幻肢痛
夜。カサはガタウの天幕に呼ばれた。
もうこの冬はヒルデウールの到来は無いだろうと、二人は幾日か前に天幕を設営している。
以前お互いの天幕は少し離れた所にあったが、ガタウの言いつけでカサのウォギ、一人用天幕もガタウのバライーのすぐ近くに設営されている。
――一日中ずっといっしょなんだから、用があるならいつでも言えばいいのに。
ガタウという男は、不思議な決まりごとで動いている。
訓練以外の話をするとき、必ず自分のバライーに呼び出す。
大戦士長という立場上、何かと他人から噂される事も多い。
それを厭うての決め事なのだが,幼いカサの判る話ではない。
今この土地にはカサとガタウの二人しか居ないのだから、聞き耳を立てるものもいないのだから、カサが不思議に思うのももっともである。
小さな融通は、心の隙に繋がる。
心に決めた事には、ひたすら忠実に。
ガタウの強さはそういう頑固さの上に成り立っている。
それを理解する者は、部族の中でも数少ない。
バライーの前まで来た。
「大戦士長」
「入れ」
戸幕を上げて、カサが中に滑り込む。
相変わらず物の少ない天幕の中。
他の者はそうでも無いだろうが、カサはここに来るとなぜか落ち着いた。
――きっとケガをしたときにここで看病されたせいだ。
物言わぬガタウの前にカサが座る。
目上の者に許可を求めずに座るのは、この部族では礼を失した事とされるが、実はこのガタウと言う男、厳格に見えて旧来の礼儀自体にはうるさくない。
その厳しさはもっぱら“狩り”という行為一点に向いている。
「もうすぐ邑の者たちが帰ってくる」
ガタウの言葉にカサは驚く。
もう一冬(百五十日)を、ここ夏営地で過ごした事になる。
――いつの間にか、五ヶ月もたってたんだ……。
その長さに実感が伴わないのは、ヒルデウール以外の日々が単調だったせいだ。
まだ暫くつづくと思っていたこの日々に終わりが来たと思うと、カサは暗澹とした気分になる。
――また邑人たちのあの目が向けられるのか……。
それがカサの心を暗くする、何よりの理由だった。
ここでガタウと二人、誰にも見られずに訓練をする事は、カサにとってさほど苦痛ではなかった。
それよりも、あの深い谷の対岸からこちらを覗き見る好奇と哀れみの視線のほうが、カサの心を重苦しくする。
片腕の自分が異質であることを、否が応でも意識せずにはおれないからだ。
ガタウは苦悩するカサを見つめている。
同じ苦悩を、ガタウも経験した。だからカサの気持ちは痛いほど分かる。
だがカサに救いの手を伸ばそうとは思わない。
それはカサが一人で対決すべき事情だ。
「槍先を持っているか」
ガタウが言うのは、練習に使う石で出来た物ではなく、コブイェックの牙で作った狩りに使う槍先である。
「は、はい」
今、手元にはない。
ウォギの中に置いてあるからだ。
カサは取ってこようと腰を上げるが、ガタウは軽く上げた手でそれを止める。
「構わん。それはもう使わぬ」
「え……」
「要らないならば、今度商人が来たときに交換すれば良い。セリ三杯の茶が買えるだろう」
セリ、というのは一番小さな壺だ。
両手の平に、ちょうど収まる大きさの物である。
悪い話では無いだろうが、一方のカサは当惑する。
槍先がなければ狩りができない。
まさか、石の槍先で狩りをせよと言うのだろうか。
「お前には、別の槍先がある」
「別の?」
どう言う事だろうか。
今持っている槍先では、いけない理由があると言うのか。
ガタウが何も言わずに二本の棒を差し出した。
白い。
これがガタウの言う別の槍先、だろうか。
カサは戸惑う。色や質感から見て木ではないし、牙にしては長すぎる。
「お前の骨だ」
「僕の……?」
――骨……。
常軌を逸した話で、束の間その意味が飲み込めなかった。
理解した瞬間、衝撃でカサの視界がグラリと傾く。
「僕の……骨ッ……!」
右腕の欠けた辺りが疼き、左手で押さえる。
口が渇き、涙がにじんだ。
視線は震えながらも、膝元に重なる二本の骨から離せない。
「肘から上は砕けて駄目だったが、肘から下は無傷だった。だから取っておいた」
ガタウの言葉は、カサに届いていない。
たとえ耳の真横に雷が落ちようとも、今のカサの耳には入らなかったろう。
――これが、僕の、骨なのか……?
