今日から始まる

伊勢さぬき

今日から始まる


「こんなに真面目に暮らしているのに部屋が片付けられないくらいでひどい言われよう」

「片付けられないくらい、ってレベルじゃないのよ」

 部屋の主である荒谷法子あらたにのりこはベッドの上であぐらをかき、その幼なじみの清川鈴菜きよかわすずなは腕を組んで仁王立ちしている。生ゴミはきちんと捨てているし、床に本が散乱していたって、足の踏み場がなくたって、誰も困らないじゃないかと法子は思う。けれど、鈴菜はときどき法子の部屋にやって来ては、やいのやいのと言いながらインターネット通販で溜まったダンボール箱を潰し、本棚の埃をウエットティッシュで拭き、満足そうにする。

 そろそろ真夏日だなんだと天気予報が言い出す時期だった。早めに冷房を使い始めた法子の部屋は快適だけれど、きっと外は灼熱だろう。東京のコンクリートは照り返しがきつい。

 法子と鈴菜は同じ地方の出身で、同い年だ。生まれつきのお隣さんで、大学進学で上京して、また近所に住んでいる。二人とも品行方正、成績優秀だが、法子には致命的な欠点があった。法子は、部屋が片付けられない。

「えっ、なんで同じ雑誌が二冊あるの」

「店舗によって特典が違うから」

「だからって二冊買うの!?」

「買うよ、推しメンが表紙だったら貢献したいじゃん」

 鈴菜の手元にある雑誌の表紙では、今をときめく女性アイドルグループのメンバーがにっこりと微笑んでいる。「この子がいわゆる推しメンなの?」と鈴菜は興味なさそうに言う。鈴菜にオタク趣味はないらしいけれど、この子のいいところは他人の趣味を否定しないところだ、と法子は思う。

「そうそう、かわいいでしょ」

「アイドルはみんなかわいいからなあ」

「鈴菜もかわいいよ」

「法子も片付けさえできればかわいいのに」

 何事もそつなくこなす人が、ちょっとしたことを苦手とするのは、親しみやすさがあっていいと思う。だから私が部屋を片付けられないのも美点である、と法子は考えるけれど、鈴菜はその点に関しては厳しい。幼なじみはすらっと背が高く、長い黒髪がつややかだ。雑誌をぱらぱらとめくって、「こういう子がタイプなの?」と眉間に皺を寄せている様子も、絵になっている。

「真面目で努力家でいいんだよ。あとちっちゃくてかわいい」

「ふうん……。真面目で努力家でちっちゃくてかわいい人が好きなの?」

「そうかなー、そうかも」

「私は部屋の片付けができる人が好き」

「じゃあ私じゃだめじゃん」

「そうだよ」

 そっけなく言って、鈴菜は雑誌を本棚に収める。「部屋の片付けができない以外は好き?」法子が尋ねると、「まあまあかな」と鈴菜は言う。

「ねえ、鈴菜」

 ベッドの上から手招きをして、呼び寄せる。足下にあったティッシュの箱を乗り越えて、鈴菜が近くに来る。本当はいいところしか見せたくないのに、幼なじみというのは、弱点も知られているから厄介だ。

「……なに?」

 呼んでおいてなにも言わない法子に、鈴菜は訝しげに顔をしかめる。かわいい顔がだいなしだよ、と言おうとして、人間味がある表情もいいな、と思い直す。

「鈴菜……アイドルのオーディションとか受けない?」

「受けません」

「絶対人気出るよ?」

「普通に就職して普通に暮らしたいから」

「まあそっか、アイドルになったら忙しくなって私の部屋片付けに来る時間もなくなるし」

「そうそう、だからバカなこと言わないの」

 まともなことを言っているつもりなのに、鈴菜は今日もつれない。



 幼なじみは顔がいいが、法子がそれを本人に言うことはほとんどない。あまりにも当然のことで飽きるほど言われているだろうから、法子はなにも気にしていないふりをしている。

「七月なのにまだ衣替えをしていないとはなにごとか」

 部屋の入り口でそう言う鈴菜は恐い顔をしているけれど、今日も顔がいいなあ、と法子はほのぼのしてしまう。

「衣替えという概念がない」

 法子がそう言ってのけると、鈴菜はため息をついた。

「たしかに洗濯してそれを積んでおいて着ればいいよ?」

「じゃあいいじゃん」

「でもそれだと部屋が片付かないから」

 服も皺になる、余計に面倒だろう、と鈴菜が言う。その正論に負けて、しぶしぶ積み上げられた洗濯済みの服を畳む。黙々と作業だけが進む、というわけではなく、会話にも花が咲く。

