のこされしもの

 翌日、邑では大移動が始まっていた。

 大きな荷を、家畜の引く車に積みこみ、おのおのが背負子を担いでは、邑長が先導する隊列についてゆく。

 獣の革を運ぶ車が前の方にあるのは、途中で商人と出合ったときに、塩や装飾品などと交換するためである。

 その後ろに生活必需品の車がつづき、後はそれぞれが勝手につづく。

 最後尾が子供たちとそれを見守るソワニたち。そこから大分と離れてサルコリたちがつづく。

 彼らは車を持たないし、家畜もいない。

 もともと財産という観念の薄い部族だが、サルコリたちには何も与えられない。

 少量の水と食料、それに破れた古布だけ、あとは死すらも平等には与えられない。

 彼らを弔う儀式に、ベネスの巫女は来ない。

 サルコリの魂は穢れているからだ。

 カサとガタウは、昨日と同じ事を飽きずにつづけていた。

 砂の詰まった革袋を、石の槍先で突きつづけるのである。

 飽きずに、と書いたが、実際カサたちは昨日にも増して熱心にその作業をつづけていた。

「フッ」

 ドッ。

 食いしばる歯の間から漏れる呼気とともに、石の槍先が砂袋を打つ。

 朝起きたときには腐った老木のようにきしんだ関節も、体を動かすうちに血が通い、滑らかさを取り戻す。

「フッ」

 ドッ。

 物見高い見物人も今日はいない。

 みな朝のうちにこの夏営地を出発している。

 たとえ居たとしてもカサは気にしなかったろう。

 今は傍らに立つガタウと黙々と槍をしごくカサ、邑のあった広い空間にはそれだけの人間しかいない。

「フッ」

 ドッ。

「腰が高い」

「はい」

 腰を落とし、突く。

「もっと強くだ」

「はい」

 ドシッ。

 槍尻から腰に、貫くような痛み。

 歯を食いしばりそれを押さえ込む。

 昨日ずる剥けた左手のひらの皮はずいぶん前から出血が始まり、汗と混ざりあって薄い紅色を点々と地面に残している。

「フッ」

 ドシッ。

「フッ」

 ドシッ。

「フッ」

 ドシッ。

 動作に、昨日のような怯みがない。

 振り子のように無機質に、カサはこの作業をつづけている。

 だがその表情に込められた、まるで熾き火のような熱量はどうだろう。

 ガタウは、その目を知っている。

 彼自身が持っているものだ。

――覚悟したか。

 深い眼窩の奥で強く光る眼を向けながら、ガタウは自らが左腕を失ったときの記憶を反芻する。

 あの時、ガタウは全てを失った。

 有望な戦士としての期待も、周囲との信頼関係も、ただ一人愛した女性も。

「フッ」

 ドシッ。

 目の前で槍をしごきつづけるこの少年もまた、己が全てを失った事を理解したのだろう。

 だが、当時ガタウは二十歳(十六・七歳)、比べてカサはまだ十四歳(約十二歳)だ。

 未成熟な心が、この試練に対して吉と出るか凶と出るか、それはガタウにも判らない。

「フッ」

 ドシッ。

「腰を落とせ」

「はい」

 ドッ。

「もっと強くだ」

「はい」

 ドシッ。

「まだ弱い。革袋を貫き通すつもりでやれ」

「はい」

 ドシッ。

 それが日没まで、延々とつづく。

 誰もいない砂漠で、カサは延々と砂袋を突きつづける。



 カサとガタウ以外、誰もいなくなった夏営地。

 二人の天幕を残し、全てが運び去られ、今は荒涼とした風景が広がるだけだ。

 そこはもう、周囲の砂漠となんら変わりはない。

 カサは槍をしごきつづける。

 飽きもせず、文字通り朝起きてから、夜寝るまで。

 三日経ち、四日経ち、五日経ち、そして幾日が経ったであろう、

「フッ」

 ドシンッ。

 いつからこの訓練を始めたのかすら判然とせぬ中、カサは毎日黙々と槍を振るいつづけた。

