離別の朝

 朝、すべての支度を終えて、カサは天幕を出る。

 トジュの紐を、きっちりと締め、食料を詰めた胴巻きを巻き、ショオを袈裟に掛け、背負子の荷物を確かめて、肩に担ぐ。

 戸幕を上げると全身に朝の光が差す。

 砂漠の晴々とした朝。

 天球は青すぎるほど青く、大地は赤茶けに焼け、風はその間で緩やかに動く。


 ガタウが待っていた。

 約束を交わしていた訳でもないのに、当然のようにそこで待ち、そしてカサも、当然のようにそれを受け入れる。

「よく眠れたか」

 カサは首を振る。

「そうか」

 ガタウがカサを上から下まで確かめて、

「胴巻きはまだしなくてもいいぞ」

 時間が無くなるのは、真実の地に着いてからであり、それまでは必要のない用意なのである。

「そ、そうなんですか?」

 ショオを脱いで外そうかと思ったが、それには背負子を下ろさねばならず、カサはとりあえず今はこれで良いという事にする。

 周りを見回すと、邑人が総出でカサたちを見に来ている。

 誰もそばまで寄ってはこないが、遠巻きに、二人を囲んでいる。

「行くぞ、邑の外れで戦士たちが見送りに待っている」

 ガタウが踵を返し、

「はい」

 カサがそれにつづこうとした時である。

 控えめな足音。

「――カサ……」

 振り向いて、驚く。

 ラシェがそこにいる。

 いるだけではない。

 乞うような視線をカサに向け立ちすくんでいる。

 その睫毛は小さな涙の粒に濡れ、目じりには薄赤く泣きはらした痕がある。

 そして衣装。

 それはいつもラシェが着るような、薄汚い物ではない。

 あの岩に隠した布を、レキクの形にまとっている。

 薄い水色に染め抜かれたレキク。

 肩を露出し、腰の高い位置で絞った衣装は、ラシェの隠し持った柔らかさを、見事に醸しだしている。

 いじらしかった。

 愛する男に、最後に綺麗に見られたいといういじらしさ。

 愛する男を、思いとどまらせたいといういじらしさ。

 その様子を見ていた物見高い邑人たちは皆、目を奪われている。

 これがあの、汚いサルコリの娘なのか、と。

「ラシェ……!」

 カサはつかの間ラシェに見とれ、そして惑う。

 最後にラシェと、話しをしたい。だがガタウはもう歩き始めている。

 そのガタウが、振り返らずに言う。

「先に行っている」

 そして何事もなかったように歩いてゆく。

 存分になごりを惜しめというのだ。

 これが今生の別れかも知れぬのだ、少しのわがままくらい許されていい。

 ラシェがカサの胸に飛び込む。

 やわらかい感触と花の香り。

 カサは胴巻きをした事を後悔する。

 ラシェの体はそこにあるのに、その体温が感じられずもどかしい。

 それでも華奢な体を抱きしめると、カサは幸せに包まれる。

 ラシェもまた、はかない幸せを感じている。

「……カサ……」

 この瞬間が幸せすぎて、涙がにじむ。

「……死なないで……!」

 他に言葉が出なかった。

 もっと色々と言おうと思って来たのに、泣き叫び、喚きたててカサを困らせてやろうと思って来たのに、自分もついて行くと駄々をこねて、あわよくば本当に連れて行って貰おうと思って来たのに、そのために今日ここに、このレキクをまとって来たのに。

