第2話 既視感とデジャブ
吉塚が中学生になってから、一度、同窓会を行ったことがあった
その時、担任の先生がサプライズで聖羅先生を連れてきた。聖羅先生は、その後、教育実習を終えて、そのまま吉塚の母校に配属になった。担任の先生いわく、
「校長先生の強い推薦があったので、先生の赴任地が、うちの小学校に決まったんですよ」
ということであった。
教育実習だったこともあって、聖羅先生は、ほとんどの生徒のことを覚えていなかった。
といっても、顔と名前が一致しないという程度で、インパクトのある生徒は、
「君はあの時の生徒だよね?」
というように、印象に残った生徒のことは覚えているのだが、顔や名前は憶えていないという状態だった。
「先生が覚えてくれていて嬉しいよ」
と生徒も、名前も顔も覚えられていないが、自分のことを覚えてくれていることの方が嬉しかった。
それは他の生徒と自分が比較されているようで、自分だけが贔屓されているような気がするのだ。
先生に贔屓というと、過去のことが思いだされるので、言わないようにしたが、自分では、他の人との差別化が嬉しかったのだ。
「先生、僕のこと、覚えてくれていますか?」
と聞くと、先生は、吉塚の顔を見ながら、
「いや、ちょっと覚えていないです」
と言われたので、
「そっか、覚えていないんだね? 僕は先生に、他の人にいじめられたと言って、泣きついたことがあったんですが、覚えてないですか?」
と吉塚がいうと、
「いや、実はね。今だからいうんだけど、あの時、苛められているって私に言ってきた人は結構いたんですよ。しかも、何度も言ってくる人もいたような気がしたんだけど」
と先生がいうと、
「そうなんだ、そこまでは僕も知らなかったな」
というと、先生は、してやったりの顔をしていた。
そして、それを見た吉塚は、
「実は、さっき先生が言っていた、何度も言ってきたというのは、たぶん、僕のことだと思うんだ。もし他に誰かがいれば、分からないけど、先生の中で僕のイメージで残ってくれているとすれば、本当に嬉しく思うんですよ」
というと、先生は今度はニッコリ笑ったのだが、それを見ると、先生は、本当は知らないと言いながら、分かっているのではないかと思うのだった。
吉塚は、先生にラブレターを書いたことがあったのだが、それは敢えて言わなかった。先生もそのことに触れようとしないのか、最初から忘れてしまっているのか、どちらにしても、今さらこの話題に触れるのは、吉塚にとっては、恥ずかしいだけであった。
ただ、もし今先生にラブレターの話をすると、
「君だけじゃなくて、皆からもらったもんね」
と言いかねない気がした。
ただ、それを言われてしまうと、先生の性格を疑ってしまうかも知れない。
先生が、いうと、嫌味に聞こえてしまうのだ。たぶん、さっき先生が、
「虐められたと言ってきた人が多かった」
と言われた時、急に冷めた気がした。
ひょっとすると、先生がそう言ったのは、自分を避けようとしているからかも知れないと感じたのは、錯覚かも知れないが、錯覚であっても、そう思ってしまうということは、先生がこの場にいるとは思っていなかっただけに、
「もう、何も余計なことを言わないでほしい」
と思うのだった。
「先生、いじめっ子と、いじめられっ子のどちらを相手にするのが嫌でしたか?」
と、先生に対して、少しでも皮肉に感じてもらえるような言い方はないかと思っていたが、この聞き方が、しっくりくるような気がする。
先生はそれを聞いて、少し悩んでいたが、
「いじめっ子の方が気持ちは分かるような気がするかな?」
と言った、
それを聞いて、吉塚は少し顔を歪めたのだった。
「どうして、そんな風に思うんですか?」
と聞くと、
「そうね。あくまでもどちらかというと、という意味でですね。どちらにしても扱いにくいのは当たり前のことだわ」
と先生は言った。
少しムッとした吉塚は、
「じゃあ、何で敢えて、いじめっ子の方だって答えたんですか? 曖昧に答えることだってできたしょうに」
