少年の覚醒
森本 晃次
第1話 勧善懲悪
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十月時点のものです。それ以降は未来のお話です。
吉塚聡が、まだ小学生だった頃、小学校に一人の教育実習生が来ていた。数か月だけの先生だったが、吉塚にとっては、非常に印象深い先生で、どんな先生だったのかと言われると、とにかく悪いことを徹底的に嫌った、
「勧善懲悪」
な先生だったのだ。
昔と違って、先生というと、子供に手を出したりすると、すぐに評判になってしまうので、どんなに自分が悪くなくとも、一歩間違えれば、まわりから突き上げられて、辞めなければいけない立場になるのは、必然だった。
小学校でも、虐めのようなことはあるようで、生徒同士の虐めはもちろん、先生から生徒への虐めもあるようで、逆らえない子供が問題にもなっていた。
教育自習でやってきた先生は、吉塚の学校には三人いて、低学年を二人、吉塚の六年生には一人が就いたのだ。
その先生は優しいところと厳しいところが共有しているようで、根は優しいのだろうが、芯がしっかりしているようで、小学生とはいえ、吉塚にはそんなしっかりした先生の魅力が伝わってきて、密かに先生に憧れていたのだった。
勉強の教え方は、
「可もなく不可もなく」
というところであろうか。
教えてもらっている立場からすれば、分かりやすいし、来てから最初はさすがにぎこちなかったが、何回か授業を受け持つと、本当お先生と遜色のなさを感じさせられた。
ただ、勉強を教えてもらっている中で、
「先生のどこが厳しいのか?」
ということが分かってきた気がした。
先生は授業の中で、喜怒哀楽が激しいというのか、急に興奮して、我を忘れてしまうことがあるようだった。
横で担任が見ているので、たまりかねて、授業を一瞬止めに入ることがあるくらいだった。
「あっ、ごめんなさい」
と言って恐縮している先生だけど、自分が我を忘れていることに、急に気づくようだ。
そんなことを何度も繰り返しているのだが、吉塚は嫌な気はしなかった。ただ、先生がどうして急に豹変してしまうのか、それが分からなかったのだ。
先生の名前は坂上聖羅先生とう。
「せいら」
という名前は今でこそ多いが、親が付ける名前としては、少し奇抜な名前だった。
今から思えば、先生の親は、世の中を舐めているところがあったのではないかと思えていて、そうでなければ、
「せいら」
などという名前を付けることはないだろう。
そう思うと、先生が子供の頃、名前が原因で虐められたことも多かったのではないかと思うと、先生の親がどれほど罪作りなことをしたのかと感じ、
「子供に対しての愛情なんてあったのだろうか?」
と思うようになった。
吉塚の初恋は、この坂上先生だった。
それはきっと、先生の性格を好きになったのではないかと思う。
竹を割ったような雰囲気のその性格は、小学六年生になるまで、自分のまわりにいなかったタイプの人であり、中学に入ってからも見たことがない人だった。
だが、テレビドラマやアニメの主人公の中には、先生のような人がいて、密かにそんな人が好きだった吉塚だった。
実際の世の中にはいないタイプなだけに余計に気になり、好きになったのも無理もないことだったようだ。
そんな聖羅先生だったが、保護者からは嫌われているようだった。
「坂上先生はえこひいきをしている」
というものであった。
子供たちから見て、先生がえこひいきをしているようには見えなかったが、先生の間で、
「坂上先生、えこひいきはやめてください」
と言われるようになり、先生もなぜか、
「分かりました」
と言っていたが、先生にMえこひいきと言われる意味が分かっていないようだった。
これは後から聞いたことであったが、他の先生も聖羅先生が別にえこひいきをしているとは思っていなかったようで、責めていた先生たちも、聖羅先生が誰を贔屓しているのかということも分かっていなかったという。
どうやら、PTAの方から、総意として抗議が舞い込んできたようで、しかも、誰を贔屓しているのかということも言われていないようだった。
実際に贔屓された生徒がいて、それを非難しているわけではなく、保護者としては、自分たちの子供が擁護さればければいけない立場なのに、他の子たちとまったく変わらない指導をしている聖羅先生に苛立っていたようなのだ。
つまりは、他の先生は、自分たちに忖度し、自分たちの子供を無意識に贔屓しているにも関わらず、聖羅先生は平等ということを表に出して、決して誰にも忖度しない状況を見て、聖羅先生を失脚させようとたくらんだようだ。
贔屓していないことを逆手にとって、それが自分たちの理論としては、
「それこそが贔屓なのだ」
という理屈で、聖羅先生を追いつめようとしていた。
子供にはよく分かっていた。それなのに、どうして大人は分からないのかと、吉塚は思った。
