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本日も朝の早い時間から馬車に揺られているカナは、途中休憩の後から何故か座席がアズベルトの膝の上になり困惑していた。
「アズ、私は大丈夫だから、せめて隣に座らせてくれない?」
「いやダメだ。まだ道のりは長いんだ。せっかく行くのに到着するまでに疲れてしまったら大変だろう?」
今日は、近々統合される事になっているオラシオンの領地視察の為、現地に向かっているところだ。統合される事について正式な発表はなされていないが、両領地では噂程度には知られている。大々的に発表する時に、大きな目玉の一つとして新規事業の計画があるのだが、それの一貫で要地の視察が目的だった。
後はカナにカナリアの生まれ故郷を見せてやりたいというアズベルトの意向もある。彼のスケジュールが立て込んでいる事もあって、視察の時間は今日しか取れていない。よって観光の時間は作れないと思うと言われたカナだったが、外の世界を見られる事、それがカナリアの故郷である事が嬉しくて、二つ返事で同行を決めた。
領地が隣同士とは言っても、移動には時間がかかる。しかもカナの体調を考慮して馬車の移動速度もゆっくりとなることから、朝の早い時間からの移動となる。座席には大きなクッションが置かれ揺れに対する対策はなされていたが、それでも長い時間揺られているとどうしてもお尻が痛くなる。体調面での不安はもうほとんど感じていないカナだったが、体力面が心配だったアズベルトは休憩明けからこれ以上は身体に負担が掛かるからと、ここに座りなさいと自らの膝を差し示した。
初めは冗談だと思ったカナも、真面目な顔で手を引かれ、こうなったらもう言う通りにするしか選択肢が無いという事も分かっていたので、どんな羞恥プレイかと赤顔しながら自らアズベルトの膝に乗ったのだ。
横抱きにされてお腹に腕を回され上半身を預けるが、これではアズベルトが疲れてしまうのでは無いかと心配になる。
「アズが疲れてしまうのではなくて?」
「俺なら大丈夫。嫌なら別の方法を考えるが……」
「嫌じゃないの……ただ……恥ずかしくて……」
そう言って俯くカナは耳まで赤い。そんな風に恥じらう姿も愛らしくて、アズベルトはカナのこめかみにキスをした。
「嫌じゃないなら慣れてもらうしかないな」
カナの頬にアズベルトの手が触れる。いつもの様に頬の高いところを掠める様に撫でられて、カナは火照った顔をゆっくりあげた。目の前には此方をやんわりと見つめる琥珀色がある。
「俺は時間があるならこうしてカナと触れ合いたい。カナも同じ気持ちでいてくれるなら、こんなに嬉しい事はない」
「アズ……」
「カナの身体が心配なのもそうだが、俺がこうしていたいんだ。だからやはり慣れてもらはなくてはな」
不敵に口元を歪めふわりと目尻を緩めて、覗き込むようにカナを見つめてくる。絶妙な力加減で落としにくる美顔に、敵わないなぁと観念しながら、触れるだけの優しいキスを受け入れた。
朝早くにお屋敷を出発した馬車は、フォーミリオの街中を駆け抜け穏やかな林道をしばらく走る。オラシオンとの領境にある宿屋で休憩を取り、直ぐにオラシオンの領地へと入った。
フォーミリオ同様、気候が穏やかで比較的安定しているオラシオンでは、農業が盛んだと言う話だった。林をしばらく走り、眼前が開けたところでまず目に入ったのは、雪化粧された美しい姿で雄大にそびえる大きな山だ。頂きに雪を纏いその地を護る雪山を水源とする豊富な水量の大河がオラシオンを二分している。工業や街が発展しているフォーミリオとは違い、馬車で走る街道の両側にはすでに広大な畑や牧場が広がっていた。
カナの故郷も農業や酪農が盛んなところだった。結婚して移り住んだ地では、一年の大半を雪で覆われた山が四方を囲んでいたし、少し街から離れるとそこには田園風景が広がっていた。四季に合わせて色合いや姿を変えていくその景色が懐かしい。そんな事を思い出しながら、郷愁に耽り、窓の外をじっと眺めていた。