というと、
「そんな質問をしてくるからよ。私がどちらと答えればいいのかを迷わせて、どちらを答えたとしても、何か攻撃しようと思っていること、そして、曖昧に答えれば、先生としても器を疑うというような言い方だってできるはずですからね」
と、いうのだった。
明らかに、二人の間には挑戦的な会話が成立していて、少し離れたところで、他の生徒たちに囲まれて話をしていた、本来の担任に先生が、まずいと思ったのか、それを聞いて話を切り上げ、急いで仲裁に入ってきた。
「まあまあ、坂上先生も、そんなにムキにならないでくださいよ。学校での不満をこの場に持ち込むようでしたら、それは教師失格ですよ、先生は、真面目過ぎるんですよ。生徒の挑発に対して、同じ目線で対応してどうするんですか?」
と言って、聖羅先生をなだめていた。
吉塚は知らなかったが、この時、担任の先生が言った、
「生徒」
という言葉は、吉塚に対してではなかった。
今の聖羅が受け持っているクラスの生徒のことで、そのクラスには聖羅のことを目の敵にする生徒がいたようだ。
最初の頃は聖羅も、
「この子が悪いんじゃない。悪いのはまわりの人たちなんだ」
と思っていた。
それはまわりの大人なのか、それとも同級生なのか。
同級生だとすれば、その内容は苛めということになる。
聖羅には、いまだにハッキリとは分かっていないが、この子が苛められているかどうかは別にして、苛めというのは大嫌いだった。あってはならないものだという考えは、他の先生と同じなのだが、それだけではない。
聖羅が勧善懲悪な人間であることは、担任にも分かっていた。今は副担任として、君臨していたが、本人は、担任よりも必死になっていた。
まだ新人に近いので、張り切っているというよりも、
「自分に甘えてはいけない」
という思いの方が強かった。
しかし、まわりからは、勇み足にしか見えていない。
「私は。これだけ生徒と正面から向き合っているんだ」
という思いが、担任から見ても、よく分かっていた。
分かっているから、見ているだけで危なっかしいのだ。そんな聖羅のことを一番分かっているのは、当の生徒たちだった。しかし、聖羅の本質が分かっているわけでないところは、まだまだ子供だと言えよう。見た目の通り、まだ新人の先生が、自分の手柄がほしくて、必要以上に生徒に対して絡んできているように見えることが、あざとく見えているようだった。
そんな聖羅と生徒との間に、確執が生まれないわけがない。他の教師は、生徒にも聖羅にも、まるで腫れ物にでも触るかのように接していたが、担任はそういうわけにはいかなかった。
あくまでも、生徒をかばいながら、聖羅のプライドも傷つけないようにしなければいけないと思い、決して。腫れ物に触るかのような態度では、立場的にはいられないのであった。
「坂上先生は、どうしてそんなに前のめりなんですか? 生徒だって一人一人違うんですよ。性格も違えば、行動パターンも違う。持って生まれたもの、そして育ってきた環境が皆違うんだから、当たり前ですよね? それは生徒が先生を見る目だって一緒ですよ。私を見る目と、坂上先生を見る目では違う。だから生徒たちが真正面で、坂上先生をどのように見ているのか、私には分からない。だから、分かるのは坂上先生だけなんだ。それを自覚して、しっかりと一人一人と向き合って行ってほしいと、私は思っています」
と、担任はそう言って諭していた。
それを聞いた時、聖羅先生は悟ったようだった。
「そうだわ。私は決して器用な人間ではない。だから、この担任の先生のように、私は生徒一人一人とそれぞれの対応を分けるようなことはできあい。私は、自分ができることをするしかないだ」
と思っていたのだ。
それはそれで間違っていないかも知れない。
実際に学校で担任や、副担任という顔で生徒に接している先生のどれだけの人が、生徒に対して真摯に向き合っているというのだろう。
しかも。生徒一人一人に対して個別に対応することができる先生がその中でもどれだけいるというのだろう?
