夢を見る意義~一期一会と孤独~

森本 晃次

第1話 夢と意識

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十月時点のものです。それ以降は未来のお話です。ちなみに、放送禁止用語なるものも書いているかも知れませんが、注意を払っておりますので、法的に問題がないということと、素人の作品ということを考慮して、大目に見ていただけると幸いです。


 坂崎平蔵が、箱庭の夢を見たのは、いつのことだっただろう? 少年時代だったのは間違いないのだが、それが小学何年生の頃だったのかまでは覚えていない。

 今は二十五歳になっていたが、時々、いや、頻繁にと言ってもいいくらい、小学生の頃のことを思い出すのだった

 それも、何かの夢を見たというような思い出し方であり、印象深い夢だったという記憶はあるが、なぜ、そんな夢を思い出したのかということは、目が覚めてしまうと分からなくなっていたのだ。

 箱庭というと、心理学の療法としてよく使用されている、

「箱庭療法」

 というのを思い出す。

 基本的には子供相手の療法で、箱庭の中に自由に創造できるという発想から来ているようである。

 ただ、それが何の療法になるのかは、セラピストにしか分からないのではないだろうか?

 坂崎少年は、別に箱庭が好きだったり、心理学に興味があったわけでもない。何しろ小学生であり、箱庭療法などということを知っていたわけではないので、どうして箱庭の夢などを見たのか分からないが、初めて箱庭療法というのがあると聞いた時、

「前にも聞いたことがあったような気がするな」

 と感じたのは、間違いではなかったようだ。

 少年時代に限らず、夢を見た内容を覚えていることはまれであり、しかも、どんな夢をいつ見たのかなど、覚えているわけもない。数年以上経ってしまうと、まったく分からないというのが実情で、せめて、子供の頃か、大人になってからなのかということくらいが分かることもあるという程度だ。

 したがって、子供の頃という概念も、大人との境目が曖昧なために、正直分かっていない。

「小学校を卒業したから」

 というハッキリとした区別のできるところではないはずだ。

 ハッキリしていれば、苦労もない。しかも、人によってそれぞれ違っているので、本人の感覚からも違いが分からないだろう。

 ただ一つ考えられることとしては、子供から大人に切り替わる兆候として存在するのが、

「思春期」

 と呼ばれる期間である。

 この期間も人によってバラバラで、突入する時期、抜ける時期もまったく別で、早い人もいれば遅い人もいる。思春期の期間としても、長い人もいれば、短い人もいる。

 そもそも、思春期という概念も曖昧で、

「いつから突入し、いつで抜けたというのか分からない」

 というのが真実である。

 何を持って突入したというのが曖昧なため、本人の自覚しか思春期を図ることはできない。ただ、女性の場合は、身体に明らかな変調があるため、それに伴った精神状態の発育が、思春期を分かりやすくしているのかも知れない。

「初潮であったり、胸が膨らんできたりした場合など、男にはないものだ」

 と言われるが、実際には男にも大人になった変調が、生殖器に訪れるものだ。

 ただ、それをなぜか公然と言えない。なぜなのかは分からないが、女性の初潮とどう違うというのだろう? 思春期を迎えた生徒を預かる先生も、大変であることは手に取るように分かるというものだ。

 今の時代では、

「男女雇用均等」

 という概念から、女性特有の呼称すら廃止される世の中になってきているのに、なぜ男子の思春期における変調を隠そうとするのか、分からないと思っている人は、本当に少ないのだろうか?