そうして景色を堪能しながら、現地で待っていた案内人と共にいくつかの主要地を見て回った。
「こんなに綺麗な場所なのに、観光出来る場所や休める所が少ないのは勿体無いわね」
「え?」
次の目的地へ行く為の移動中の馬車の中でポツリと零したカナに、アズベルトが驚いた顔を向けた。やはり彼の膝の上にいたカナは、間近でその美顔を目にしていた。農地は農地でしかないと考えていたアズベルトにはあまりにも突拍子がなくて衝撃的な意見だったのだ。
「オラシオンは農地だから、避暑に来るものはほとんどいないんだ」
「そうなのね。でもそういう場所を設けて、もっとちゃんと宣伝したら、遠くから足を運ぶ人って増えるんじゃないかしら?」
「…………」
「フォーミリオから日帰りで馬車ツアーとか? 現地でしか食べられないような食事やおやつを用意して、特別感を出してあげたりしたら、退屈している貴族のおばさまなんて食い付くんじゃない?」
「……なるほど」
「経費的に厳しいのなら、景色のより美しい時期だけの期間限定にしてみるとか。余計に特別感が出ると思うわ」
「……それ、いいな」
最後に訪れたのは、オラシオン領の中でも有数の牧場主の屋敷だ。作物の栽培も手がけているが、ここでは家畜の飼育がされており『ミルク』の生産量が領内でもトップクラスとの事だった。
屋敷へ案内され出迎えてくれたのは、牧場主とカナリアの両親だった。ここの主人はアズベルトとも昔からの知り合いで、領主であるカナリアの両親とも懇意にしている。彼らはカナリアとの再会を心から喜び、彼女が元気な姿でこの地を訪れるまでに回復した奇跡に、驚きを隠せないようだった。
再会の喜びを分かち合った後は、男性陣は直ぐ様仕事の話になり応接間へと移動していった。女性陣はそんな夫達に呆れながら、場所を庭へと移しティータイムとなった。
「このお茶、とても美味しいですね」
一口飲んで驚いた。茶葉は同じ物の筈なのに、香りも味も別物のように感じられたのだ。
「水が良いからよ」
教えてくれたのは母プリメールだ。優雅にカップをソーサーへと置くと、嬉しそうにカナを見つめる。
「雪山からの川や地下水には栄養が豊富に含まれていて、作物もヌルも良く育つの」
こちらの屋敷の女主人で母の友人でもあるルティーが教えてくれた。因みに『ヌル』と言うのがミルクを生成する家畜の事だと、側に控えるナタリーがこっそり教えてくれた。
三人が囲むテーブルには美味しいお茶だけでなく、茶菓子や軽食も用意されている。ルティーが手配したもので、どれもこれも美味しかった。サンドイッチに挟んであった卵は味が濃くて驚いたし、ヌルのミルクも味見をしたが少しクセがあったものの、脂肪分が濃くて美味しかった。
こんなに美味しいミルクや卵が手に入るのなら、美味しいお菓子や料理が作れそうだ。そう思っていたのに、それらのほとんどが輸出に回ってしまうという。この広大な土地を維持管理する為には、やはりそれ相応にお金が掛かってしまうようだ。せっかく地元で美味しい食材が採れるのに、そこで味わう機会が少ないというのは残念だと思った。
「お母様、ルティーさん。私にお菓子を作らせてもらえませんか?」
「「ええ!?」」
二人は同じ顔をして驚いていたが、「今までにやりたかったけど出来なかった事に精力的に挑戦しているところ」なのだとナタリーが上手く説明してくれて、それに酷く感銘を受けたらしい二人は快く許可してくれた。なんなら瞳を潤ませながら。
基本、みんなカナリアに甘い。
作るものはプリンにした。ミルクの美味しさを伝えるには、これが分かりやすく作りやすいと思ったからだ。これだけ味の濃いミルクなら濃厚なプリンが出来る事だろう。本当なら、こちらの農場で作られた野菜を使って料理もしたかったのだが、今はぐっと我慢する。
お屋敷のキッチンへ案内してもらい、プリメールとルティーにナタリーも加わって、四人で楽しくおしゃべりをしながらプリン作りに励んだのだった。
「……なんて美味しいのかしら……」