「フッ」

 ドシンッ。

 苦痛に顔をしかめ、苦痛を克服し、苦痛を支配し、更なる苦痛を求めて、

「フッ」

 ドシンッ。

 夜が明けてから日が落ちるまで、毎日毎日、槍をしごきつづける。

「フッ」

 カサの呼気とともにうず巻く風が、傍らのガタウの肌をなでる。

 ドシンッ。

 ビリビリと、足裏まで衝撃が伝わる。

 一体どれほど鍛錬を積んだのだろう、わずかの間に、カサの槍は様変わりしていた。

 めくれ上がったショオからはだけた、以前は華奢だった胸板に、うっすらと筋肉がつき始めている。

「フッ」

 ドシンッ。

 低く落とした足腰も、地面に張り付くような安定感がある。

 いくら腰を落とそうと、もはや膝が萎える事はあるまい。

 いまだ少年の幼さを残すものの、一回り大きくなった足腰は力強くたのもしい。

「フッ」

 ドシンッ。

 顔についた傷はすでに癒えて消え、緩やかな曲線を描いていた頬は、肉がそげおちて線の細い骨格をあらわにしている。

 そして何より、真っすぐな眉の下の目は、猛禽類の精悍さをまといはじめている。

「フッ」

 ドシンッ。

 全身の筋肉を、瞬間的に爆発させる突き。

 槍先が大きく砂袋に突き刺さる。

 動きに無駄がない。

 動作に動員した力の全てを、槍先の一点に集中している。

――頃合いか。

「そこ迄だ。休め」

 カサの動きに満足し、ガタウは制止をかける。

 天空の太陽はちょうど頭の上を越えた。昼飯時だ。

「はい」

 カサは槍を下ろす。

 まだつづけたかったのだろう、少し残念そうな様子だ。

 ガタウはカサに構わず腰を下ろし、干し肉と水袋を取り出す。

 向かい合わせにカサも座る。

 渡された干し肉をかじり、十分にかみ砕いてから水袋を受けとり、飲み下す。

 それから小さな岩塩のかけらを口に入れる。

 汗で失った滋養を補給するためだ。

 塩気がビリッと舌を刺激した。

 この砂漠において、塩は貴重品だ。特に鉱物を多く含む岩塩は、必要不可欠の栄養素である。

 食糧管理を司るカラギを介さずに塩を手に入れられるのは、ガタウやカサが戦士だからである。

 簡単な食事を終えると、ガタウは昼寝する。

 座ったまま槍を抱え、首を落とし眼を閉じて寝る。

 窮屈に見えるが、ガタウが狩りの遠征の間もこうして寝ているのを、カサは知っている。

 最初は眼を閉じて休んでいるだけかと思ったが、深い呼吸と共にゆっくり上下する肩が、ガタウが浅い眠りの中にある事を示している。

――もしかして、天幕の中でもこの寝方なのかな。

 まさかとは思うが、ありえる話だ。

 ガタウという男は、一度こうと決めるとそれをもう曲げない。

 マンテウ、大巫女のお告げでもない限り、梃子でも動かない男である。

 ガタウをぼんやりと見つめながら、横ざまの強い風が膝頭に引っかかってクルリと巻いた。

 いつの間にかこの夏営地にはティエガロ、湿気を含んだ大きな風が吹くようになっていた。

――じき、ヒルデウールがくる。

 ヒルデウール。

 あらゆる風を引き連れた、天空を覆う黒い雲。

 雷鳴と豪雨が三日三晩つづき、地上のありとあらゆる物を押し流す。

 それがため、比較的に水の豊かなこの夏営地で、部族は一年を過ごす事ができない。

 そう、ヒルデウールとは、雨季である。

 砂漠における雨季とは、私たちの知る気象現象とはまるで違う。

 それは激烈で、破壊的で、そしてある種の生命の根源であった。

――それまでに、ここを離れないと。

 ヒルデウールがいつ来るのか、カサは知らない。

 殆どの大人も、知らないだろう。

 一度邑が季節外れのヒルデウールに襲われた、という話を聞いた事がある。