歯がカチカチと鳴った。
動揺で顎のつけ根が痙攣している。
五感が麻痺したまま停止する。
なのに、手が伸びる。
そんな物、触りたくもないのに。
見たくもないのに。
存在することを、知りたくもなかったのに。
手に取る。
冷たい。
それが元は自分の肘から先であった事が理解できない。
――だって、あんなに温かかったのに、右腕なら、何をするにも、うまくできたのに、肘のうちがわには小さな傷があって、あれは遊んでたときにころんで、木片が刺さったあとで、なのに……なのに……!
なのに今はただの、冷たく血の通わない白い骨だ。
「……!」
カサは二本の骨を握りしめ、震えた。
――こんな……こんなことって………!
今まさに、カサは自分の腕が失われた事を理解した。
上腕の中程から欠けたカサの腕はもはや死に、腐りおち、ただ二本の骨になってしまった事を。
やがてカサの身体から力が抜けた。骨を、前方に放りだす。
――しかたない……。
カサは骨を投げ出す。
どうあらがっても腕は戻ってこない。
あきらめるしかない。
受け入れてしまえば、つらい出来事も当たり前として受け入れられる。
そうやってカサは、これまでのやるせなさをやり過ごしてきたのだ。
「拾うがいい」
カサは顔を上げる。
「その骨が、お前の新しい槍先となる」
ぞっとするような言葉だった。
「僕は……いやです」
「駄目だ。お前はこれで狩りをせねばならない」
ガタウの言は、断固としている。
その道がどれほどつらくとも、ひた進む。
それがガタウの生き方だ。
「……いやです」
だが、カサはガタウではない。
周囲を気にせず押し通すほど強い意思など持ち合わせてはいないし、何よりまだ子供なのだ。
「僕は、いやです」
もう駄目だ、とカサは思う。耐えられない。なぜ自分だけこんな目に遭わねばならないのか。他の誰かではいけないのか。同じ年頃の子供たちは、まだ誰も成人していない。当たり前だ。成人するには十七歳(約十四歳)にならねばならない。それよりも早く成人するなんて話は、聞いた事がない。
――ヤムナでさえ、みんなといっしょに成人したのに。
なのに自分は、それよりも三年も早く成人した。
しかも戦士階級に組みこまれ、最初の狩りで片腕を失い、一人で槍の訓練をさせられ、冬季に夏営地でヒルデウールを過ごし、そして今、自分の骨を槍先にしろと言われる。
「ぜったいに……いやです……!」
カサは震えて泣いている。
心が折れたのだろう、涙を組んだ足に落とし、肩を震わせ、声なくしゃくり上げ、すすり泣く。
「判った」
カサはガタウを見た。
「だがその骨はお前の物だ。持って行くがいい」
相変わらず表情の読めない顔。
「お前はもう戦士ではない。明日からは何もしなくて良い」
カサにはその言葉の意味がわからない。理解を拒絶したのだろう。
「さあ出てゆけ」
――僕は、もう戦士じゃない……?
「出てゆけ、と言った」
ガタウがくり返す。
カサはハッと顔を上げ、ノロノロとバライーを出る。
戸幕を下ろすと、天幕内の明かりに伸びたカサの影も閉じる。
立ちつくす。
捨てられた、そんな気分だ。
手の中に残った二本の骨。
それはもう自分の右腕でもなんでもない、ただの骨だとカサは思う。
それからトボトボと歩き出す。
すぐ近くの自分のウォギにもぐりこむ。
腰を下ろして足をかい込む。
――僕は、もう戦士じゃない……。
手からコロリと骨が落ちた。
カサは気づいてない。
――僕はもう、戦士じゃないのか……?
ボソ。
無造作にケレ、寝具の上に横たわる。
かゆい。
腕が、かゆい。
無性に、かゆい。
欠けた腕の、肘がかゆい。
今はもう無い、右肘がかゆい。
かゆいのに、かけない。
右肘がかゆいのに、右肘は無いから。どうにもできない。
――かゆい、かゆい、かゆい、かゆい!
「あああああああああっ」
カサは掻き毟る。
右腕の、欠けた部位を。
そんな所は、かゆくないのに、本当にかゆいところが掻けない。
――たすけて!だれか、たすけて!
気が狂いそうだ。
いびつに治癒した欠損部分が、掻き毟りすぎて破れ、血がにじむ。かまわず掻き毟る。
なのにかゆみは止まらない。
チリチリと皮膚をくすぐる感覚が、これほど神経に障るなんて。
「ああああああああああああああああああああああっ」
カサはケレに顔をうずめて絶叫する。その叫び声を聞く者は、いない。
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