5
鳥の声が一際近くで聞こえた気がして、カナはハッと気が付くように目を開けた。
一人咽び泣くうちに、大きなふかふかの枕に顔を埋めるようにして、いつの間にか眠っていたみたいだ。
身体をゆっくりと動かし上半身を起こした。食事をしたおかげか、はたまたあの凄い味のした薬のおかげか、昨日よりも大分楽に手足を動かせるようになっている。それでもかなの常からは程遠いのだが……。
沢山泣いたせいか、目の周りに少し違和感がある。瞼が腫れてしまっているかもしれないなと思いながら、顔を埋めていた枕を見た。肌触りの良い枕にも染みを作ってしまっている。何となく申し訳ない気持ちになってしまい、無意味と思いながらも枕をひっくり返して戻した。
ぐるりと見渡す室内は薄暗い。分厚いカーテンの隙間から白い光が見えることから、陽は既に昇っているようだ。見たことのない程大きなベッドも、高級そうな家具も絵画も、布の掛けられた鏡台も昨日と同じまま。昨日と同じようにベッドの淵まで這っていき、ふかふかの絨毯へ素足をつけると、大きな窓を覆っているカーテンを開いた。
「夢じゃない……」
窓の向こう、目の前に広がるのは見慣れない美しい庭だった。
階段から落ちて気絶した事も、起きたら知らない部屋だった事も、国宝級のイケメンにお姫様抱っこされた事も、全部夢なら良かった。いつものように目覚ましが鳴って、起きたら隣で健が眠っていて、「めっちゃイケメンの夢見ちゃった」なんて、笑って話が出来たら良かったのに。途端に視界がぼやけ、目の奥がツンと熱くなってくる。涙が零れそうになって慌てて目元を拭うと、フルフルと頭を振った。
「ダメダメ! ネガティブな事ばかり言っても何にも変わらないわ。これからどうするべきかを考えないと」
自分がどうしたいかなんて決まっている。
私は健のところに帰りたい!
ただその方法が分からないのだ。この身体をカナリアに返して、自分のを見つけて、何もかも元に戻して日本に帰る。そんな訳の分からない突拍子も無い方法を、一人で探すなんてとてもじゃないが出来るとは思えなかった。それこそが夢物語のようだ。だったら出来る事は一つ。彼を頼るしかない。彼だってカナリアを返して欲しい筈だ。彼女をどうこうした訳では決して無いが。ただそれなら利害が一致するのだから、自分が元の場所に帰る方法を探すのを手伝って貰えるかもしれない。
「よし! 次にあったらお願いしてみよう」
そう一人で意気込んでいた時だ。部屋の扉が控えめにノックされた。応えるべきかどうか悩み、そういえば勝手にベッドから起き出して怒られたばかりだったと思い出し、顔を青くすること数秒。カチャリとノブが回る音が聞こえ、ナタリーとアズベルトが入って来た。彼の後から主治医の翁も続いて入室してくる。
「おはよう、カナリア」
「おっ、おはようございます……」
ゆっくりと正面までやって来たアズベルトが、恐らく赤くなっているだろう目元に気付いたのか、一瞬目を細めたように見えた。が、すぐに常の穏やかな笑みを浮かべ、やんわりと問い掛けてくる。
「よく眠れた?」
グッと言葉を飲み込み、彼の目を見られないまま視線を斜め下に投げる。
「はい……おかげさまで」
いつまた怒られるかとドキドキしていたのをよそに、彼女がベッドから起き上がっただけでなく、自分の足で立って窓まで行きカーテンを開けた事に、主治医は大層驚き「奇跡の回復力だ」と喜んだ。アズベルトは柔らかい表情で翁に同調し、ナタリーは読めない表情で室内を見守っている。そのまま医師による診察を受け、例の薬は「奇跡の回復力」効果で少しばかり量が減り、怒られずに主治医を送り出すところまでは無事に終える事が出来た。
主治医の退出と入れ替わるように、今度はナタリーがワゴンを押して入室すると、昨夜も食事の準備を手伝っていた若い執事の青年が後から入って来た。息のあった二人がテキパキと準備を始めると、あっという間に簡易テーブルに朝食の皿が並べられる。用意されたのは二人分。アズベルトもここで一緒に朝食を取るようだ。呆気に取られたままその様子を見ていると、いつの間にかすぐ側に立っていたアズベルトの声が上から降ってきて驚いた。