 ティーシャツを畳みながら、普通ってなんだろう、とか、思春期みたいなことを法子は思う。さいきん鈴菜はバイト先の先輩に、遊びに行かないかと誘われたらしい。どーしよっかなあ、と鈴菜は言いながら、ぱたぱたとシャツを振って、皺を伸ばそうとせめてもの抵抗をしている。

「遊びに? 二人で?」

「うん。ほんとはみんなで海に行こうって言ってたんだけど、海ってガラじゃないよね二人で映画行こうよって」

「なんたる抜け駆け」

 そのバイト先の先輩が男なのか女なのかは、瑣末なことだ。鈴菜に対して下心があることだけは確信できるから、なんとしてでも阻止したかった。

「いつ? それより私と出かけようよ」

「まだ決まったわけじゃないから」

 そう言って鈴菜は苦笑して、疲れちゃったね、と立ち上がる。冷蔵庫開けるよー、と宣言してから、一口サイズのアイスを二つ持ってきた。そのうちの一つをひょいと法子に寄越して、鈴菜は小さな口いっぱいに、チョコでコーティングされたアイスを含む。

 鈴菜がバイト先の先輩と遊びに出かけるかを悩んでいるのを見て、もやもやする気持ちは、普通ではないのかもしれない。誰にだってプライベートはある。たまたま隣の家に生まれ落ちたからと言って、なにかを制限する権限はまったくない。顔がいいのを拝ませてもらえるだけで感謝しなくてはならない。

 一口サイズのアイスはすぐに食べ終わる。この手軽さを鈴菜は愛しているらしい。だから、法子の家にはこのアイスが常備されている。



 真夏日だった。法子はアルバイト先のうどん屋に自転車でゆるゆると向かう。おつかれさまでぇす、とスタッフルームに入ると、同じ大学の後輩がいた。「その服初めて見ます」と後輩が言ったから、幼なじみが衣替えを手伝ってくれて発掘したのだ、と説明する。

「へえ、幼なじみ」

「そうそう、世話焼きでさー、同い年だけど、面倒見てもらってる感じ。いつも部屋片付けてもらってるし」

 法子は家事全般が不得意わけではない。鈴菜が来てくれたときは少し手の込んだ料理を振る舞うし、彼女が好きなアイスを買い忘れないくらいには買い物も得意だ。

 アイス常備してるって愛ですね、と呆れ半分、感心半分の調子で後輩が言った。

「幼なじみの顔がよすぎて部屋が片付けられない」

「え?」

「だってさあ……それしか会う口実がないわけよ。たまたま生まれたときからご近所さんだったってだけで、大学も違うし、部屋の片付けしか、私と幼なじみを繋ぐものはないんだよ」

「そんなことないと思いますけど……」

「だってあんなに顔がよかったら人生イージーモードよ私の部屋の片付けしてるのがハードモード、マゾの選択肢」

 鈴菜は人の部屋を片付けるが、潔癖症というわけではないらしい。将来はハウスキーパーを目指すのかと冗談で訊いてみたことがあるが、そのときはじろりと睨まれて終わった。「法子が時給一億円くれるなら考える」という返事は前向きだったのか、後ろ向きだったのか。

「ていうか法子さんって、その幼なじみさんのこと好きなんですか?」

「え?」

「恋してる文脈ですよね、それ」

「コイ……?」

「とぼけてる場合ですか? 自覚あるでしょう」

「いやまあ死ぬほど顔がいいなとは思ってるけど……」

 後輩との会話を引きずりながら、勤務時間になったので暑い厨房でうどんの湯切りをする。慣れた作業は無意識にでもできる。そのぶん他のことを考える脳のスペースが確保されてしまい、法子は鈴菜のことを思う。



 そろそろ外は涼しくなってきただろうか、という時間帯だった。威勢の良さもなく、やる気に満ちた様子もなく、鈴菜がやって来た。いつもなら法子の部屋の散らかり具合に一言はコメントを述べるが、今日はその元気もないらしい。

