絶望からの逃走

 “斑”マダラは、手ごわかった。

 肩で息をし、後方に方向に目を向ける。

 その間も足を動かす事は忘れない。

 ひと所に留まれば逃げられまい。

 生きるためには移動しつづける必要があった。

 もう四昼夜、カサは寝ていない。

 食事もしていない。

――次に襲われれば、逃げられないかもしれない。

 常にそう思いつづけながらも、ここまで何とか凌いできたが、それも限界だった。

 意識は朦朧とし、気がつけば襲われていたような状況が、ここまで幾度となくくり返されていた。

――何としても、狩り場まで……!

 彼の地にたどり着ければ、カサに地の利がある。

 振りきれぬにしても、巨石を生かして相手の後背を突ける。

 か細い希望にすがりつきながら、一歩また一歩とカサは足を運ぶ。

 その選択が、ありし日のガタウと同じであると、カサ自身も知らない。

 気づいたら、また倒れている。

——立ちあがれ、そして歩け。

 カサが頬の内側を食い千切り、痛みで覚醒を保つ。

 背後に迫る、あいつから逃げねばならぬ。

 ガタウのようにただ逃げ、生き伸びる。

 そして愛するラシェのもとに帰るのだ。



 ベネスの邑には、日ごと人が増えていた。

 ガタウとカサの伝説に、商機を見いだす者たちである。

 その中にあって、ティグルもまた、興味深くこの戦士たちの試練に、耳をそばだてている。

 一度、部族が狩り場と呼ぶ地域に足を踏み入れた事がある。

 砂嵐が空を隠し、エラゴステスが雇った案内人が方角を見失った。

 案内人は、散々彼らを引き回した上、巨石の並ぶ不思議な土地に彼らを導いた。

 そこでエラゴステスの商隊は、砂漠の戦士たちが戦うという獣に遭遇した。

――こいつは、コブイェックだ……!

 そう言い残し、案内人は真っ先に絶命した。

 何と無責任な話であろうか。

 案内人は、よく砂漠を知らない人間だったに違いない。

 実際に目の当たりにしたコブイェックは、話に聞くよりも恐ろしい猛獣であった。

 その体躯巨大にして、毛は硬く鋭く太く、革は非常に厚かった。

 火も矢も毒も効かず、武器は長い腕と鋭い爪に阻まれ、近接兵器の剣などそもそも届かない。

 狡猾で残忍、獲物への執念旺盛なる肉食獣であった。

 その日だけで、ティグルは仲間を三人失った。

 うち二人は彼と同じ、山岳民族出身の戦士。

 守るべき人足も四人が殺された。

 それでも獣による犠牲者がそれしきで済んだのは僥倖であった。

 彼らの商隊は多くのラバを引き、移動力は十分だったのに、荷を捨ててもなお獣の追撃が速かった。

 間一髪、狩り場に移動してきた戦士たちと出会えなければ、彼らはあのまま全滅していただろう。

 戦士たちはベネスの者で、そのとき獣をしとめたのがガタウだ。

 以来、ティグルは砂漠の戦士たちとその英雄ガタウに、大きな尊敬を寄せるようになった。

 この部族の言葉を覚え、幾つもの邑で彼らの狩りの話をかき集めた。

 ティグルは砂漠の真実と名づけられた戦いの困難を、砂漠の外の者で身をもって知る数少ない人間なのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る