下手をすると、生徒に真摯に向き合っていない先生の方が、本当は頭がよく、要領とく振るまえる人であり、理解できる素質を持っている人もいるかも知れない。
「だったら、どうしてそれを使おうとしないのか? 教師として信念を持って先生になったんであろうに」
と思うのだが、
「ひょっとすると、最初はそうだったかも知れないが、生徒との対応の間に、自分が理不尽な目に遭い、なまじ頭の回転が速いだけに、生徒に対して必要以上に踏み込むことが自分にとって不利であることを悟り、事なかれ主義になってしまったのではないか?」
という考えもできるだろう。
聖羅先生は、そう考えるようになった。自分も似たような理不尽ま目に遭ってきたからだった。
生徒の真摯に向き合っていたせいで、付き合っていた恋人とも別れることになった。
二年後くらいには結婚できると思っていただけに、彼から別れを告げられた時には、大きなショックだった。
「どうして、私たち別れなければならないの?」
と問いただすと、
「君はいつも、俺といる時、上の空なんだよ。心ここにあらずというべきなのか? 一体何をやっているんだよ」
と、罵声に近い形で言われた。
「そんなことはないわ。いつもあなたのことを考えているのよ」
というと、
「いいや、そんなことはない。君は一体いつからそんな女になってしまったんだ?」
と言われて、さすがにキレた聖羅先生は、
「何言ってるのよ。あなたが私を見る目が変わったんじゃないの? まさか、あなた私以外にも女の人がいたりして」
と、言ってはいけない言葉を口にしてしまったのだ。
確かに、少し彼は、聖羅先生と、誰かを比較しているような言動が多かった。しかし、それは、他人と比較しているわけではなかった。あくまでも、
「過去の聖羅」
と比較していたのだ。
それは、彼の思いやりの一つで、こういう言い方をすれば、聖羅先生も目を覚ましてくれると思ったのだろう。少し前までの聖羅先生は、彼の行動に対して、少々含みのある行動でも、すぐに察知してくれていたのだ。
だが、今聖羅先生が相手をしているのは、小学生という人間としては、まだ発展途上のこともが相手だったのだ。
「私がどうして、彼にここまで言われなければいけないのか?」
と、完全に責められているという被害妄想に陥ってしまうと、彼がいくら考えて分からせようとしても、すでに、かつての聖羅先生ではなくなっていたのだった。
被害妄想は、彼に対しての怒りと嫌悪に変わり、一緒にいるだけで嫌になるくらいであった。
最初は彼の方から別れ話をしてきたようだったが、それはあくまでも、彼の荒療治のようなもので、本当は別れるという意思はなかったのだ。
しかし、完全に迷走してしまっている聖羅には通用しなかった。
本来なら、途中で交わるはずなので、そこで、お互いを見つめあおうと思っていたのだが、聖羅の方が一気にその場所を通りすぎてしまったので、彼はもう、追い付くことができなくなってしまったのだ。
「ミイラ取りがミイラになった」
という諺があるが、まさにその通りであった。
「私が悪かったの?」
と、結局別れてしまった後で、聖羅先生はそう思うしかなかったのだ。
聖羅先生は、その時、
「私は先生なんか向かないのではないか?」
と一度考えたようだ。
ただ、このまま教師を辞めてしまうと、彼氏も失ってしまった自分には、何もないということを悟り、彼を失ってまで残った教師を辞めてしまうという勇気もなかった。すべてを失ってしまうのが、怖いことに気づいたのだった。
まだ、教師になってから数年しか経っていない。これから、どんどん成長していけるかも知れないが、どんな不幸が待っているか分からない。しかし、それは教師を辞めたとしても同じことがいえるのだ。
せっかく、教職免許も取ったのだし、今の段階で教師を辞めてしまうことのリスクの方が大きいと考えた聖羅先生は、教師を辞めることができないまま、ズルズル続けているというのが、今のところの本音だった。
仕事を続けていると、何が起こるか分からないというのは、確かに他の仕事においても言えることだが、教師の場合は、そのリスクが大きいということを、聖羅は分かっていなかったのかも知れない。
もちろん、続けていくことでどんな危険なことがあるのかということを、具体的に分かっているわけではない。誰にも予見できることではないと思うのだが、もし、何かが起こって、後になって、
「やっぱりあの時、辞めておけばいいんだわ」
と思ったとしても、それはすべてが結果論でしかない。
だからこそ、何かが起こってから、自分の中で精神的に逃げの状態になった時、言い訳を考えたとして、その考えたことを、
「結果論でしかないが」
と思うことができれば、理由を結果論として、考えることもできるだろう。
