脱兎

 その夜も、ウハサンはカサを監視していた。

 だが、その夜のカサはいつもと違った。

 人目を避けて天幕を出たのはいつも通りだが、まず方向が違う。いつものカサなら、まず邑の外に向かうのに、その夜に限っては、邑の中心部に向かうのである。

――どこに行くつもりだ……?

 いやな予感がしたが、尾行をやめる訳にはいかない。

 慎重に相手の死角へとまわりこみ、足音を消して近づく。

 カサが動きを止める。

 すぐにウハサンも、気配を殺す。

――今日こそ行き先を突き止めてやる。

 意気込んで後を尾けるが、カサは邑でも屈指の戦士、ウハサンごときすぐに気配を読まれ、振り切られたりはぐらかされたりと裏をかかれてしまう。

 そのたびにウハサンはカサの姿を見失い、歯がゆい思いをしてきた。

 だが、この夜のカサは違う。

 まず気がそぞろである。

 目配りにに警戒心がなく、足運びにもいつもの慎重さがない。

 気配とは、足音、きぬ擦れ、呼吸、視線、匂い、そういった生命活動の総合である。

 それらを慎重に制御し、獲物に近づく技こそ、戦士たちの真骨頂なのだ。

 だが今のカサはそのどれもが散漫で、これではウハサンでなくともたやすく追尾できるだろう。

――ここがカサの通っていた場所、だと! まさか……。

 目的地にたどり着き、ウハサンは驚く。

 そこは、邑長の天幕であった。

 しばらく待つと、いやな予感は的中した。

「いるの?」

 コールアの声。

 ウハサンは飛び上がりそうになった。

 だが、動いたのはカサ。

 コールアの死角に回り、周りに誰もいないか、確認したのである。

「……いるんでしょう?」

 ヒ。

 コールアの短い悲鳴が聞こえた。カサに気づいたようだ。

「入りなさい」

 ウハサンは我が目を疑う。

 まさか、コールアがカサを呼んだのだろうか。

 そして、決定的な一言。

「大丈夫よ。父はいないわ」

 ぶん殴られたような衝撃。

 この夜更けに、天幕の中で二人っきりになる意味。

 間違いない。カサの相手は、コールアだ。

 ウハサンのこめかみに血管が浮く。

 カサへの殺意が、たぎってゆく。

――コールアだと? あいつはヤムナの恋人ではないか!

 そのヤムナが死に、コールアは男たちと気ままに関係を持つようになった。

 その節操のなさに、たえず胸をかき乱されていたのが、ウハサンである。

 ウハサンは、永い事コールアを思慕していた。

 あの美しい姿、立ち居ふるまい、その全てを恋慕していた。

 それをあきらめたのは、彼女がヤムナの恋人だからであった。

――ヤムナなら、仕方あるまいと思えた。

 男として劣る自分が、相手にされぬのも、ヤムナの恋人ならば手が届かぬと諦められた。

 だが、ヤムナの死後、彼女が浮名を流すのは、ウハサンから見てもつまらぬ男ばかり。

 誰かとの噂を聞くたびに、ウハサンの心は槍に貫かれた砂ギツネのように荒れ狂った。

 そして今夜、ウハサンは信じられない事実を目のあたりにする。

 あのカサが、コールアの閨房の片割れなのである。

 ウハサンの胸の内で、嫉妬の炎が燃えさかる。

 今までカサに抱いていた羨望が、かすむほどの強い感情。

 怒りに指先は震え、見開いた目じりには涙がにじむ。

 計算高い男だ、ここまで感情をあらわにするのは珍しい。

 今までコールアへの気持ちを抑制できたのは、所詮相手が別世界の住人だからである。

 ヤムナであってもそれは同じ、ヤムナはウハサンたちの支配者であり、友人ではなかった。

――それが、カサだと?!

 あの、カサ。

 ヤムナの地位を奪い去り、今やそれ以上のものを手に入れんとする男。

 それが、よりにもよってコールアを情人にしていたとは。

――……許せぬ……。

 突き上げるような怒りに、ウハサンの思考はまともではない。

 いかにカサを苦しめるか、それしか考えられなくなっている。

――許せぬ!

 カサへの敵意を新たにするウハサン。

 今まで保ちつづけていた害意は、耐えがたき殺意にまで鬱屈してしまっている。

 そのカサが、天幕の中に消える。

 飛び込んでカサを打ちすえる事を夢想しつつも、結局実行に移さない。

――コールアを、抱くのか……!

 あの白い肌に、カサの手がかかる所を想像し、ウハサンは煩悶する。

 ウハサンが欲しくてたまらない物を、カサはたやすく手に入れてしまう。

――……何故だ……!

 物陰から二人の密会が行われている天幕をにらみ、

――カサが、優秀な戦士だからだというのか……!

 ウハサンはヨロヨロと天幕に近づく。

 息が荒い。

 中で行われている男女の狂態に懊悩しつつも、彼の性器は著しく勃起してしまっている。

――なにをしている?

 中で動きがある、それを察した瞬間だった。

「やめろ!」

 戸幕を引きちぎらんばかりに払いのけ、カサが飛び出してきた。

 ウハサンは慌てて身を隠すが、カサは目もくれず走り去った。

「ま、待ちなさい!」

 夜具で胸元を覆ったコールアが出てくる。口惜しげにカサの消えた方向をにらみ、口の中で悪態をつく。

「……私を莫迦にして……!」

 どういう事であろう、カサはコールアの相手を拒んだようである。

 それはつまり、二人の関係はそれほど深いものではないのかもしれない。

 コールアが、呆けたように突っ立っているウハサンを見つける。

「――何よ」

 文句でもあるのか?

 そう言いたげに、ウハサンを見下す。

 ウハサンはひるむが、コールアの扇情的な瞳が自分の方に据えられた事に、自虐的な満足を覚える。

「……フン!」

 興奮冷めやらぬ様子で踵をかえし、天幕内に消えるコールア。

――決めたぞ、コールア……。

 ウハサンは一人ごちる。

――お前を、俺の女にしてやる……!

 暗い情熱が、ウハサンを満たしてゆく。その顔に、浅ましい笑いが浮かぶ。

「……フフッ……フフッ……フフフフフ!」

 湿った笑い声を抑えられない。

 ウハサンの中で、漠然としていた野望が、確かな形をとり始めた。

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