第15話
「弾く曲がクラシックかジャズかによっても固さや形が変わったり、作曲家によってもこだわりがある人は調整するね。使ってるともちろん摩耗するし、ホールの大きさや反響具合によってまた変えたり。今は、使ってるとこのハンマーが左右にずれてきちゃうんだけど、それの調整」
「ずれて……ます? うーん、ズレているような、ズレていないような……気の遠くなる話ですね。終わりがなさそうだ」
ピアノは鍵盤を叩くと、紆余曲折があってこのハンマーが一音につき二本、ないしは三本の弦を叩き、音が出る仕組みだ。もちろん、芸術品とはいえ人間が作るものであるから、少しずつ劣化していく。その結果、羊毛は弦の跡がつき、さらに左右にズレてしっかりと均等に叩けなくなる。それを調整している。
一ミリ程度のズレであろうと、優れた聴覚の持ち主であれば、その一音の狂いを見抜く。そして、羊毛も弦の跡をなくすために整音針と呼ばれる針で刺したり、剥いたりするのだが、それも少しずつ小さくなる。そうなると叩く位置が変わり、また本来の音が出づらくなる。調律にとって一ミリは、とてつもない大きさなのだ。
「……なんか、才能の世界って感じですね。今後のピアノの見方が変わりそうだ」
茫然、というような口調でジェイドは降参した。ショコラもとても細かい作業は多いが、一ミリ以下の誤差というものはなかなかない。むしろ聞いたこともない。ワールドチョコレートマスターズのピエスモンテ部門、そのレベル以上の繊細さだ。
「職人の世界なんてそんなもんだよ。ジェイドさんもなにかそういうの、ない?」
調整作業をそのまま進めつつ、レダはジェイドに話を振る。なにかしら極めたいと思うほど、好きなものに出会える人は幸運だ。もしあるのであれば、違うジャンルであっても話は聞いてみたい。
高い次元の調律を見ている中、宣言するのは少し恥ずかしいが、重い口をジェイドは開いた。
「……ショコラティエール、目指してるんですよ」
言ってみて、やっぱり恥ずかしい。店で販売できるくらいであれば自信を持って言えるのだが、まだ見習い。もちろん、そんなことはレダは知る由もないが、なんだかこそばゆい。
なるほどね、とレダは納得した。
「いいじゃない。立派な職人だ。だからベルギー」
「ベルギーはあまり関係ないですけどね。単に、子供の頃はそういう夢、みるじゃないですか。それがそのまま続いてるだけです」
いつから目指しているのかは覚えていない。だが、ショコラというものに触れる機会は多かった。すると、自分の世界はショコラが中心となっていく。市販のショコラを溶かして、それこそテンパリングなんかも全然知らずに、真っ白にカカオバターの浮いたショコラを食べて満足していた頃のジェイドの記憶。それがベースになっている。それがよくも脱線せずに道が続いているものだ、と我ながら感心した。
「子供の頃からの夢が変わらないなら、それはもう人生の夢だね。応援するよ」
なかなかそこまで賭けられる人生を送ることはできない。ならば突き進むべき、とレダは考えている。なにか自分に出来ることがあればいいが、調律だからなぁ、と悩む。
ほっとひと息つき、ジェイドは感謝した。応援がプレッシャーになるほど、まだ実力は伴っていないとわかっている。素直に嬉しい。そしてそのまま質問を返す。
「ありがとうございます……レダさんは、なんで調律師に?」
職人の中でもかなり異質な部類に入るであろう、調律師。ピアニストではなく、ピアノそのものに興味を持ち、なかなかスポットも当たりづらい世界だ。調律というものにジェイドは興味があるが、調律師にももちろんある。
「僕? 僕は本業が他にあるから、正式には調律師じゃないんだ。兼業調律師。だから、その答えになるかはわからないけど」
別に仕事があるため、所属する『アトリエ・ルピアノ』には、レダは常にいるわけではない。むしろ長期間いないことの方が多い。それでも働かせてくれているお店には感謝しきれない。兼業であるため、専業の人とはたぶんだいぶ違うよ、と前置きをした。
それを聞き、ジェイドは頷く。それはそれで参考になるかもしれない。
「かまいません。なら、なぜ兼業でも調律師を目指したのか」
度々、こういうことを聞かれることがある。そのため、慣れた様子でレダは受け答えした。
「そうだねぇ……『神に逆らいたかった』、かな」
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