 そもそも、呼称が変わったと言っても、使ってはいけないものなのか分からない気がする。

「スチュア―デスは、キャビンアテンダント」

「婦警は、女性警察官」

「看護婦は看護師」

 などが代表例であり、他にもいくつかあるだろう。

 呼称が違うという意味では、本来は使用してもいいはずなのに、使用しないもの、あるいは、使用してはいけないという確固たる理由があるわけではないが、自粛の意味から使用しないというものなどがある、

 前者の本来は使用してもいいはずなのに、使用しないものとしては、

「戦争の呼称」

 などがそうではないか。

 かの戦争である、第二次世界大戦内部の、

「太平洋戦争」

 と呼ばれるもの。

 これは、従来は、

「大東亜戦争」

 と呼ばれていた。

 大日本帝国が、英米蘭に対して宣戦負奥をした際に、閣議決定されたものだったのだ。

 しかも、この戦争の定義として、

「欧米列強から支配されている東アジアの国々(東亜)を欧米列強から解放し、東亜における新秩序である大東亜共栄圏を建設する」

 という大義名分があった。

 それまで東アジアの国々は、欧米列強による植民地競争によって、支配されていた。それを日本が解放するというスローガンである。

 しかし、日本は戦争に敗北し、戦勝国による戦争犯罪裁判が行われた。その際に、この「大東亜共栄圏」

 という考えは邪魔だったのだ。

 だから、戦争の呼称も、

「大東亜戦争」

 という言葉は使用できないように、占領機関中は呼称を変えなければいけなかった。

 そこでつけられた名前が、

「太平洋戦争」

 だったのだ。

 しかし、この呼称には、誤りがある。大東亜戦争は、中国との全面戦闘状態から続く、シナ事変を含むもので、少なくとも、中国本土を中心に、マレー、シンガポール、ビルマからインドに至るまでが戦場だったはずで、本来であれば、

「アジア太平洋戦争」

 という呼称が正しいのであろう。

 しかも、この太平洋戦争という呼称は、十九世紀に起こった中米での戦争にある。だから、本来なら、別名にしなければいけないものをなぜ、太平洋戦争という言葉にこだわったのか、理解に苦しむというものだ。

 そして、日本が占領時代を超えて、サンフランシスコ平和条約への調印において、やっと占領を脱し、独立を達成することができた。

 その時の条約として、太平洋戦争という呼称は、使用しなければならないという制限から解放されたはずであった。

 晴れて、

「大東亜戦争」

 という言葉をしようしてもいいはずなのに、実際にしようすることはなかった。

 一体なぜなのであろうか?

 その後、日米地位協定や、日米安保などの闘争を経て、日本は、アメリカによる保護を受けることになった。

 新憲法である、日本国憲法の第九条にm戦争放棄の条文がある。

 相手国に責められそうになっているのに、先制攻撃ができない。専守防衛でしかない国家なので、自国だけで、守り切ることはほぼ不可能なのだ。そこで、アメリカなどの同英国による保護がなければいけない。そういう意味で、アメリカに気を遣うことが独立しても余儀なくされ、教育もそれに沿ってのものとなってしまった。だから、名目上は使ってもかまわないはずの、

「大東亜戦争」

 という呼称も、使われることはほとんどなあったのだ。

 前述の後者の方の、

「寄宿の意味でも。使用制限」

 という発想では、俗にいう、

「放送禁止用語」

 というものがある。

 ただ、これは、

「法によって明文化された言葉」

 というものは、例外を除いて存在せず、放送禁止用語というよりも、

「放送注意擁護」

 あるいは、

「法相自粛擁護」

 と呼ばれるべきものである。

 放送禁止用語として言われているものにはいくつかの種類があるが、一番大きなものとしては、

「差別用語」

 と呼ばれるものが多い。

 特に、

「身体的差別用語」

 であり、放送業界が、自ら自粛用語として最初から規定しているものもあれば、視聴者からのクレームによって指摘されたものも結構あったりする。それ以外としては、羞恥に関係のある言葉なども、放送禁止用語である。

