ナタリーにベッドへ寝かされ、額に冷たいタオルを当てがわれ、頬の火照りと全身の熱が引いた事で平静を取り戻したカナは、カナリアの両親が話していた『結婚』について、改めて彼女に尋ねた。


「ナタリー。両親が話していた結婚ってどう言う事?」


 横になったカナの側へ近づいて来たナタリーが、無言のまま見下ろしてくる。無表情に見えるが、僅かに眉間がぴくぴくしているのをカナは見逃さなかった。恐らく自分が勝手に説明して良いものかどうか思案しているのだろう。


「アズは最低限をナタリーから聞けと言ったわ。お願い、教えて」


「……わかりました」


 カナが起き上がるのを手伝い、すっかり温くなったタオルを片付けながら、ナタリーは二人の現状について話し始めた。


「カナリアとアズベルト様は二週間後に結婚式を挙げる予定だったのです」


「……うそでしょ……」


 恋人の関係なのだろうとは思っていたが、まさか婚約していたなんて。歳が違い過ぎるし、カナリアの指に指輪が無かったことから、そこまでは考えていなかったのだ。


「カナリアがアズベルト様に求婚されたのは、十六歳の誕生パーティーの時でした。つい二週間程前の話です」


 と言うことは、プロポーズしてから式まで一ヶ月程。それはまた随分急な話に思える。


「婚約の期間が一ヶ月と言うのは短いのではなくて?」


「その通りです」


 本来なら求婚してから式を挙げるまで半年から一年の準備期間が設けられる。上流貴族同士の婚姻ならばその限りではない。こんなに事を急いだのは、やはりカナリアの病気の事があったからだ。


「カナリアは十六歳になる前に……余命宣告を受けていたのです」


「!!」


「カナリアは命の期限がある事を憂慮していました。彼の妻になっても侯爵夫人の役目は果たせない。跡取りとなる子供も望めない。そんな自分はアズベルト様の妻には相応しくないと」


「……それでもアズはいいと言ったのね」


 睫毛を伏せたナタリーがコクリと静かに頷く。


 カナリアの病が分かったのは八歳の頃だ。それ以前からも風邪を引くと長引く事が多かった。八歳の時に原因不明の高熱で倒れた事があり、それがきっかけで病が発覚したのだ。


 カナリアの両親は、豊かな自然と大河を誇るオラシオンの領地を統治し、子爵の称号を有している。広大な農地をもつオラシオンでは農産業が主流で、カナリアの実家も多くの農園を所有し統括していた。

 アズベルトとは王都にある学院の先輩後輩の間柄で、領地も隣同士という事もあり、古くから親交があった。幼い頃からカナリアの事を見てきたアズベルトが彼女を妻にと望み、それこそお互いを既に良く知っている間柄だった為に、一ヶ月という短い期間で両家の婚姻が成立したのだ。しかし、本格的に式の準備に入ろうかというタイミングでカナリアの病状が急激に悪化し現在に至る。


「アズベルト様との婚約が発表されてからは、毎日夢のようだと本当に嬉しそうに話していたわ」


 その時のカナリアの姿を思っているのだろうか。遠くを見つめるナタリーの表情はとても穏やかで、自分の事のように嬉しそうだ。

 カナリアの身体にかなが入ってしまった事が原因なのか、体調が回復してきたこの機に式の日取りを決めてしまおうという事なのだろう。


「カナリアさんはもうアズの妻?」


「いいえ。正確には、今は婚約している状態だから、あなたはまだカナリア・オラシオンのままよ」


「良かった! まだ間に合いそうね」


「は……?」


 言うなりベッドから出ようとしたカナを、慌ててナタリーが押し留める。


「何してるの!? 大人しくしてなさいって言われてるでしょう」


 痩せてすっかり細くなったカナリアの両肩を掴んだ。その腕をカナが掴み返す。見た目はすっかり病人なのに、掴み返すその力がずっと強くて、ナタリーは一瞬怯みそうになった。


「止めなきゃ! 婚約破棄してもらうのよ。籍が入っていない今ならまだ間に合うでしょう?」


 カナリアの口から聞かされた信じられない一言に、ナタリーが目を見開いた。彼女の心を覆っている膜に鋭利な言葉が刃のように振りかざされ、消えない傷を作っていく。喉を締め付けられるような感覚にどうにか抗い、やっとの思いで言葉を吐き出した。


「……無理よ。もう決まった事なの」


「そんな……」


「夫婦になるだけの簡単な話ではないの。……それに、旦那様が夕食を一緒にとおっしゃったでしょう? その時に説明してくださるわ」


 それでは遅すぎるのだ。今この瞬間にも話は進んでいるのだろう。夕食の時になんて、そんなのは決定事項を伝えるだけの事後報告に過ぎない。今止めさせなければ何の意味もないのだ。


「私には夫がいるのよ」


「……え……?」


 カナリアの切羽詰まった眼差しが、開かれたアメジストに映り込んでいる。掴んだ腕に縋るようにカナリアが身を乗り出してくる。


「結婚したのは去年。子供はいないけど、いずれは欲しいねって話してた。私には将来を誓った人が居るの! 例えフリだとしても、他の人と夫婦になんかなれないわ!!」


「……」


「お願いよナタリー。アズに伝えて! この結婚を止めさせて!!」


 カナリアの顔で、カナリアの声で、カナリアが決して言う筈のない言葉の刃を振りかざしてくる。それらが作り出す傷が確かな痛みとなって、ナタリーの胸をズキズキと痛めつけていた。ふらりとよろけるように後ろへ下がると、カナリアの腕も離れていく。目の前の友人を直視することが辛くて、ナタリーは視線を僅かに下へとずらした。


