章閑話—5 メイドと執事—1
アズベルトの前で泣き崩れた翌日、ナタリーは小さな荷物を持って主人の執務室前にいた。控えめなノックをすると、入室を許可する声が掛かる。
「ゆっくり休みなさい」
挨拶に行くと、アズベルトはそう言って微笑んだ。その顔には疲労が色濃く出ている。こんな姿の主人を残して実家に帰るのは気が引けたが、それ以上に自分自身が限界だった。昨夜から姿を見ていないカナリアの事も心配だったが、部屋をノックしても反応が無く、更には今どんな顔をして会えば良いかも分からず、結局そのまま別荘を出てきてしまった。
別荘には朝と夕方に本宅から馬車が通っている。手伝いの為の人間と、食材や薬を運ぶ為だ。人選はアズベルトと本宅のメイド長が行なっている。本宅の使用人達はカナリアは天使だという者ばかりだが、その中でもナタリーから見てもアズベルトに近しく、カナリアを特に大事に想っている人間ばかりが通っている。以前はカナリアの主治医も頻繁に来ていたが、最近はめっきり姿を見なくなった。それだけカナリアが元気になったという事で、喜ばしい限りだ。本宅へ帰る馬車の中で同僚達がそんな事を嬉々として話しているのを聞きながら、ナタリーは流れる景色をぼんやりと眺めていた。
カナリアは戻らない
アズベルトに言われたその言葉は棘となって、ナタリーの心に深く深く突き刺さったままだった。
本宅へ到着すると、真っ直ぐメイド長の元へと向かう。この時間ならおそらく厨房か執事長の執務室だ。厨房に行ったがここにはいないと言われ、執務室へ向かった。
扉をノックしようとしたところで、中から出てきたクーラと鉢合わせた。「なんでここに?」と怪訝な顔をされたが、仕事中でしょと誤魔化し、なるべく顔を見られないよう視線を外して室内へ入った。一応瞼は冷やしたがきっとまだ腫れている筈だ。彼にそれを問いただされて説明する余裕なんてこれっぽっちも無かったのだ。
メイド長のコーラルは恰幅が良く朗らかに笑う母親の様な人だ。十歳からお屋敷で手伝いをしていたナタリーにとっては第二の母である。
執務室に入ったナタリーの姿を見るなり、コーラルは側へとやって来た。「暇を出された」事は耳に入っている筈だ。にも関わらず、コーラルは何故かを聞かなかった。目元が腫れている事には気付いているだろうに、いつもの様に微笑むと頭をそっと撫でてくれた。
「こちらの心配はいらないから、ゆっくり休んでらっしゃいな」
「……はい」
一言返事を返すので精一杯だった。それ以上何かを言ってしまえばその場で泣き出してしまいそうで、一礼すると誰にも会わないよう裏口から外へ出た。
これからどうなってしまうんだろう
不安がいつまでも頭を巡るのに、答えは一向に見つからない。カナリアを失った今、自分が何を道標に生きて行けば良いのか分からなかった。
私は一体どうすれば……
そんな不安を抱きながら、街へと続く一本道をとぼとぼと歩いていた時だ。
「ナタリー!!」
背後から大きな声で名前を叫ばれ、驚いて振り返った。慌てた様子で走って来るのは、先程執務室の前で鉢合わせたクーラだ。泣き腫らした瞼に気付かれたみたいだ。振り返ってしまった手前、聞こえなかったフリにはもう遅い。さて、どう言い訳しようかと思案するナタリーに追いついたクーラは、いきなり両肩を掴んで来た。
「ナタリー行くな!!」
いつもニコニコと笑っているイメージの彼とは別人の様な真剣な眼差しで迫られ、ナタリーの心臓が飛び跳ねた。
「なっ……な、んで……」
優しく穏やかな常とは全く違う強い力で引き寄せられ、嫌でも男性を意識させられてしまう。驚きにバクバクと激しく動く心臓は、いつもと違う彼を見せつけられた事で、別のドキドキへと変化していく。
「泣く程嫌なら断っちまえ!!」
「っ!! ……?」
やっぱり泣いたのはバレていた……。ただ後に続いた台詞はどういう事だろう。
「カナリア様だって、いきなりナタリーが居なくなったら困るだろ? 屋敷の皆んなだってだな——」
やけにあたふたしているのも、言葉がチグハグなのも何かおかしい。いつもの彼らしくなくてナタリーは怪訝な表情でクーラを見た。
「私は旦那様から休暇を頂いただけよ? これから忙しくなるし、カナリアの体調も良くなってきたから今のうちにって」
半分本当、全部嘘じゃない。帰って来れるかどうかだって決まってないくせによく言うわ、と自分で自分がおかしくなった。
「……え?」
今度はクーラが驚いて固まっている。ナタリーの返答は想定外だったようだ。
「何だと思ってたの?」
「ナタリーに見合いの話が来てて、その話を進めるから……それで帰るって……あれ?」
「それ、誰から聞いたの?」
「……執事仲間に……」
「やられたわね」
「……やられたな……」
同じ世代の仲間の中に、クーラやナタリー(特にクーラ)にイタズラを仕掛けて遊ぶ人達がいるのだが、きっと彼らの仕業だろう。どうせまたクーラをからかって遊んだのだろうが。
早とちりして恥ずかしくなったのか、視線を外して頬を染め、「ごめん」とようやく手を離してくれた。手を離されて初めてクーラの手が熱かったのだと気がついた。余程恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤になっている。そんな姿が何だか可愛らしくて、ナタリーはクスクスと喉を鳴らした。
「私に求婚するような物好きなんていないわよ」
「そんなことない!」
てっきりそりゃそうだな、なんて軽口を叩いて笑うのかと思ったら、大真面目な顔で否定されてしまって驚いた。そのくせ真っ赤な顔して恥ずかしそうにそっぽを向くのを止めて欲しい。こちらにまで伝染してしまうから。
……調子が狂う。
「とっ、とにかく見合いじゃないんだな?」
「少し休むだけだってば」
「本当だな?」
「しょうもない嘘ついてどうするのよ」
「帰って来るんだな? 絶対だな?」
「だから何なのよ!」
「…………帰って来たら言う。…………待ってるから!!」
そうして耳まで真っ赤に染めたまま、自分の言いたい事だけ言って走って行ってしまった。
「もう……何なのよ……気になってゆっくり休めないじゃない……」
ドキドキとうるさく鳴り続ける心臓を抑えながら小さくなっていく背中を見送り、街へと再び歩き出す。そこからは寄り合い馬車を利用するのだが、人の良いご主人様はすでに馬車の手配をしてくれている。朝もまだ早いうちに出てきたおかげで、時間には随分余裕があった。心配させるだろう母に何か買って行ってあげようか。そんな事を考えてフッと口元を緩めた。さっきまで不安で押し潰されそうだった心が、クーラのおかげで少しだけ軽くなった気がした。
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