 一般的に言われる、

「放送禁止用語」

 と聞いて、この羞恥に関係のある言葉を連想する人の方が、差別用語よりも多いかも知れない。

 ただ、これも、法で明文化されていないので、

「差別用語を含んではいるが、一般的な単語として通用しているものは、その限りではないことが多い」

 と言われる、

 しかも、これはあくまでも、

「放送界」

 においての話であるので、放送禁止用語を一般の会話で規制することは当然できない。

 前述のように、法の規制があるわけでもないし、口にして恥をかくのは、その人だけというだけのことである。

 そういう意味で、テレビ、ラジオなどでは、

「放送事故」

 と呼ばれるものだ。

 放送事故というのは、いろいろ考えられる。

 機械の故障による、やむを得ない本当の事故の場合もあるが、人為的ミスによるものも結構あったりする。

 その中で、放送禁止用語を流してしまうというのもあったりして、苦情が殺到することで、謝罪に追い込まれるものもあった。

 テレビ黎明期の特撮番組などでは、本放送終了後に、視聴者からのクレームが大きく、その回のみを欠番扱いにし、再放送ではその回を放送しないなどということも行われた。 作品によっては、その回を欠番扱いにするため、後の回を、詰めずに放送する、

 例えば、合計五十二回の放送であれば、第十二話が欠番であれば、十一話の次に放送するのは、十三話ということにして、本数自体を変えないようにしている、

 別に番組内で、

「第十二話」

 として明記しているわけではないので、別に何話であっても、視聴者には関係ないように思えるが、ひょっとすると製作者側のこだわりなのか、法相局側の無言の視聴者に対しての謝罪なのかは分からない。

 筆者としては、

「前者であってほぢい」

 と思うのだった。

 社会において、実際に放送するということは、視聴者が考えているよりも、結構いろいろあるようで、放送倫理などの観点から、憲法で認められている、

「言論、表現の自由」

 を、公序良俗に照らし、差別的用語などで。放送すること(善良の風俗)は、放送の中立性、健全性を阻害して、公共の福祉に反するということであろう。

 放送事故に繋がる可能性のある、

「放送禁止用語」

 は、ほとんどタブーとされ、子供から大人になっていくにつれて、訪れる思春期に、どうしても避けることのできないこととをして立ちはだかってくる。

 恥辱系の言葉としては、特に自分の身体に変化が訪れることもあって、余計に起用身をそそられることになる。マンガや小説、さらにドラマやビデオ、DVDなどと言ったマスメディアでは、どうしても露出が大きくなり、

「子供は見てはいけない」

 ということにされているものが結構ある。

 たとえば、

「R18」

 などと呼ばれるものはそうである。

 倫理に沿ったものを放送したり販売するのが目的のはずなのに、販売が主になってしまうと、少々過激なものも、あったりする。

 犯罪ギリギリのものもあったりして、それを模倣する形で凶悪犯罪が起こったことも、かつてはあったものだ。

「凶悪犯の家を家宅捜索したら、ホラーや、アダルトのビデオが大量に見つかった」

 などという事例が多かった。

 特に、未成年や幼女を対象とした犯罪などにはその傾向が多く、捕まえてみれば、犯罪者は中学生だったなどということもあったりしたくらいだった

 今どうなっているのかは分からないが、少年法に守られて、死刑にもならずに、出所したことであろう。

 あれから、もう二十年以上も前のことなので、殺人罪にも時効があった時代だった。

 今でこそ、凶悪犯罪に時効は撤廃されたり、成人の年齢が、二十歳から十八歳に引き下げられることになっているが(執筆時は、まだ二十歳だった)、もっともっと、刑法はそれに付随する関連法などの整備が必要なのではないだろうか。

 そういう意味では、

「政治家は一体何をやっているんだ」

 と、言われても仕方がないことだろう。

 大人になるというのは、法律的には、二十歳からということになっているが、本当はいくつなのだろうか?