「一緒に朝食をどうかと思ってね」
緩く細められた琥珀色の瞳がこちらを見下ろしている。穏やかな雰囲気を纏ってはいるが、こちらを射抜く眼差しには、鋭利な冷ややかさが確かにある。既に用意がなされているという事は、こちらに選択の余地は無いという事なのだろう。有無を言わさぬ静かな迫力とこちらの不可避を問わない傲慢さに怯みかけながら、カナは震えそうになる手をぎゅっと握り締めると真っ直ぐにアズベルトを見据えた。
「丁度良かった。お願いがあって、お話し出来たらと思っていたんです」
「それは奇遇だ。私も全く同じ事を思っていた」
簡易テーブルに並べられた皿には昨日と同じくスープがよそってある。昨日はミルクベースだったのに対し、今朝は黄金色のサラリとしたスープだ。彩り程度に混じっている野菜は細かくカットされ、カナリアの身体に負担の無いよう配慮されたものだと推察される。側に添えられた丸いパンも小ぶりで、スープに浸して食べると良いと教えて貰った。その他には数種類のカットフルーツが綺麗に盛り付けされている。病み上がりのカナリアには十分だが、目の前で全く同じ食事を取っているアズベルトには物足りないメニューだと思った。
「あの……こちらは気にせず、いつも通りの食事を取ってもらっても」
「シェフに別のものを用意させるのが手間なだけだ。君が気にする事じゃない」
部外者が余計な口を挟むなと、そう言われた気がして、それ以上は何も言えなくなってしまった。
すっかり口を閉ざしてしまったカナリアに、少々口調が厳しくなってしまったかと反省したアズベルトは、軽く咳払いをすると今日の予定を切り出した。
「今日はお客様があってね」
「……はい」
「カナリアが危ないと、君の両親に知らせていてね。今日、これからみえる予定なんだ」
「そう……え?」
顔を上げると既にこちらへ向けられていた眼差しと交わった。
「君はカナリアだ。いいね?」
ちょっと待って!
カナリアさんの両親に、カナリアさんのフリして会えっていうの!?
「待ってください!! そんな……無理です!! カナリアさんのフリなんて出来ません!」
小さく息を吐き出したアズベルトが、目を細めてカナを見据えた。眼光に鋭さが増し、その視線に萎縮してしまいそうになる。
「やって貰わねば困る。来るのは君の両親だ。会わせない選択肢は無い」
「それは……そうですが……」
「カナリアはここ最近ずっと意識が曖昧だった。いざとなれば記憶がとでも言って適当に誤魔化してくれても良い。後は私が引き受ける。それと——」
アズベルトが言葉を切ると、入り口近くに控えていたナタリーが彼のすぐ後ろに控えた。
「彼女の事はナタリーと、私の事はアズと呼ぶように」
「え……」
「カナリアはそう呼んでいた」
「あ……」
「いいね?」
「……わかりました」
「敬語もやめてくれ」
「……わかったわ」
「くれぐれも余計な事は言わないように」
「ええ」
彼女の事を何も知らないのに、彼女の両親の前でカナリアのフリをしろと言う。無茶振りにも程がある。しかも時間がないから最低限をナタリーから聞いておけと。この身体がカナリアである以上仕方の無い事なんだろうけど、それでもあまりにも一方的過ぎやしないだろうか。『お願い』などと言っておきながらそうする事を既に強要されているのだ。あまりの傲慢さにさすがに黙っていられないカナが口を開きかけた時。
「それと、君が言っていた『帰る方法』を私の方でも調べてみよう」
「……え? 本当に?」
思いも寄らない申し出に、食事中である事も忘れて立ち上がりそうになってしまった。この身体が本調子で無いおかげでそれが出来ず、結果的にお行儀の悪い事にならずに済んだ。
「ああ。城に旧友が勤めていてね。おそらく彼の専門だろうから、博識な彼なら何か分かるのでは無いかと思っている」
「ありがとうございます! よろしくお願いします!!」
こちらからお願いしようと思っていた帰る方法探しを向こうから提案してくれるだなんて!
健の側に帰れるかもしれないんだ!
