窓の側、外が見える位置にカナが立ち、左側にあるドレッサーへアズベルトが寄り掛かる形で立っている。欠けた月を眺めながら、カナがぽつりぽつりと自分の事を話し始めた。月光に白く輝く横顔をじっと見つめながら、アズベルトは静かにそれを聞いていた。


 生まれたところは日本という島国で、この世界ではない別の何処か。生まれ育った場所は海の近い港街で、漁業だけでなく農業も盛んなところだ。夏は暑い日もあるが比較的過ごし易い気温で、冬には流氷という氷の塊が沖合を白く彩り、とてつもなく寒くなる。

 七歳から十八歳まで学校に通い、健とは高校の三年間が同じクラスだった。卒業して数年後の同窓会で再会して、そこから付き合うようになった。日本にはこちらの世界のような階級制度が無く、カナの家も一般的な家庭だった為、恋愛は比較的自由だった。交際期間も人によって違っていて、二人は一年程で結婚に至った。結婚後は健の仕事の都合で、日本有数の豪雪地帯へ移り住む事になり、冬は雪かきが本当に大変だった。

 健は優しく穏やかな人で、怒ったところを見たことが無かった。仕事で帰りが遅くなった時に、自分の体調があまり良く無かったにも関わらず、かなが心配だったからと迎えに来てくれた事があった。案の定その後は体調が悪化して寝込む事になったのだが、自分の事を差し置いてまでかなを優先してくれた事が嬉しかったし、同時に自分が気を付けてあげないと、と思ったのだ。結婚を意識した理由の一つだ。

 健は家事全般が出来る男子で、かなが料理が得意なのに対して、掃除や片付けが得意だった。お互いの得意でお互いを補っていけるのも、素敵な関係だと思えた。

 ごくごく普通の夫婦だったと思う。出会いも、きっかけも、結婚に至る過程も、全部特別な事は何も無いし、理想の関係だとは言ってもらえたけど一般的なものだ。もちろん特別裕福な訳でもない。それでも幸せだった。彼と過ごす毎日が楽しくて大切で、愛おしいものだった。今はまだ仕事に打ち込んでお金を貯めて、ゆくゆくは子供を授かって……そんな家庭を二人で築いていく事が理想だったのだ。


 アズベルトは合間に相槌を打ちながら、静かに興味深そうに聞いていた。


「今度はアズとカナリアさんの話しを聞かせて?」


 カナの眼差しを受け止め、アズベルトも外の月を見上げた。


 アズベルトは生まれも育ちもここ、フォーミリオ領で領主の嫡男として誕生した。元騎士だった父親に憧れて、十歳から二十歳まで王都にある王立学院の騎士養成科で学んできた。卒業後は城の騎士団へ所属し、五年で第三師団の団長にも就任した。

 カナリアとは領地が隣同士だった事、彼女の父親がアズベルトの学院時代の先輩だった事もあって、生まれた時から知る仲だった。小さい頃から身体が弱く、風邪を拗らせて寝込んでしまう事は多かった。その頃はよく『アズ兄さま』と、後ろをついて歩いていて、可愛い妹のように思っていた。不治の病と宣告されたのは八歳の時、それからは部屋で過ごす事が多くなり、結局社交界へのデビューは出来ていない。

 一度だけ彼女を主役にしたパーティーを開いた事があった。十三歳の誕生パーティーを、カナリアの両親とアズベルトの両親が主催して、近しい友人達を招いて開いたのだ。そこで初めて女性として美しく着飾ったカナリアの姿を見た。その時はその場にいた男性陣の視線を独り占めしていて、それが誇らしいと思う反面、物凄く不快だった。それからカナリアに見合いの話しが来るようになった。しかし、彼女の身体が弱い事が理由で、結婚まで話しが進む事はなかった。


「三年前に、私の両親が事故で他界してしまったんだ」


「……え」


「その事が一つのきっかけになってしまったのかもしれない……」


 この頃からカナリアの体調がよくない日が続いた。アズベルトには他に兄弟は無く、領地と爵位を継ぐ為騎士団を辞めた。二年かけてやっと領地経営が軌道に乗って来た時、カナリアに余命宣告がなされてしまった。十六歳になる直前だった。あの時の衝撃と絶望は今でも鮮明に覚えている。