 もちろん、個人差があるだおるから、一概には言えないだろう。肉体的にも精神的にもいくつからが成人なのかということは、法律では決められない。

 あくまでも目安ということで、酒、たばこなどは、成人してからというのが今までであったが、今度からは、十八歳になったら成人なので、

「十八歳から、酒タバコが飲める」

 というのは大きな間違いだ。

 この法律だけが、今までの

「成人における法律」

 として、

「未成年者喫煙禁止法」

 というのがあるが、今度からはそれが、

「二十歳未満の者の喫煙に関する法律」

 という風に改名され、喫煙機種できる年齢は、法律上変わらないということになる。

 つまり、精神的なことではなく、肉体的に、

「二十歳未満は、喫煙に適しない」

 ということになるのである。

 つまり、精神年齢と、肉体年齢ではその成長度合いが違っているということを示しているのではないだろうか。

 それを考えると、今まで禁止となっていたものを解禁するということはありえないだろう。

 麻薬などはもちろんのこと、タバコに関しても、今はほとんどどこでも吸えなくなってきている、昭和末期まで、あれだけどこでも吸えた時期があったのに、ここ三十年で、まったく吸える場所はなくなってきた。

 最初の頃は、

「禁煙所」

 という言葉だったものが、今では、

「喫煙所」

 と言われる場所になった。

 健康に関して人間が敏感になってきたということであろう。

 昔に比べて、今は喫煙も立場が悪くなってきた。

 最近では、

「受動喫煙禁止法」

 なるものが制定され、段階を経て、タバコが全面禁煙になってきた、

 最初は、病院、学校、などの公共施設から始まって、会社の事務所、喫茶店や飲食店などの店舗は完全禁煙となった。

 ただ、法律で定めた通気性のある場所に喫煙ブースを設けていれば、そこで吸ってもいいということにはなった。

 ただし、それでも駅のホームや公園などは、基本的には全面禁煙である。

 昭和の頃までは、タバコはほとんどどこでも吸えた。灰皿が置かれているところであれば、大丈夫だったのだが、

「肺炎などになる可能性は、タバコを吸っている人よりも、吸っている人の近くにいて、煙を吸っている人の方が高い」

 という、副流煙の効果を指摘する研究がなされたことから、

「嫌煙権」

 というものが問題となり、徐々に禁煙ルームが作られるようになった。

 電車などでは、四両編成であれば、最後尾車両が禁煙車だというような感じである。まるで今の、

「女性専用車両」

 のようなものだと言えるのではないだろうか。

 そのうちに、タバコが吸える場所がどんどんと減ってくる。駅のホームでは、全面禁煙となり、都心部の大きな駅のホームに禁煙ブースがあるくらいで、電車も、普通電車は全面禁煙、特急列車などでは、一部が喫煙車両という程度であった。