そして、そのあたりの情報を流してくれたのは、何と、PTAの中では、結構な地位にいる人で、学校に対して、聖羅先生を糾弾した人の中にいた人だった。
彼も何も言わなければ、苦しむこともないのにと、吉塚は思ったが、彼が苦しんでいる理由は、
「親が自分のしてほしいと思っていることと違うことをしていることで、大好きな先生が窮地に陥っていることを、自分の中だけに収めておくことはできない」
と思ったようだ。
これは、あくまでも、自分が彼の立場に立ったら、どんな気持ちになるのかを想像したら分かったことであり。人の身になって考えることのできる子供だったようだ。
その友達とは、それまであまり仲が良かったわけではない。むしろ、まわりから避けられているやつだったので、自分も近づいてはいけないやつなのだと思っていた。
それは、親の威光を笠に着ているように見えたからだっただけで、彼に対して何か嫌だったというわけではない。
むしろ彼は静かだった。自分から何かを言おうとしたわけではなく、先生のことを親を裏切るかも知れないという覚悟を持って話した時が、自分から話をする一番最初だったのだ
彼は、自分が親を裏切ったという気持ちから、自分の親たちのことを謝ったりはしなかった。
それは、親に対しての申し訳なさがあったからだろうが、そのために、彼は自分の立場が微妙になるということを分かってのことだったのだろうか?
ジレンマに陥ってしまい、前に進むにも元の場所に戻るにも、どちらも難しい状況い陥った。
少なくとも、こうなってしまっては、元の位置に戻ることはできないに違いない。
彼はきっと後悔したに違いない。しかし、それを誰かにいうことはできなかった。
それを言ってしまうと、せっかく親を裏切ってまで一歩先に進んだ自分が間違っていたことを自らが証明したのも同じことである。
だが、そんな彼の心境を知っている人はきっと誰もいないだろう。せっかくかばってもらった聖羅先生にもきっと分かっていないだろう。ただ、彼がやったことは、
「聖羅先生が、贔屓をしているわけではなく、自分たちの子供を贔屓しないことへの逆恨みのようなものだ」
ということを言っただけだ。
しかも、その自分たちの子供の中に、自分がいるという微妙な立場の本人がいうのだから、誰にもその心境が分かるはずもない。分かってくれるのは、吉塚だけで、すぐには彼もそのことを理解はできていなかった。
彼は名前を笠原亮太と言った。
笠原とは、その時からの親友になったのだが、吉塚も今までに友達らしい友達はいなかった。
笠原に聞いても、
「俺も友達なんていないさ。うちの親同士がつるんでいるということで、時々、親がうちに遊びにくる手前、その子供とも、なんとなく付き合っているという程度で、仲がいいというレベルではなかったんだ」
と言っていた。
「何でも話ができる相手なんていないんだ?」
と聞くと、
「うん、いないよ。そんなやつ本当にいるのかな? 本音を口にしてしまうと、次の日には他の人にバラされているのが関の山じゃないかって思うんだけど」
というので、
「確かにそうかも知れないけど、どうして、そう思うんだい?」
と聞くと、
「親がいつもそういってるのを聞いているからさ。これは母親と父親の話なんだけどね。大人になると、本音をうっかりもらしたりすると、それが悪い方に影響して、自分が損をするだけだから、余計なことを言っちゃいけないっていう話を、よく話しているんだ」
と言っていた。
笠原の父親は、そこそこの大企業で、課長をしているという。子供から見ても、自慢の父親だというが、
「そんな親父は、家に帰ってくると母親に頭が上がらないんだ。だから、小さい頃から、お母さんがこの家で一番力が強く、表でも威張っているんだろうなって思っていたけど、よく他のおばさんを家に連れてきて、いろいろ料理を作ったりしているのを見ていると、そんなに力があるようには見えなかったんだけど、ただ、おばさんたちの中では、輪の中心にいるということだけはわかったんだ」
と言っていた。
吉塚の両親は、そんなに人に対して社交的ではなかった。
それよりも、共稼ぎで忙しく。いつも夜になるまで帰ってこない。夕食を一人で済ませることも結構あり、家族三人が揃って夕飯を食べるなどということは、ここ二年くらいなかったことだった。
小学生でも高学年になれば、
「お母さんが夕方いなくても、大丈夫よね?」
と言われ、一人にされることが今では慣れてしまった。
小さい頃から、親には逆らわない静かな子だったのだが、そんな息子を見て、きっと親は、
「この子は、親の気持ちを悟れる子供なんだ」
と思ったことだろう。
もし、そう思わなくとも、共稼ぎをしないとやっていけないという事実に変わりはない。親に抵抗しない子供というのは、子供に対する親の後ろめたさを少しでも減らせるだけの力しかないのだろうか?