一時的な逃げでしかなくても、それによって、少しだけであっても、精神的に気が楽になれるのであれば、それはそれで無理なことではないと思えるのだった。
彼氏を別れたことで、孤独感を味わっている聖羅だったが、考え事をすることが多くなってしまった。
どんなことを考えるのか、それは今まで彼氏がいた時よりも、その範囲はかなり増えてしまった。
彼氏といる時というのは、
「この人とこれから歩む将来のことが前提」
という意識が強く、まずは、この前提からでしか考えられなかった。
というよりも、いいことが大前提なのだから、悪い発想に行きつくはずがない。そういう飯豊も、悪い発想がないだけでも、考えられる範囲は実に狭いことであろう。
しかし、その彼氏はすでにおらず。今は孤独と憔悴完に苛まれている毎日、何を考えるかはその時の精神状態によることが多い。
実際には、悪いことの方が多い。今まで悪いことを考えてこなかった分、
「こんなにも、一人で考えていると、怖く感じたり、悪いことを考えてしまう思いがたくさんあろうとは思ってもみなかった」
という思いが頭をよぎるのだ。
余計なことを考えてみたり、好きな人のことをどのように想像していたのか、当事者だった自分は、そのまわりにバリケードを貼っていて、見たくないものを敢えて見ようとしなかったことを示しているのだった。
それでも、まわりを見てみると、
「私は、自分で勝手にバリケードなのか、結界なのか分からないけど、表から見れないように、そして表が見えないようにしていたとは」
と考えていた。
バリケードというのは、まわりから見ようとした時、中が見せない場合のことであり、結界というのは、中にいる自分が表を見ようとした時に、見えない状態になっている様子をいうのだと考えるようになったのは、実際に、不幸が襲ってきた時からだったので、その時は、バリケードと結界の違いを自分で理解しようとは思っていなかったのだった。
一人、孤独に考え事をしている時、
「夢を見ているのというのは、こういう時に感じるものではないだろうか?」
と感じるようになっていた。
孤独の中で、考え事をしていると、何がきっかけで、その時に考えていることを考えようと思ったのか分からない。
彼氏がいる時は、彼氏のことを考えるから、考え事をしているのであって、孤独な時というのは、
「気づいたら、考え事をしていた」
というほど、無意識なものだったのだ。
無意識に考え事をしていると、ふと我に返って、
「私、今何か考え事をしてしまっていたんだ」
と感じる。
しかし、どのようなことを考え、想像していたのかというのは、我に返った時の反動で、忘れてしまっていることが多い。
それは、
「目が覚めるにしたがって、夢を見ていたという意識があるんだけど、その内容を忘れてしまったようだ」
という感覚と似ているのではないだろうか。
夢というものは、目が覚めるにしたがって、その内容を忘れてしまうのは、それだけ、
「夢と現実の世界の間に結界のようなものがあり、通り越してしまうと、結界の先を見ることも思い出すこともできないのではないか」
と感じているからではないかと思うのだった。
それは、現実世界において、起きていて、考え事をしている時と同じような気がする。だから、その間に結界が存在すると考えるのも、当たり前のことであって、夢と現実、そして現実世界の間で孤独に考え事をしている時との違いをどのように解釈をするかと考えた時、結界というものを無視することはできないのであろう。
一人孤独でいると、考えることは無限にありそうだ。
夢だって、一人で見るものだ。
ただ、夢というものを、
「誰かと共有しているものだ」
と感じている聖羅にとっては、この考え方は、明らかに矛盾しているものであった。
しかし、夢を共有しているという考え方だって、いつも夢を見ていたとしても、毎回共有しているわけではない。ただ、共有している人が、必ずしも自分の知っている人だとは限らないことだ。
だから、夢を無意識に見ていると、知らない人の夢に入り込んでいたとしても、そのことに気づくはずもない。
絶えず夢の中で、夢を見ているという意識もなく、自分を分かっていないのだとすれば、それは目が覚めるにしたがって、忘れてしまうものだという考えこそ、矛盾のないものだと言えるのではないだろうか。
そんなことを考えていると、
「夢というのは、本当は眠りに就いた時、いつも必ず見ているものではないか?」
と感じたのだ。
しかし、覚えている夢というのは、すべてではない。むしろ、少ないくらいだ。
よくよく考えてみると、目が覚めてから覚えている夢というのは、怖い夢ばかりではないか。
それを思うと、
「怖い夢以外、忘れてしまったのか、それとも、実際に見ているわけではないのか?」
と考えてしまうが、目が覚めた時、
「何か夢を見ていたような気がするんだけど、忘れてしまった」
