真なる唄

「……あ……」

 動きを止める。

「……何? どうしたの?」

「あのね、唄ってくれない?」

「え?」

「唄は、余り得意じゃないの」

「そんな事ないよ!」

 あの時聴いた唄は、囁くような小声だったが、カサの知る限り最高の唄であった。

「でも……」

「う、巧いよ! ラシェの唄は巧い!」

 名前を呼びあう事で、距離感が縮まるのを二人とも感じている。

「じゃあ、ね……」

 ラシェも、その距離を縮めようとしている。

「カ、カサも、唄ってくれない?」

 カサ、の名を呼ぶ時のその顔は、恥ずかしげに、伏せられている。

「唄うって、そんなの、駄目だよ……」

 まごついたのは、ラシェが余りにも、無防備に見えたからだ。判りやすく言うと、

――可愛い……。

 と思ってしまったのである。それはさて置き、唄である。

「どうして?」

「だって、僕は下手だし、人前で唄った事なんて、ないし」

「私だってないよ。私には唄わせて、自分が唄わないのずるい」

 膨れて、ラシェ。

「僕の唄なんて、邪魔だと思うけど……」

「でも、唄えるんでしょ?」

「うん」

「私なんて踊るのに、カサだけ何もしないなんてずるいわ!」

 ここまで言われては、カサも後に引けない。元より自分が言い出した事である。

「……解かった。何を唄えばいいの?」

「どんな唄、知ってる?」

「ええと」

 すぐには浮かばない。

「“渡り鳥”は、知ってる?」

「うん」

「じゃあ、それで」

 ラシェが笑い、カサはその笑顔にドキリとする。

 きらめく瞳と歯が、自分だけに向けられていたのを、過剰に意識して、カサはあわてる。

 知っている、とは言ったものの、唄えるかどうかは自信がない。

 “渡り鳥”は難解な唄だ。ゆるく長い旋律の中に、発声が難しい所が幾つもある。

 どんな唄だったろう、唄い出しはどうであったか、いつ唄を始めればいいのか。

 カサは迷う。自然な立ち姿勢のラシェは、制止していながら、今にも踊り始めそうでもある。

 唄い始める? もう少し、待つ?

 戸惑いの中、唄は始まる。


  枝を咥えた 渡り鳥が

  ヒネ松の上で 円を描く


 唄い始めたのは、ラシェ。滑らかな高音。カサもあわててつづく。


  舞い上がり

  風を掴んで 広げた羽が

  大きくはためく


 唄に合わせて、ラシェの手が、ゆるり、ゆるりと舞い始める。


  一羽 二羽 三羽 四羽 五羽 六羽 

  そして 七羽目が


 ラシェの伸びのある声に対して、声変わりを終えたばかりのカサは、ザラザラと砂風のようにおぼつかない。


  渡り鳥が 七羽

  夕陽の地平から 朝陽へと飛んで行く


 ラシェが踊る。

 背を大きく反らせ、両手を羽のように開く。

 カサはラシェの唄を追いながら、その姿に渡り鳥を見る。


  悲しい死を迎えた 魂を

  嘴に咥えて 飛んで行く


 踊りの終焉と共に、遠く地平へ消えてゆく渡り鳥。

 そこにカサが見たのは、最初の狩りを追えた遠征の帰り、ディクスに揺られ、薄目で見た渡り鳥の群れ。

 あの、青すぎる空。

 あの、悲しいやるせなさ。

「――どうだった?」

 踊りを終えたラシェが、興奮と、いくぶんかの照れくささが混じった声で聞いてくる。

 カサは答えられなかった。

「……ねえ」

 恥ずかしくなったラシェが急かす。

 カサは何も答えられない。

「ねえ、どうだった? 私、ちゃんと踊れていた?」

 そこで気づく。カサの体が震えている。聞き取れないくらい小さく、嗚咽が漏れている。

「――泣いてるの?」

 カサが首を振る。子供が駄々をこねて親の手を拒絶するように、首を振りつづける。

「ちがっ、うん、……違う…っ……だっ……」

 ようやく搾り出した声は、言葉にならない。左の掌で顔をつかみ、背を丸めて小刻みにしゃくりあげる姿は、星明かりの下でも苦悩が窺える。

 ラシェは、うろたえた。

 なぜカサが泣いているのかが解らない。

 ラシェよりも一つ歳下とは言え、成人した男が、子供のように泣いている。

 闇夜の中、二人きりで、それも、自分の唄と踊りを見て。

――この人は、とても辛い思いをして来たのだ。

 ラシェもまた、泣く。辛い事があった時に、そして辛い事を思い出した時に。

 子供の頃は、所かまわず泣いていた。

 今は、夜具の中、誰にも悟られぬようそっと泣く。

 父を、思い。

 母を、想い。

 弟を、憂い。

 そして、自分を取りまく世界の、理不尽さを知って。

 一番よく泣くのは、父の思い出に心をはせる時だ。

 もう会えない父。

 優しく、頼りがいのあった父。

 打ち据えられ、苦しんで息を引き取った父。

 ラシェの目蓋に、涙がにじむ。

 カサの涙に、共鳴して。

 先ほど渡り鳥の羽を形づくっていた手が持ちあがり、そっとカサの頬を撫でる。

「カサに、辛い事がたくさんあったのね」

 カサが声を殺し、背を震わせている。

 その表情は読めないが、濡れた瞳が揺らいでいるのが判る。

 しなやかなラシェの指が、零れ落ちる涙を一滴、すくい上げる。

「誰かが、死んだの?」

 こらえ切れず、カサが泣き始める。

 声を上げて、泣き始める。

 慟哭。

 今まで我慢していたものが、一気に噴き出した。

 まだ何も知らぬ子供であった事、何の説明もされず戦士として母の膝の上から引きずり出された事、大人たちの間で、冷たい眼にさらされた事、獣に襲われ、親切にしてくれたブロナーやヤムナたちが目の前で殺された事、そして今なお心にこびりついている恐怖と激痛の記憶、獣に食いちぎられ、片腕を失ったまま戦士として鍛え上げられ、死の恐怖から逃れようと、日々槍をしごきつづけた事、二度目の遠征での、終の槍の事、祭りに出て、邑の中での居場所のなさに失望した事、普通に生きたいと望めば望むほど、己の存在の矮小さに悲しくなる事。

 その全てを、カサの心を圧殺しつづけていた諸々の出来事を、浮かび上がっては押し殺し、どうにもならぬ物と片づけ、頭を低くして耐えてきた。それら全ての記憶が、とめどなく胸に浮かんでは過ぎてゆく。

 泣きつづけるカサ。

 静かに見守り、頬を撫でるラシェ。

 打ち震える体の芯。

 ヒルデウールのような、感情の奔流。

 その終わりに、生まれ変わった世界のように、カサの心が晴れ渡ってゆく。

 カサは、感じる。

――心が、楽になっている。

 長い苦節の後にだけ在る安息。

 この星空の下で、カサは戦士になって以来初めて、心を拘束する重い枷が外れてゆくのを感じた。

 優しく頬を撫でる、涼やかな眼を持つ少女に見つめられながら。

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