に帰る。

 いつのまにか、教室のある南校舎から応接室のある中央校舎への渡り廊下に差し掛かっていた。

 それまでの殺風景な校舎内から花壇や庭木のある中庭に達したことで周囲の様子が一変し、華穂の瞳がさらに輝く。

 もっとも、まだ三月の半ばにもならない今の時期では、春の花で花壇が賑わうにはもう少し時間がかかるのだが。

 そこへ理久が問い掛ける。

「ところでさあ」

 華穂は中庭を通ってくる春の風に煽られて顔にかかる髪を抑えながら理久を見る。

「なあに」

「華穂ちゃんって何者? あと、夢の中で会ってるよな? で、どうして親指に――」

 その時、聞き慣れないエフェクトのかかったような声が割って入った。

「見つけたぜ。華穂」

 声の方へ“誰?”と理久が顔を向ける。

 中庭に植えられた背の低い松の向こうから“奇怪なものたち”が理久を――正確には理久ではなく華穂だろうが――を見ていた。

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