「……分かった。伝えるわ。……伝えてみるけど、きっと何も変わらないと思うわ」

 


 ナタリーの言った事は正しかった。アズベルトは、話し自体は聞いたようだが、『夕食の時に』の一言で終わったらしい。監視という名の執事も置かれ、ここから抜け出せない以上その時を待つしかなかった。一向に進まない時計の針がもどかしい。面白そうだからとナタリーが選んでくれた本を開いてみたが、内容なんてちっとも入ってこなかった。





 その夜。

 カナリアの部屋には二人分の食事の準備がされた。準備を手伝う際には来ていた執事も今は退室しており、ナタリーと二人、アズベルトを待っているところだ。

 少しずつ回復を見せているカナリアの食事は相変わらず液状だ。が、テリーヌのような見た目のゼリー状の固形物が増えている。パンの種類も増え、カットフルーツも朝とは違う内容になっていた。美味しそうな見た目には心惹かれたが、とても食事をしている場合でなかったカナは、先に席についてはいたものの、アズベルトの到着をいまかいまかとそわそわしながら待っていた。

 やがてノックが聞こえ、ナタリーが応対すると、着替えを済ませラフな装いになったアズベルトが入ってくる。顔を見るなり立ち上がって口を開こうとするカナを制し、アズベルトが座り直すよう促してくる。有無を言わさない眼差しを向けられ、何も言えないままカナは渋々席についた。


「まず私から話す。食事をしながらでいいから聞いて欲しい」


 仕方なくスプーンを手に取ると、粘度が増したスープを口に運ぶ。おそらくミルクベースだろうスープは、綺麗な翡翠色をしていた。豆か何かがすり潰して混ぜてあるのか、特有の青臭さが鼻に抜けていく。アズベルトには不満があったが、用意される食事はいつもとても美味しい。


「三つある。まず一つ目だが、来週からカナリアを連れて別荘へ行く事になった。ナタリー、君も来てくれ」


「……は?」


「かしこまりました」


 かしこまらないでよ!!


「なんで?」


「後で説明する。二つ目に、結婚式は三ヶ月後に決まった。それまでに、君には色々と頭に叩き込んでもらう事になるからそのつもりで」


「ちょっと待って——」


「三つ目に、オラシオン領がフォーミリオ領へ吸収される事が正式に決まった。……これがどういう意味かわかるか?」


「……私とあなたが結婚するから」


「そういうことだ。だから婚約を取り消すことはない。カナリアとして振る舞えるようになるまで、療養という名目で人目を避けて別荘で過ごす。行くのはここにいる三人だけだ。新しい領主には私がなることが決まった。私からは以上だ」


 何が説明がある、よ。やっぱり事後報告じゃない!

 こっちの都合を全部無視して、勝手に決めないで!!


「私には出来ません」


 アズベルトの瞳を真っ直ぐに見据え、カナがはっきりと拒否を示した。その姿に一瞬言葉を詰まらせたアズベルトが短く息を吐き出す。


「やってもらわねばならない」


「無理に決まってるでしょう」


「カナリアを妻にと決めた時から、オラシオンの領地を渡すと言われていた。カナリアの両親の意向だ。実際にカナリアが元気になった以上、白紙に戻す理由はないし、そうするつもりもない」


 いい加減にしてよ。そっちの都合なんて私には関係ない。

 私だって来たくてここに来たんじゃない!!


「私には夫がいるのよ!!」


 バンっとテーブルに両手を叩きつけ、椅子を鳴らして立ち上がった。衝撃で食器とカトラリーがぶつかる音が響く。行儀とか体裁とか、そんなものどうでもいい。目の前に座るこの傲慢な男を少しでいいから黙らせてやりたい。そんな反抗心と苛立ちを含ませ、黙ったまま無表情でこちらを見つめる琥珀色へぶつけた。


「……だからフリでいい。別荘からは城も近い。そこで何か情報を得られるかもしれない。何かわかるまででいい。協力してほしい」


「……」


「私だってカナリアを取り戻したいんだ」


「!!」


「……頼む」


 絞り出すように告げられた『頼む』からは、彼の切実な思いが滲み出ているようだった。かなが健の元へ帰りたいと願うのと同じく、アズベルトも愛しいカナリアをこの手に取り戻したいと願っているのだ。自力で方法を探せない以上、彼が頼りだ。だったら、少しでも協力した方が自分自身の為にもなる。そう言い聞かせ、一度深呼吸して気持ちを落ち着かせたカナは、再び椅子へと座り直した。


「ちゃんと帰してくれますか?」


「……わからない。だが努力する」


「……フリだけでいいのね?」


「ああ」


「……分かったわ。協力します。だけど——」


 アズベルトの唇に目が入ってしまい、意識したくもないのに顔がカッと熱くなった。頬を染めてそっぽを向くカナリアの姿にアズベルトが目を細めた。


「……キスは、やめて……」


 その姿がどうしても愛らしいカナリアにしか見えなくて、アズベルトの心は握り潰されそうな程ズキズキと病んでいた。



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