胸の内を巣食っていた不安や恐怖が、彼の一言で晴れていくようだった。それだけで、暗く沈み掛けていた心が浮き立つ。ちゃんと方法がありますようにと、どうか帰る事が叶いますようにと祈りながら、カナはつい数秒前まで抱いていたアズベルトへの不信感も忘れて、残りの食事をゆっくりと味わった。
「……カナリアさんってどんな人ですか?」
「え?」
食後、仕事が残っているからと部屋を後にしたアズベルトに代わって、側で身の回りのお世話を焼いてくれているナタリーへ問い掛ける。
訪ねて来るのが両親なら、せめてボロが出ないように気を付けないと。
「ご両親なんてハードル高過ぎてバレてしまわないか不安で不安で……どう振る舞えばいいですか?」
「敬語になってますよ」
「あっ! ……ごめん」
いきなり敬語がダメと言うのもなかなかに辛いものがある。親しい間柄で無い人間に対し、敬語で接する事が常だったかなにとっては尚更だ。いけないいけないと自分を戒める彼女に、ナタリーがふふっと笑みを零した。
「カナリアとは古い友人なの。きちんとした席では主従の関係だけど、こんな風に身の回りの事をしていた時なんかは、普通の女の子のように話したわ」
「そうなんだ……」
「カナリアは優しくて、思いやりがあって、可憐で……アズベルト様をとても愛してた……」
そんな気はしていた。彼のカナリアに対する態度が過保護だけじゃなかったように思えたからだ。彼のあの眼差しは愛しいものに向けられるそれだった。きっと二人はお互いを大切に想い合っている関係。そう考えると胸の奥がズキズキと傷んだ。
「幼い頃からアズベルト様だけを見ていたの。私がカナリアと出会ったのは彼女が八歳の時。その時には既に治らない病気だと自分でわかっていた」
「……そう。そんなに幼い頃から……」
「アズベルト様は十四歳も年上だし、自分なんて病気もしてるし妹以外に見てもらえる筈が無いって、口癖のように……」
「え? 十四歳差!? ……待って……二人はいくつなの?」
衝撃的な事実を聞いたカナは、嫌な予感に背筋が冷えていくのを感じた。
「カナリアは十六歳に。私が一つ上で、アズベルト様は三十歳よ」
まさかの十代だった。確かに若いとは思っていたけれども……。
「十六歳……どうしよう……」
アズベルトの方が歳が近いだなんて。ショックを受けて顔を青くしているカナに、爵位を持つ貴族の間では政略結婚も常であり、年の差がある事などさして珍しくも無いのだと、これまた十代の少女から十代の少女らしからぬ説明がなされた。追い討ちだ。
「十六歳の振る舞いなんて覚えてないわ……」
「そのままで大丈夫よ」
「でも、もしバレたりしたら……」
「誰にもわかる筈がないわ。こんなあり得ないこと、信じられる訳が——」
言いかけたナタリーがハッとカナリアへ体を向けた。無意識の発言だったのだろう。申し訳なさそうに謝罪するナタリーに、大丈夫と言葉を返す。そう。信じられないし、信じたくないのは皆同じなのだ。自分も含めて。
「それもそうね。……フォロー、よろしくね」
それからお客様を迎える為に軽く身なりを整えてもらう。今日は終日ベッドで過ごす事が決まっていた為、メイクはせずに軽く白粉をはたき頬にチークを乗せて、唇には少し色をのせて貰う程度だ。たったそれだけの事なのに、顔に血色が生まれ唇がツヤツヤした事で、昨日とは別人のように見違えて見えた。さすがプロ。カナリア専属だけあって、彼女の素材の良さを引き出すテクニックには感動すら覚える。
鏡台から離れようとしないカナリアを促し、ベッドに座らせたところで、タイミング良く扉がノックする音が聞こえた。
ナタリーが応対している間にベッドへ潜り込むと、ナタリーによって既にカバーが代えてある大きなふかふか枕を背中に当てて座り、腰まで掛布を被り、膝に本を乗せるのを忘れない。かながイメージする『ザ・病人』の完成だ。
ドキドキしながら待ち構えていると、ナタリーの後からもう見慣れた執事の青年がやって来た。
「カナリア様、ご両親がお見えになりました」
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