「これが本当にミルクと卵と砂糖だけで出来ているなんて信じられないわ」
出来上がったものを早速皆んなで試食している。普段自分で作る事のない母達には新鮮な体験だったろう。今食べているものの材料の少なさにも驚いていたが、一番はやはり味だろう。二人の蕩けた表情から十分に伝わってくる。それが何より嬉しかった。
「ミルクも卵も、それぞれがとても美味しかったから、合わせたら絶対美味しいと思ったのよ」
「本当に驚いたわ! 素朴な味付けだけど、驚く程美味しい」
「何個でも食べられちゃうわ」
興奮気味に話している夫人達に笑みを向けると、カナがポツリと溢す。
「アズは忙しいかしら。食べてもらいたかったわ……」
呟きを聞いた途端に夫人達が立ち上がる。驚いて顔をあげたカナが二人を見た時には、母が使用人に声を掛けていた。
「今すぐ呼びましょう! 男性陣にもカナリアの力作を味わわせてあげなくちゃ!!」
直ぐに夫たちが呼ばれ、皆んなでダイニングテーブルを囲んだ。カナリアの手作りだと聞いた父と牧場主のゼジルは、嬉しそうにプリンをひと匙掬うと口へと入れる。その顔がみるみる驚きに変わっていくのを見て、カナは夫人達と笑みを交わした。父のアルクトスは感動のあまり打ち震えており、母が大袈裟ねぇと笑っている。アズベルトも一口食べて驚いたようで、美味しいと気に入ってくれた様子だ。
「使ったのはここで採れたミルクと卵、後はお砂糖だけよ。使った食材が美味しいから、プリンもこんなに美味しく出来たのよ」
ルティーとプリメールにはもうレシピは教えてある。帰ったらナタリーとまた作る事になるだろう。
「せっかく故郷で美味しいものが作られているのに、それを地元の人達が味わえないのは悲しいわ」
それについては牧場主の夫妻も思うところがあるのだろう。確かにそうだなと頷いている。
「お野菜だって卵だって、採れたてが買える場所があれば、私なら毎日買いに行くわ!」
「……」
アズベルトも何やら考え込むように腕を組んでいる。カナの世界であった道の駅や直売場をイメージして言ったのだが、上手く伝わっただろうか。
「そうだわ! 地元の食材だけを使った食堂なんかがあれば素敵ね! だって絶対に新鮮で美味しいものが出てくるに決まっているもの!」
元の世界には牧場の直営でそういったお店をやっているところもあった筈だ。そんなところがここにも出来れば良いのになぁという願いを込めて。ゼジルが近くの執事に何やら耳打ちしているから、もしかしたら会議のネタにはなるかもしれない。
「ミルクや卵が本当に美味しいから、他にも色々なお菓子が作れそう。お水が美味しいなら、パンもいいかもしれないわ」
「リアがこんなにお菓子作りに興味があるなら、もっと色々一緒にやりたかったわ」
正面に座るプリメールが優しい眼差しを向けている。カナには少しばかりの寂しさも含まれているように感じられた。
「私に子供が出来たら絶対に一緒にお菓子作りをするわ。その時はお母様も一緒に。親子三代でなんて、素敵じゃない?」
「「「「え?」」」」
その場にいる全員の視線がカナへと突き刺さった。
「……え?」
母の隣に座る父は今にも泣きそうな程青ざめ、反対に母は嬉しそうに微笑んでいる。その隣のゼジルとルティーは「あんなに身体の弱かったカナリアが」と目頭を押さえてしまっていた。
なんで……? と思いながら隣のアズベルトに助けを求めるも、何故か非常に機嫌の良い彼に手を掬い取られ、手の甲に熱烈なキスをされた。
「私……何かマズい事言っちゃった?」
「いいや。全然。……俺は今夜からでも構わないよ?」
「ん? 何が?」と首を傾げるカナの耳元にアズベルトが顔を寄せてくる。
『後継ぎはやはり大切だからな……』
途端に顔を真っ赤に染めて俯くカナに、アズベルトは楽しそうにくすくすと喉を鳴らした。勢い余って爆弾を投下してしまった事に気付いた時には、アズベルトの大きな手の長い指が自分の手に絡みつくように握られていた。
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