第三章 近づく心

「今日と明日は仕事を休みにしようと思うんだが」


 二人きりのダイニングで遅めの朝食を一緒に摂りながら、アズベルトが唐突に告げた。


「……え?」


 驚いたカナが顔を上げると、完璧な微笑を浮かべた彼とばっちり目が合ってしまった。たちまち今朝の衝撃的な朝がフラッシュバックして来る。



『おはよう。良く眠れた?』


 薄っすら開いた瞼の奥で、焦点の合わない瞳がゼロ距離でイケメンを認識した際の衝撃といったら……。その上彼は上半身裸で、此方も乱れた服の胸元は、穴があったら入ってしまいたいレベルで開いている。お陰でほぼ徹夜後の睡眠にしては寝惚ける暇も無くスッキリ起きられたが、朝からとんでもなく脳内はパニックに陥ってしまった。一体どこまで許したのだったかと思い出そうにも、この状況を理解したい脳みそと、昨夜の出来事を思い出したい脳みそがせめぎ合っていて、ぐるぐると回るだけの思考回路は一向に纏まらない。

 そのうちにアズベルトが可笑しそうに喉を鳴らし、状況を説明してくれたお陰で、カナは何とか平静を取り戻したのである。



「ずっとまともな休みが取れていなくてね。レイリーにも『きちんと休みを取らなければ良い仕事は出来ませんぞ』って、小言を貰ってばかりなんだ」


 レイリーというのは、本宅でアズベルトの右腕として手腕を振るっている執事長の事だ。アズベルトの両親の代から支えてくれている人物で、彼が信頼を寄せている人でもある。カナの目には穏やかな空気を纏う老紳士に映るのだが、アズベルトに言わせるとそれだけではもちろん無いのだそうだ。若くしてフォーミリオの主となったアズベルトには無くてはならない人なのだろう。


「ふふっ……それだけ心配してくれてるって事ね」


「それは有り難い事なんだけどね。……だから、この際ゆっくり時間を使ってみようかと思うんだ。私たちはもっとお互いを知るべきだろう?」


「えっ、ええ……そうね……」


 まるで私の為に時間を割いてくれるって言ってる様に聞こえるのだけど……。都合良く受け取りすぎかしら……?

 それに……私は……


「カナ、今日の体調は?」


「え、と……大丈夫よ」


「だったら天気も良いし、一緒に外を散歩しないか? 連れて行きたい場所があるんだ」

 

「え!? いいの?」


 驚いて顔を上げると、先程よりも更に穏やかに微笑むアズベルトの表情に目を奪われてしまう。見慣れない彼の姿に、カナの心臓が静かに音を立てた。


「もちろん。きっと気に入ると思う」


「……ありがとう。すぐに支度をするわ」


 朝食を終え部屋に戻ると、クローゼットを開け着替えを吟味した。仮住まいとはいえ、中にはたくさんの服が用意されている。見慣れたものから決して一人では着ることの出来ないだろうものまで様々だ。それなのに、聞いたところによるとこれらは部屋着の部類で、しかもほんの一部だという事だ。ナタリーがいないから、一人でも着られるものでなければならない。カナにはどれを選ぶのが正解なのかは全くわからなかったが、散歩ならたくさん歩くかもしれないと考え、膝下丈のワンピースに決めた。日差しが気になるから袖は長いものにしようかと思案しながら、カナは先程のアズベルトの言葉を反芻していた。


 ——私たちはもっとお互いを知るべきだろう?


 彼はああ言ったけど、どういう意味で言ったのだろうか。『カナリアのフリは出来ない』と、そう言ってしまった手前、一緒には居られないと思っていた。例え身体はカナリアだとしても、中身は全くの別人なのだ。カナとしてしか生きられない自分を側に置くのは、いつまでも二人の傷を抉ってしまいそうで怖い。


 ……それでもカナリアさんは……

 どうしよう。今の率直な気持ちをアズに伝えたい……。でも……彼はどう思うだろう……。


 最後の手紙に書かれていた『どんな姿になっても』という彼女の強い想い。それが今のこの現状を生んだのなら、カナリアの想いと覚悟は自分にしか叶える事が出来ない。帰る事が叶わなくなった今、この世界で生きていくしかない。だからもし許されるのなら、このままアズベルトの側に置いて欲しい。ただ、それを伝えるのは怖かった。一度突き放して置いて、「今更何を言っている」と言われたら……。

 そんな風にぐるぐると考えを巡らせていると、扉がノックされた。着替えの手が止まっていた事を思い出し、慌ててワンピースを身に付けた。淡いピンク色である事と、やけにフリルが多い事は気にはなったが、アズベルトが今にも入室してしまいそうな気がして選び直すという選択にはならなかった。


「ちょっ、ちょっと待って!!」


『カナ? 着替えに困っているのなら手を貸そうか?』


 扉の直ぐ側から聞こえる助力の申し出に、カナの頭に何故か今朝の艶かしいアズベルトが浮かんだ。一人で勝手に赤面しながら急いでボタンを閉めていく。アズベルトに悪意はない。ただ単に困っているなら助けるよ、という事だろう。このクローゼットの中身を見ればわかる。何故こうも人の手を借りなければ着られないようなドレスばかりなのか。それが普通だからと言われればグウの音も出ないが、今になってナタリーの存在の有り難さが良くわかる。