 荒れ狂う風と雨が天幕の半分を押し流し、何十人もの死者が出たという。

――ヒルデウールは、コブイェックなど比べ物にならぬほど恐ろしい化け物だ。

 老人が、声を震わせながら語るのが印象強く残っている。

 コブイェック、その言葉にカサはブルっと身を震わせ、握り締めたこぶしが汗ばむ。

 餓狂いの記憶は、いまだカサの心に深くいびつに刻まれている。

――また、あの獣と戦わなければならないのだろうか。

 餓狂いの憎悪にぬれた目玉。

 あの時かいま見た死の手触りが、今もカサの首筋に生々しく残る。

 肌をなでた獣臭と、ゾッとするような熱い吐息。

 あれ以来カサは、沈黙と静寂が怖い。

 音のない空間に、狩り場の夜のねとつく空気を連想せずにおれなかった。

 あの日闇夜から這い出してきたコブイェックは、今なおカサの目前にいる。

——怖い。

 カサが両手を強く絡ませ、顔を伏せる。

 さざなみのように小刻みな恐怖の臭いを、意志の力でねじ伏せる。

 だが黒々とした餓狂いの気配は、つかず離れずいつもすぐそこに留まり、濡れた牙をぎらつかせてカサの油断をうかがっている。

 叫び声を上げて逃げたい、という衝動を必死で押さえ込む。

――ここで逃げてしまえば、自分はだめになる。

 一度でも逃げてしまえば、歯止めがきかなくなるだろう。

 槍を捨て、悲鳴を上げて逃げ出した、トナゴの後姿を思い出す。

 自分もトナゴと同じだと、カサは思う。

 ブロナーやヤムナのように、獣と向かい合い勇敢に戦うなんてできない。

 あの時自分は、ただ逃げるためだけに、槍を振るった。

 目蓋をきつく閉じ歯を食いしばって、どれ位の間そうしていただろう。

 ガタウが眼を覚ました。

「続けるぞ」

 今まで寝ていたのが嘘のような明瞭な声。カサはホッとする。

 最近気づいた事がある。

――槍を突いている時だけ、僕は安心できるんだ。

 だから、力尽きるまで槍をしごきつづける。

 そして朝まで泥のように眠る。

 そうすれば、夜闇と静寂にひそむ何かの気配に、怯えずにすむ。

 ガタウが傍らに立つよりも早く、カサは砂袋を突き始める。

「フッ」

 ドシンッ。

 杭への打ち込みが、日に日に強くなってゆく。

 表情に表さないが、この少年の飲み込みの早さに、ガタウはいささか感心した。

 肉体の成長は若さゆえだろう。

 血豆や青痣、疲労や筋肉痛は、日を追うごとに残らなくなっていった。

 出色なのは動きの骨子をつかむ感覚だ。

 生まれつき力の強い者はいるが、槍さばきは力任せではいけない。

 小さく、鋭く、そして力強く。

 なまじ腕力がある者に多いのだが、いくら教えても要点を解さぬ者もいる。

 それをこの少年は、小さい指摘だけで理解する。

 一つ言えば十を理解するとはこの事だろう。

 カサが戦士になる時、運動が得意とは聞いていなかったが、それは引っ込み思案な性格が影響しているのではないか。

 どんな運動であれ、やればきっと他の者よりもずっと上手にこなして見せただろう。

――マンテウの占いが確かだったという事か。

 ガタウは口のはじをクイと吊り上げる。

 鋭い目つきにそうは見えないだろうが、これで笑っているのである。

 この男にしては珍しい。

 嬉しいのだろうか、だがその瞳の中には苦い思いが隠されている。

 あの夜、ガタウはブロナーが息を引き取るまで側にいた。

 ブロナーの最期の言葉を思い出す。

――大戦士長、カサを頼みます。あの子は、良い戦士になる。

 熱に浮かされ、家族を呼ぶうわごとの後に、ひどく明瞭な声でそう言ったのだ。

 ガタウが瞑目する。

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