「必ず生きてもどって……!」

 もっと多くの事を伝えないと。

 自分がカサの事をどれだけ想っているかを。

 もしカサが死んだらどれほど悲しいかを。

「カサが、死んじゃったら……」

 伝えなければならない。

 ラシェの気持ちを、カサに伝えなければ、

「……私も、死ぬ……」

 あとは涙につぶれて、何も言えなくなる。

 カサはラシェを強く抱き、

「僕は、死なない」

それだけを伝える。

「絶対に、死なない」

 カサの胸の中で、ラシェがうなずく。

 長い時間、二人は抱き合い、

 そして、カサから体を離す。

「じゃあ、行くよ」

 ラシェは涙を流しながら、コクリとうなずく。

 踵を返し、歩いてゆくカサを、衆目の中、ラシェがずっと見送っている。

 その背が消えてゆくまで、すっと見送っている。

 いつもカサがラシェを見送っていたように、今ラシェがカサを見送る。



 「………………カサ………………」



 名を呼ばれて、カサはヨッカが近づいてくるのに気づいた。

「もう行っちゃうんだね」

「うん」

 兄弟のように育った二人には、それほど多くの言葉は要らない。

「――これ」

 ヨッカが中身の詰まった皮袋を差し出す。受け取ると、水音がする。

「赤花の実で作った、酒。あと食料を少し。俺には何もできないから」

 カサは首を振り、

「そんな事はないよ。有難う。大事に飲むよ」

 カサは再び歩き出す。ヨッカがその背に声をかける。

「カサ!」

 カサは立ち止まらない。ヨッカはもどかしい思いで、

「頑張れ!」

 それだけ、叫ぶ。

 カサが軽く槍を上げてそれに応える。



 邑を少し離れた所で、すべての戦士たちが待っていた。

 視界を埋め尽くす赤い民族衣装。そこは、戦士たちが狩りの遠征に向かうときに、集まる場所でもある。カサは、まるで今からこの戦士たちと、いつものように狩りに出るような錯覚を覚える。

 カサを見つけて、男たちが槍を掲げる。

「カサ!」

 ソワクだ。

 首から三本の牙を下げ、昨日の今日ですでに大戦士長の風格をまとっている。

 一度譲った大戦士長の座を、ガタウが取り戻す事は最早ない。

 たとえ生きて戻ったとしてもガタウは一戦士でしかないし、自らにそれを課すであろう。

 時代が変わったのだ。

 これよりベネスの戦士階級は、ソワクが率いてゆく。

 カサが、戦士たちの前に進み出る。

 初めてこの組織に押し込められた時、カサはまだ十四だった。

 周りは恐ろしいばかりの男たちで、ずっと疎外感を抱いていた。

 そして今、カサは己が彼らの仲間であると強く感じている。

 血と、恐怖と、仲間の死を共に乗り越えた無二の仲間たち。

 彼らの頼もしさに、カサは初めて強い誇りと晴れがましさを覚える。

 この力強き男たちと、同じ時を過ごせた事に、心から感謝する。

「カサ」

 ソワクが胸に、拳を押しつけてくる。

「絶対に、生きて帰って来いよ」

 カサがその拳を左手で包み、

「絶対に、生きて帰って来るよ」

 力強く応える。

 ソワクはうなずき、大きく槍を振りかぶる。

「戦士ガタウ! 戦士カサ! 真実の地へと赴く両名に戦霊の加護あらんことを!」

 ザッ!

 一斉に、槍が掲げられる。

「ゆくぞ」

「はい」

 二人が、砂漠へと踏み出す。

 彼らを待つものは、試練。

 その背が消えるまで、戦士たちは二人を見送りつづける。

 やがてソワクの解散の号令で、戦士たちは思い思いに散ってゆく。

 そして戦士たちはすぐそばまでサルコリの娘が来ているのに気づく。

 地平線に近い空と、同じ色のレキクをまとった、サルコリの娘。

 娘は、声もなく泣いている。

 戦士たちが何も見ぬふりをして、その横を通り過ぎてゆく。


 やがて彼らが一人残らずいなくなっても、娘はそこにいて、声もなく泣きつづけていた。

――もう二度と泣くものか。

 深い悲哀の中で、決意を固めている。

――だから、今日だけは

 愛しい人の去ったこの地で、サルコリの娘は涙を流す。

――今だけは、泣こう。カサのために。

 風が舞う。

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