もっとも、共稼ぎの家族など、どこにでもいる家族であり、今に始まったことではない。親とすれば、子供に最悪勘を持とうが持つまいが、それほど気にすることではない。むしろ、
「私たち親は子供のために頑張っているんだ」
とばかりに感じていることだろう。
そんな毎日を、貴重な子供時代を蝕むかのように過ごしている子供が多いというのは、実に嘆かわしいことなのだろう。
聖羅先生が、先生を目指したもは、
「寂しい子供が多くなっているので、少しでも、先生が癒しになれればいい」
という気持ちがあったようだ。
それを、他の先生の前でいうと、露骨に嫌な顔をされたということを、これも後になって聞いたのだが、その時は、
「どうして自分がそんな顔をされなければいけないのかって思ったんだけど、でも、自分がトンチンカンなことを言っているというのは分かっていたの。でも、それ以上にまわりの先生は、信念のようなものを持っていない。そんな人たちにだけは白い目で見られたくはなかったって思ったものよ」
と感じていたようだった。
信念がないと教師というのはやっていけないのか、よく分からないが、その頃の教師というのは、教育委員会、PTA、他の教師などをまわりに抱えて、理想や信念などというのは、あってないようなものになっていたのは、事実のようだった。
教育のカリキュラムがうまくいかなくなってきたのは、やはり、
「ゆとり」
ということが問題になってきたからだろうか。
いわゆる、ゆとり世代というのは、
「それまでの、受験戦争に見られるようま暗記中心の詰め込み教育や偏差値重視と言われる受験戦争を廃止し、ゆとりある学習環境で、子供たちの次週能力や、生きていく力の育成を目指して実施さらたもの」
だったのだ。
しかし、そのせいで、土日が休日という週休二日制が導入されたり、それにより、授業時間が短縮されたことで、カリキュラムの難易度も下げられてしまったことで、今度は、ゆとり教育による学生の学力低下が指摘されるようになると、今度は、「脱ゆとり教育が実施されるようになったのだった。
要するに、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
というべきか、一つの問題に対して、一方的なテコ入れをしてしまうと、その反動が起こり、行き過ぎてしまうということではないのだろうか。
そのような対策を練るのは、バランスが問題であり、どこかでうまく対策を変えなければ、行き過ぎてしまうというものだ。
経済などで、インフレを解決しようとして対策をうつと、今度は不況になってしまう。不況の対策をうつと、今度はインフレになってしまうというような、ちょうどいいバランスが取れない場合などとも比較されるのではないだろうか。
政治、経済におけるバランスのとり方が、教育の現場にもあるということなのだということは、周知のとおりである。
昭和の頃の学校問題というと、
「校内暴力」
などというのが大きかった。
先生などが生徒に対して体罰を与えたりして、それが不良を生み出したりして、学校の窓ガラスのほとんどが割られているというようなところもあったりした。
不良校というのは大体決まっていて、不良生徒も見れば分かったものだが、今ではそんな時代のことは誰も知らないかも知れない。
学ランを着たり、リーゼントスタイルなどというのは、
「ツッパリ」
などと言われ、それが八十年代になると、
「ヤンキー」
と言われるようになってきた。
女生徒でも、マスクをしていたりしていた生徒が、カミソリを武器に持っているなどというのは、今は昔なのだろうか。
さすがに先生も、そんなツッパリに対しては何もできなかった。
卒業式の終了した後に、
「お礼参り」