 そのおかげなのかどうなのか、それまでタバコを吸っていた人が、どんどんやめていく。喫煙人口が爆発的に減ってきたのだ。

 しかも、そのうちにたばこ代はどんどん上がっていく。昭和の末期から比べれば、今は三倍くらいの値段になっているのではないだろうか。

 そして、一番顕著なのは、

「咥えタバコをする人がほとんどいなくなった」

 ということである。

 だが、それだけに、ルールを守っていない連中が少しでもいれば、非常に目立つのだ。

「今の時代、これだけタバコを吸う人間は少なくなってきているのに、我が物顔で吸っている連中がいる」

 ということで、迷惑をしている人も結構いる。

 特にルールを守って、細々と喫煙している愛煙家にとっては、いい迷惑であろう。

「一部のバカモノのせいで、俺たち真面目に吸っている人間までもが、白い目で見られる」

 という感情である。

 この感情は、タバコに限ったことではない。禁止されていることを守らない連中がいることで迷惑をしている人たちは他にもたくさんいるということだ。

  昔の暴走族が多かった時代は、真面目にバイクに乗っている連中までもが白い目で見られ、下手をすれば、警察に目を付けられるというようなこともあり、

「いい迷惑だ」

 と思っていた人たちも多かったことだろう。

 自分たちの欲求不満を自分たちの勝手な解消法を使うことで、迷惑を被るということに気づかないやつがそれだけたくさんいるということだ。

 それだけ、世の中というのは、理不尽の塊だと言えるのではないだろうか。

 そんな時代の流れを生きていて、坂崎平蔵は、時々箱庭の夢を見るようになっていた。子供の頃に多かったという印象だが、大人になってみることもあった。

 きっと何か共通点があるのだろうが、それがどうしてなのか、ハッキリと分からない。

 そんな箱庭の夢を見る時は、いつも同じシチュエーションの時に見るのだと思っている。怖い夢を見ている時の一部に見るものだという意識があるからだ。

「どうして、そこまで分かるのか?」

 と言われれば、

「自分が見た夢で覚えている夢というのは、怖い夢を見た時というのがほとんどだからだ」

 と言えるからであった。

 怖い夢以外を見た時に覚えているという意識はない。ただ、

「何かハッキリとは分からないけど、夢を見たんだ」

 という漠然とした意識と、その夢が楽しい夢だった場合だけ、

「楽しかった夢」

 として、記憶しているのが分かるのだった。

 夢を見たという意識を忘れないように、

「夢に見た内容を思い出したい」

 と、最初の頃が忘れていく自分を必死に食い止めようとしていた気がした。

 しかし、それは目が覚める時は、夢を見るというメカニズムについて、よく分からなかった頃のことであろうから、やはり子供の頃のことだったと言えるのではないだろうか。

 目が覚めるまでに、頭がボーっとしていて、さらに、目もハッキリと開けることができない。

 これは自分だけではなく、他の人も同じだった。家で家族と朝目を覚ました時、トイレなどで鉢合わせた時、必死で目を開けようとして、顔をしかめた表情になっているのを見て、

「自分もあんな、人が見て嫌に見える表情をしているのだろうか?」

 と感じさせられた。

 それだけ、深い眠りの後に目が覚めた時というのは、顔をしかめて、嫌な表情になるということであり、それは、目を覚ましたくないという意識がそうさせるのであろう。

 夢を見ていて、夢を忘れたくないから、

「目を覚ましたくない」

 という思いも含まれているのではないかと感じるようになった時期があったことをハッキリとは覚えているが、それがいつだったのか、おぼろげにも分からない。

 ただ、この感情が皆同じものなのかどうか、そこまでは坂崎にも分からない。

「単純に、目を覚ますのが嫌だから、顔をしかめていただけで、そこに夢という感情は含まれてはいない」

 ということなのかも知れないと、坂崎は思うのだった。

 坂崎は、夢というものを、基本的には漠然としたものだと思ってはいるが、

「夢というのは、潜在意識が見せるもの」

 という話を聞いたことで、その時から何かうろこが落ちたような気がした。

 そして、ある時から、

「夢というのは、本当は見ている本人の都合に合わせてみているのではないか?」

 と思うようになっていた。

 夢というものを考えると、

「どこが都合のいいことだと言えるのか?」

 と考えてしまう。

 見たい時に見たい夢が見れるわけではない。目が覚めてしまうと、忘れてしまっている。見たいと思う続きを二度と見ることはできない。しかも、覚えているのは、怖い夢ばかりではないか。

 などなど、夢というのは、実に不思議なものだった、それだけ、自分の都合に合わせてくれないものはないと思っていた。

 しかし、それが、

「潜在意識のなせる業」

 ということであれば、分からなくもないからだ。

 人間が感じる意識というものに、顕在意識と潜在意識というものがある。

 一般的に、

「意識する」

 と言われるものは、顕在意識であり、それ以外の意識は潜在意識というもので、過去の記憶などが影響することで、

「無意識のうちの意識」

 とも言えることで、意識をしていなくても、勝手に身体が動くことがあるが、それは潜在意識のなせる業と言えるのではないだろうか。

 よく言われる、

「条件反射」

 などというのもそういうものであり、いちいち考えてから行動していれば、とっさの時に一歩行動が遅れてしまう。つまり、

「危険が迫れば、危険から逃げる」

 というような行動は、いちいち考えていては遅れてしまうということだ。

 夢というのも、そのようなものではないだろうか。

 だから、過去の夢をよく見るのだ。記憶として頭の中に残っているものが、潜在的に見せるのだ。それを思うと、さらに、夢について、いろいろ考えてみたくなった。


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