と感じることは確かにあった。
しかも、
「今見ていたのが、夢だとすれば、その夢の中で確かに、夢なら覚めないでくれという意識を持ったような気がする」
と感じたのを覚えている。
つまりは、怖い夢ではなく、むしろもう一度見ていたいというほど、楽しい夢であったり、文字通り、そのまま見続けていきたいと思ったことは確かなことのようだった。
しかし、夢というのは、実に都合よくできているもので、
「夢とは、絶対に覚めないものはない」
ということである。
夢から覚めなければ、永遠に夢の世界に入り込んでしまって、
「夢から覚めると死んでいた」
などという、笑えない笑い話のようではないか。
それを考えた時、思い出されるのは、京都のどこかの観光地に、湧き水のようなものがあり、
「三杯飲めば、死ぬまで生きられます」
と言って笑わせている、観光案内の人の話が思い出されたのだった。
夢の話であるが、
見ていた夢を、永遠に見ることができないのだとすれば、
「夢というのは、必ず、中途半端なところで終わってしまうという宿命のようなものを持っている」
と言えるのではないだろうか。
だから、完結していないものを、結界のある現実世界に、意識として見ているという理屈を証明することは難しいだろう。
むしろ、
「夢というのは都合のいいものだ」
と考える方が理屈にかなっているし、他の発想と連結する場合も説明がつきそうな気がするのだ。
そういう意味で、怖い夢だけを覚えているというのは、その結界も、夢による都合も、両方掌握できる考えとして、覚えている夢がインパクトの強いものであるとすれば、それは、
「見ている本人にとって、怖い夢」
であるという考えが理屈としては通るものではないかと思うのだった。
現実で考え事をしている時というのは、彼氏のことだけを考えていればよかった毎日が、どれほど楽しかったものなのかということを考えると、今のように、一人孤独な、大海原に放り出されたような気分になっている時は、考えごとをしてしまうと、
「そのことから逃れられないようになるのではないか」
と思うようになる。
果てしなく、放射状に延びる線上に、考え事をする範囲も広がっていると思うと、彼氏と二人で共有している世界を想像すること以外の、果てしない想像は、妄想であり、実際に起こりえないことも一緒に考えるレベルの中にいるのだから、
「果てしない」
という妄想は、とどまるところを知らないものと考えることもできるだろう。
彼氏と一緒の時の想像は、結構容易なことである。範囲も実に狭いことで、二人の将来を考えるのに、わざわざ悲惨になることを考えるのは、普通に考えればありえない。
結婚して、将来を見据えるわけではない。もちろん、結婚したいと思う相手と付き合っているわけだから、将来のその先が、結婚後だとすれば、その想像もありなのだろうが、そこには一度壁を超える必要があり、その壁を超えるということが、何を意味するのか、考えないわけにはいかないだろう。
結婚というものを。
「幸せの有頂天だ」
と考えるか、
「人生の墓場だ」
と考えるかは、その時の気持ちの上でのタイミングではないかと思う。
幸せの有頂天と考えるのは、結婚に対して、まだまだ夢として追いかけている時のことであり、人生の墓場だと考える時というのは、結婚というものが頭の中で大体見えてきて、よりリアルの想像できるようになると、その想像は妄想ではないほど、目の前に迫ってきていることなのだろう。
既視感のようなものもその中にはあり、
「以前にも、同じようなことを考えたことがあったような気がする」
と感じた時に、思い出すものではないのだろうか。
この既視感というものを、
「デジャブ」
だと考えるのだとすれば、きっと発想としては、
「前に夢に出てきたものではないか?」
と考えることであろう。
確かに、楽しい夢というのは、夢の途中で終わってしまい、楽しい夢というのをなんとなく理解はしているは、どんな夢だったのかは覚えていない。いや、覚えていないわけではなく、思い出そうとしても、どうしても思い出せないというものであるということを、気持ち悪い中で悶々とした意識が残っているような、そんな感覚を思い出させるものだったのだ。
夢を思い出そうとする時というのは、いつも限られた感覚の中で、しかも、
「いつも同じような気持ちになっている時ではないか?」
と思う時であった。
楽しい記憶というのが、そもそも限られた狭い範囲でのことであれば、その理屈はかなうというものだ。
結婚のように、楽しいことと、怖いと思っていることが両極端であれば、余計に、既視感というデジャブが残っていても、それは無理のないことのように思えてならないのであった。
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