永久の訣別

 "片目"が長い牙を無念そうに打ち鳴らす。

 血を吐き、今まさに舞い降りようとする死に対抗するように、断続的に吼えている。

 恐るべき生命力。

 心臓が完全に破壊され、とうにその動きを止めているというのに、片目はまだガタウを探し、自らの怒りをぶつけんとしている。

「……ガタウ?」

 カサが、倒れたガタウに歩み寄る。

 信じられぬ光景を前に、その足取りはおぼつかない。

 ガタウが倒れている。

 大量の血が横たわるその体を汚している。

 わき腹をえぐられ、動脈が破れたようだ。

 血がとめどなく流れ、砂漠に大きな血だまりを作っている。

「……ガタウ」

 カサがひざまずき、うつ伏せのガタウを起こす。

 苦痛に喘ぎ、ガタウは敵を探す。

 その手には折れた槍。

「……奴は……!」

 血を吐く。

 さまよう目はもう、何も映してはいない。

 傷を検めずとも明白、手遅れである。

 片目の最後の一撃は、肩口から入り、ガタウの右腕を砕き肺を破っている。

 胸の傷から血が泡となって噴き出すのがその証拠。

 カサは絶望に震える。

「……奴は……!」

 ガタウはまだ敵を探している。

 今や使い物にならぬ腕と槍を、何とか振るおうと蠢いている。

 あの力強かった腕は、もはや弱々しく地に垂れ、あの砂漠で最高と謳われた強固な槍は、半ばでへし折られて無残な姿をさらしている。

「……"片目"は、どこだ……!」

 いまだ収まらぬ怒りに、ガタウは突き動かされている。

 カサが片目を見る。

 獣はその巨体を仰向けに倒れ、今では四肢が弱々しく痙攣するのみ。

 程なく死ぬであろう。

 そして、ガタウも。

 カサは無力だった。

 どうして自分はこんなにも弱いのだろう。

 どうして自分は、ガタウを見殺しにしてしまったのだろう。

 カサがガタウの体を抱き寄せ、

「片目は、死にました」

優しく言う。

 ガタウが、信じられぬといった顔でカサを見返す。

「片目は、死んだんです、大戦士長」

 カサが指をさす。ガタウの顔を、そちらに向けてやる。

 大の字に倒れた片目の腹に、なかばで砕かれた槍身が突き立っている。

「どこ、だ……」

 もはやガタウには、それすらも見えない。

 失血による視覚の喪失。

 カサは片目があえぐのを指さして、ガタウに伝えてやる。

「見えますか? 大戦士長。片目の獣があそこに、倒れています。もう動かない。大戦士長の槍が、心の臓を貫いたんです」

 ガタウの勝ちだ。カサは、そう告げたのだ。

 ガタウが血を吐く。

 ゴボゴボと音がする。

 肺に浸入した血が、呼吸不全を引き起こしている。

「そう、か……」

 カサの言葉を理解したのであろう。

 ガタウの体から、力が抜ける。

 その顔に浮かぶのは、片目に打ち勝った満足でも、死への恐怖でもなく、虚無。

 何もかも失った男が、最期の思いを遂げた後、本当に何もかも失くした事に気づいた、喩えようのない空しさ。

 カサがガタウをかき抱く。

「大戦士長……!」

 名前ではなく、肩書きで呼んでしまう。カサにとっては、その方が自然だからだ。

 ガタウが、口の端に血の泡を作りながら、

「大戦士長……」

ぽつり、つぶやく。

「お前は、ずっと俺をそう呼んでいたな……」

 ガタウの脳裏には、カサと共に槍を磨いた日々が蘇っていた。

 来る日も来る日も、ただカサの槍が伸びやかに動くのを見つづけた日々。

 その日々が、自分にとってどれほど満ち足りたものであったか、ガタウはようやく気がついたのだ。

――こいつは俺の、ただ一人の家族であったのだ……。

 カサがガタウにその身を預け、ガタウもまた、カサに多くを授けた。

 この素直な少年に、いつも寂しげで、時に恥ずかしそうに笑う少年に、あれこれと物を教える事が、どれほど楽しく充実していた事か。

 だが、感謝の気持ちを伝える時間はもう無い。

「……俺は、ここで死ぬ」

 やけに喉が渇く。そのせいで、声がかすれ、割れている。

 カサが首を振る。

 子供がどうにもならぬ事を拒絶するように、必死で首を振る。そのしぐさは幼く懸命だ。

 ガタウが死ぬなんて事は、ありえない。

 あのガタウが、死ぬなんて事は、あってならないのだ。

「お前には、つらい生き方しか教えられなかった……」

 済まなそうに言う。

 だがガタウには、この生き方しか教えられなかったのだ。

 他の生き方など、ガタウは知らないのだから。

 カサは首を振る。懸命に首を振る。

 ガタウが気が抜けたように笑う。

 そのように優しげなガタウなど、カサは見たくもないのに。

「お前と出会えて、良かった……」

 カサが首を振る。

 カサの眼からは、涙がこぼれている。

 その涙がガタウの顔を濡らす。

 ひと滴が口に入り、ガタウの激しい渇きを潤す。

――俺のために、泣いてくれるのか。

 ガタウの胸に、最後の火が灯る。

 とたんに咳き込み、いまわの際の痛みがガタウを襲う。

「ガタウ……! ガタウ……!」

 カサが、ガタウの最期の生命を何とかこの地上に押しとどめようと、その体を懸命に抱く。

 だがガタウの体は無情に血に濡れ、その体は早くも冷たくなり始めている。

――嫌だ……!

 カサは、目の前の現実を打ち消そうと、首を振りつづける。

 だがガタウの眼からは力が失せはじめ、もはやカサを見ていない。

「嫌だガタウ……」

 カサは泣く。

「死んじゃ嫌だガタウ……!」

 カサは首を振って泣く。

 ガタウの呼吸は細くなり、今にも停止しそうだ。

 感覚と感情、ありとあらゆる物が遠ざかり始めたガタウに、最後の光が差しはじめる。

 それは死者を導く光。

 精霊がガタウの魂を迎える光。

 その光の中に、ガタウは見る。

 懐かしい面影。

 まっすぐな髪の長い女。

 ガタウがかつて愛した、ただ一人の女。

 同じソワニに育てられ、

 戦士と巫女とに道を分かれ、

 だがそれでも惹かれあった、

 ガタウの人生にただ一人、

 たった一人愛したあの少女。

 女が光の中から手を差しだし

 ガタウを抱き

 そして


 「………ターシル………」


 その名前を思い出した刹那、ガタウの肉体が、すべての活動を停止する。

 呼吸と心拍が止まり、眼球の運動も消える。

 その顔に浮かぶのは、笑み。

 すべてから解放された、安らかな笑みだ。

 かつて世界のありとあらゆるものに裏切られた男が、最後にすべてを失う事で、永久とわの安らぎを得た。

「ガタウ……?」

 カサが、力の抜け落ちた顔でガタウを呼ぶ。

「ガタウ!」

 いくら強く揺さぶれど、ガタウの体から解き放たれた魂が戻る事は、もうない。

 ガタウは死んだ。

 ガタウは、死んだのだ。

 慟哭。

 喉が張り裂けんばかりに、カサが哭く。

 カサはガタウの亡骸を抱き、この真実の地にたった一人で哭く。

 子供のように首を振り、泣き喚き、涙を流す。

 時にガタウの名を、不明瞭な声で呼ぶ。

 ガタウはもう、カサに何も答えない。

 何を聞いても、あの仏頂面をした、年老いた戦士は帰ってこない。


 ガタウはもう、何も答えない。

 永遠に。

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