「大丈夫!! 少し考え事してて、もうすぐ!! もう終わるから、まだ開けないでっっっ」


 必死さが伝わってくれた様で、アズベルトの笑い声と了承の返事が返って来た。




「お待たせしました」


 何とか着替えを終え、扉の外で待たせていたアズベルトに声を掛ける。彼は「待つのも楽しみの一つだから」と、大人の余裕の笑みを見せている。歳が一つしか違わないのにこの落ち着きようはどういう事だろうか。自分が幼子の様に思えてしまい、服のチョイスも相まって今更ながら羞恥心が込み上げて来た。今からでも着替えてしまおうかと俯きかけた時、カナの前に大きな手が差し出された。


「良く似合っているよ、カナ」


 まるで此方の不安を見透かしたかの様なタイミングに驚いた。同時に羞恥心が薄れていき、自然と口元が綻んでいく。以前は差し出された手に戸惑いを覚えるばかりだったが、今はそうは思わなかった。


「ありがとう」


 彼の指先に自らのそれを重ねると、ゆっくり大階段を下り、二人は玄関ポーチへと向かった。




 屋敷の外はどこまでも青空が広がる良い天気だ。時折髪を揺らす穏やかな風は、日本で言うところの春から夏へと移り変わる頃の様な、暖かくて気を抜くとうとうとしてしまいそうな、そんな懐かしさを感じさせるものだった。ここの気候はこんな風に暖かく穏やかな事が多いのだそうだ。梅雨の様な雨期と、暖炉に薪を焚べる様な寒期もあるにはあるが、雪や霜が降りる程の寒さはほぼ無く、基本的には春の様な気候が続くのだと言う。

 それに驚いていると、そちらはどうだったのかと尋ねられ、カナは日本の四季の話をした。春には桜が咲き、その樹の下でお花見をする事。夏は暑くて窓辺に風鈴を吊るして風情を楽しんだり、夜空に花火が上がるのを眺めたり、浴衣を着てお祭りをまわる事。秋になれば木々の葉が赤や黄色に色づき、紅葉を楽しむ事。冬はとても寒くて雪がたくさん降り、毎年雪かきが大変な事や、子供の頃のスキー授業が苦痛だった事など。

 アズベルトにとっては『四季』という言い回しや、それぞれの季節を楽しむという考え方が新鮮だった様子で、とても興味深そうに聞いてくれた。この国にもお祭りはあるらしいが、実りの祈願だったり雨乞いの意味合いだったりと、儀式の要素が強いという。『魔術』という文化が息づいているこの国ならば、そういった形式的な儀式が行われるというのも合点がいく。日本とはまた違った祭りを見てみたいと言うカナに、此方の文化にも興味を持ってくれて嬉しいアズベルトは、一緒に祭りを見に行こうかと提案したのだった。


 他にもアズベルトと二人、色々な話しをしながら、屋敷の眼前に広がる泉を迂回するようにゆっくり散歩した。時折、水面と木々の葉を揺らす風がザァーっと通り過ぎていく。その風に帽子を取られそうになってよろけてからは、アズベルトに手を繋がれてしまった。エスコートとは違うそれに戸惑い、「危なっかしいから」と艶やかな眼差しを向けられてしまえばもう何も言えなかった。


 泉を挟んで屋敷の向かいに古い塔がそびえ立っていたが、今日の目的地はここのようだ。屋敷から見た時はそうでもなかったが、近くで見上げる塔はそれなりに高さがある。中に入ると、想像した通り螺旋階段が果てしなく続いている。これを登るのかぁと、気合を入れ一段目に足を掛けようとした時、カナの身体がフワリと抱き上げられた。


「ひゃぁ!!」


 なんでもっとこう可愛らしい悲鳴を上げられないのかと自分に幻滅しながら、目の前に現れた端正な美顔に抗議の眼差しを向ける。咄嗟に首へしがみついてしまったのは不可抗力だと心の声で言い訳しながら。


「アズ! 重いから降ろして!!」


「いや、さすがに此処は無理だろう? また寝込まれたら俺が困る。だから黙ってつかまっていなさい」


 今『俺』って。


 そんな風に砕けて話してくれる事が、少しずつ心の距離が縮まっている気がして、何だかこそばゆい気持ちになった。


「でもこの階段は——」


「これでも元騎士団長だ。あの頃の訓練に比べたら取るに足らないさ。それに、カナは重くなんかないよ」


 あれ? 今……そういえばさっきも——


 フッと表情を崩し、さっさと歩き出してしまったアズベルトにつかまり、カナは固く逞しい胸板に身体を預けた。



「わぁ……ステキ……」


 何の負荷も感じさせない足取りで階段を登りきると、目の前には大パノラマが広がっていた。アズベルトの腕から解放されたカナが、近くの柵へと歩み寄る。塔の下には太陽の光をキラキラと反射する泉が、その向こうには別荘がまるでミニチュアの様に建っている。泉と屋敷を囲む様に広がる木々の向こうには、大きな城が重厚な雰囲気を纏って鎮座していた。童話で描かれるようなメルヘンな雰囲気は一切無く、シンメトリーで厳かに聳えるそれは、西洋風のいかにもこの国のシンボルであると知らしめるが如く威風堂々とそこにいた。その城を円形に囲う様に護る様に街が形成されている。

 日本では決して見ることの叶わない光景に目を奪われ、しばし時を忘れてその景色に見入っていた。


 ふと視線を感じ、風に遊ばれる髪を手で耳にかけながら隣を見ると、アズベルトがじっと此方を見つめていた。いつから見られていたのか、全く気付かずにはしゃいでしまった事が恥ずかしい。


「あ……あんまり、見ないで……」


「何故? 妻の喜ぶ顔が見たいと思うのは、当然だろう?」


「っ!!」


 穏やかに凪いだ琥珀色の瞳に捕らわれて、カナの身体は動けなくなった。



「カナ。どうか結婚して欲しい。……妻として、側にいてくれないか」

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