「ど、どうしたの」

「法子のご飯食べたいなあって」

「残り物しかないけど……」

「食べたい」

 もっと早く連絡してくれていれば買い物に行ってきちんとしたものを作ったのに、とは思うけれど、なんだか気落ちした様子の鈴菜の顔を見て、なにも言わずにおく。

 作り置きの常備菜を出して、昨日の残りのでろでろになった鍋焼きうどんを温め直す。肉と野菜も煮詰まっていい感じだ、と法子は思う。

 部屋の真ん中に置いている小さなローテーブルに皿を並べて、向かい合ってうどんを食べる。熱い、と言いながらそろそろと麺をすする鈴菜の顔を見る。

「なーんかあったの?」

「えー、まあ、げろげろなクソみたいな話」

「なんという言葉遣い……」

「私が言ったら、変?」

 ああこれは地雷だな、と察した。「変じゃないよ」と法子は微笑む。見た目が美しいからといってすべての所作が洗練されているとは限らないし、それを求めるのは無責任だ。理想を勝手に押しつけて、勝手に幻滅するのは、された側としては傷つく。

「他人の色恋沙汰のダシにされてマジでムカつく」

 口の悪い鈴菜の話を要約すると、先日バイト先の先輩から二人で遊ぼうと言われていたのは、本当は鈴菜と仲が良い子を一緒に誘ってほしい、ということだったらしい。鈴菜を間に挟もうとするとはずいぶんと豪胆だ。「最初から誘いたい子を誘えって話よ」と鈴菜はコップのお茶をあおって言う。

 もしかして鈴菜はその先輩のことが好きだったりするの、なんて訊いたら、きっと軽蔑されるだろう。茶化してほしい場面ではなさそうだった。

「ねえ、法子」

 お酒を飲んでいるわけでもないのに、絡むように鈴菜は言う。「私が学校で、バイト先で、なんて言われてるか知ってる?」その問いに答えるのは簡単そうで、正解する自信もあった。しかし、この出題のタイミングが、ニュアンスが、法子に教える。これは、わかりきった答えなはずがない。たっぷりと間を取って、法子が口を開くより先に、鈴菜が言う。

「顔はいいけど、かわいげがないし、面白味もない」

 ひとつは正解した。清川鈴菜は顔がいい。ただし、かわいげがない、というのと、面白味がない、というのには同意しかねる。

「顔がいいのは同意」

「……え?」

「え、ってなに。自覚あるでしょ? 鈴菜は顔がいい」

「あ、そう……法子もそう思ってたんだ」

「いやいやみんな思ってるから」

「法子に言われたことない気がする」

「かわいいって言ってるよ?」

「誰にでも言ってるのかと思ってた」

「そんなわけないじゃん」

「顔がいいとは言われたことない」

「世界の真理をわざわざ言ってないだけ」

 ふうん、そっかあ、顔がいいのかあ……と鈴菜がほうけたようにつぶやく。

「かわいげはあるじゃん、私の分もアイス持ってきてくれたり」

「それは普通では……」

「面白味もあるよ、わざわざ人の部屋を片付けに来るの、おもしれー女じゃん」

「それは……」

 言い淀むようにしたあとに、「法子にしかそんなことしないし」と鈴菜がつぶやく。

「法子、私、本当はね」

 それは察しの悪い生徒に言い聞かせるような、小さな子どもに呼びかけるような、丁寧な告白だった。鈴菜が、言う。

「部屋の片付け、大っ嫌いだし、大の苦手なの」

「へえ……、え!?」

 じゃあどうしていつも片付けに来るのか、と思った。「部屋を片付けられない以外にも欠点あるよ、鈍感」と鈴菜が拗ねるように言う。

「それはもしかして」

 恋してるって文脈ですか、と聞こうとして、思いとどまる。思い上がりだったら、目も当てられない。

「……私、鈍感だから、はっきり言ってくれなきゃわかんないよ」

 顔を顰める鈴菜は、眉間の皺まで美しい。彼女を独占したい、と思うのは、普通のことだと思う。ねえ言ってよ、と催促すると、鈴菜は口を尖らせる。

「うるせー、ばーか」

 精一杯の虚勢は投げやりで、思わず法子は笑った。幼なじみはわかりにくいようで意外と素直で、とてもかわいい。






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