 カナリアが初めて着飾って目の前に現れたあの日から、彼女はもうすでに妹では無くなっていたのだ。急に大人の女性に見えてしまって戸惑いを覚えたのと同時に、他者に攫われてしまうかもしれない焦燥感に震えた。しかし十四歳という歳の差が、アズベルトにブレーキを掛けてしまった。あくまで妹でしかないと、気のないフリをしていたのだ。カナリアの命の期限を知らされて、遅すぎたと死ぬほど後悔した。とっくの昔に彼女の気持ちに気付いていたし、彼女の事を特別な女性だとわかっていたのに、歳の差を理由に見て見ぬフリをしていたのだ。すぐに彼女の両親に相談して結婚を決めた。そして十六歳の誕生パーティーでプロポーズをしたのだ。


「カナリアさんはとても喜んだでしょうね」


「一時期『夢を見てるよう』というのが口癖になっていたな」


 目の前のカナリアがクスクスと可愛らしく笑うのを、アズベルトは穏やかな気持ちで眺めた。月明かりに向けられた眼が、今度はアズベルトに向けられる。その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「私……カナリアさんに会ったわ」

 

「……っ!」


「アズに『私はカナリアじゃない』って打ち明ける前に夢を見たの。その時は夢だと思ったし、混乱していたから言えなかったけど、あれはきっと彼女だったと思う」

 

 アズベルトは何も言わないまま聞いていた。ただその瞳だけが不安気に揺れている。


「貴方の事を心配していたわ。誰かを犠牲にしてでも貴方の事を守りたかったと」


 その犠牲の意味がわかった時、どうしてとは思ったけど、彼女を憎らしいとは思わなかった。もしもカナリアと同じ立場だったなら、同じような境遇で同じような力があったなら、きっとカナリアと同じ事を考えたと思うから。


「きっと悔しかったでしょうね」


 アズベルトの瞳から、涙が溢れ落ちる。ただ真っ直ぐにこちらを見つめて。

 月明かりに光る涙の筋が一つ二つと増えていく。その眼差しを受け止めたまま、カナはアズベルトに近付くと、彼の手にそっと触れた。カナの手よりもずっと大きなその手は温かくて震えている。

 カナの瞳にも涙が浮かぶ。瞬きで零れ落ちるのと同時に、アズベルトが手にしていたカップが床に落ちて転がり抱き締められていた。カナが手にしていたカップも床に転がり、ゴツンと鈍い音が響く。


「カナリア……っ、すまなかった……」


 彼の背に手を回すことを躊躇いはしなかった。きつくきつく抱き締め合う。もう枯れる程泣いた筈なのに、一度溢れた涙は後から後から零れ落ちていく。息が苦しい程に身体を締め付けられたが、カナリアの願いなのか自分の意思なのか、離して欲しいとは思わなかった。心に空いてしまった真っ黒な穴を覆い隠すかのように、しがみつくように互いを求めた。

 腕が緩み顔を上げると、涙に濡れた琥珀色がすぐ目の前で怯えたように揺れている。そのあまりの美しさに目を奪われ、心臓を揺り動かす程の激情に手を伸ばした。頬に触れたカナの手にアズベルトのそれが重なる。どちらからともなく唇が触れ合い、吐息を奪うように深く口付けた。


 視線が絡み、動きが止まる。いつの間にかカナの身体はベッドへ沈んでいる。天井が見える筈の画角にはアズベルトの美顔があり、綺麗な琥珀色がこちらを見下ろしていた。その瞳には僅かに躊躇いが見てとれた。しかし、カナはアズベルトのうなじへ回した腕を解くことをしなかった。


「やめないで」


「!」


「お願い……」


 そう言われて止まる理由など何処にもない。自らのシャツのボタンを外しながら、静かに涙し見上げて来る彼女に口付ける。


「今だけ、健って呼んでも……いいですか……?」


「ああ、かまわない」


 アズベルトの大きな手がカナの指を絡め取りながらベッドへと縫い付けて来る。素肌の体温を感じながら、彼の体重を全身で受け止めた。

 涙はいつまでも止まらないままだった。

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