と言って、先生をボコボコにするなどということが普通に行われていた時代だ。
警察が出動することも少なくなく、まるで安保闘争のビデオを見ているような感じだった。
今でこそ、そんな団結を旗印にするようなことは起こらなかったが、当時は社会、問題だった。
「教育崩壊」
と呼ばれるのがどの時代にあったのかは分からないが、この時代は明らかに、教育は崩壊していただろう。
昭和のそんな時代を知っている人は今はもうほとんどいないかも知れないが、平成に入ってからの状態は、知っている人も多いだろう。
昔からこの問題はあったのだが、表にあまり出ることはなかった。それは、平成になってから、問題が大きくなったからである。
つまりは、
「質が変わってきた」
ということである。
この問題は何かというと、いわゆる、
「いじめ問題」
であり、今にも続いているものだ。
その問題が、
「引きこもりの問題」
に繋がっている。
引きこもりは子供に限らず、大人にもいる。そんな時代になってきたのだった。
ただ、引きこもりだからと言って、彼らに才能がないだとか、差別的な待遇を受けるいわれはないと言えよう。実際に、引きこもりであったり自閉症と診断された人でも、
「ただ、対人関係が苦手なだけで、実は才能に満ち溢れていたり、常人にはない奇抜な発想を持っていたりする場合が多い」
と言われている。
天才肌と言われる人たちで、
「アスペルガー症候群」
とも呼ばれたりもする。
実際に、天才と言われた有名な発明家であったり、今に名を遺す偉人となった人たちの中には、子供の頃、対人関係が苦手で、特殊な教育を受ける羽目にあった人たちも結構いたりする。
「天才と変わり者(今では差別用語になっていて言えない)ことは紙一重」
と言われるが、まさにその通りだ。
いろいろな原因が考えられるが、メディアの発達により、本を読まなくなったり、パソコンやネットの普及で、何でも簡単に調べることもできたりするのも大きな影響だろう。
字を書かなくなったせいで、字を覚えない、手で書かなくなったことで、指の退化などがあるのではないだろうか。
もっとも、これは作者の私見でしかないが、理由は他にもいろいろありそうだ。
そんな中で、聖羅先生は、最初に教師を志した気持ちとしては、子供の頃に、勉強が好きだったというのが一番の理由であるが、勉強ができるようになると、それまで自分になかった自信が生まれてきた。
自信が生まれてくると、何でもうまくいくようになったのだ。もちろん、ただの偶然かも知れないが、実際にうまくいくことが多いと、
「せっかく勉強が好きなんだから、自分でも勉強しながら、子供に勉強を教えるという仕事って、自分の天性かも知れない」
と感じたのだ。
自分の好きなことが役に立つというのは、実にやりがいのあることで、自分と同じような思いのできる生徒をたくさん作りたい」
という思いが強かったのだ。
しかし、高校から大学に進む頃になって、自分の考え方が、中途半端な気がしてきた。
「自分勝手な考えではないか?」
と思うようになったのだが、それが、押しつけのよういも感じられた。
一度は教師を志すのはやめようかとも思ったが、ここまできての進路変更は、自分でもリスクのあることだと思い、思いとどまった。
この不況で就職難の時代に、せっかくここまで勉強したことを棒に振るというのももったいない。せっかくなので、資格までは取っておいてもいいと思ったのだ。
だが、実際に教育時修正となって、学校に赴任すると、自分が思い描いていた学校とはかなり違っていた。
確かに、苛めなどが蔓延っているのは、印象として分かるのだが、表に出てきているわけではない。
苛める方がうまくやっているのか、それとも、苛められる側が、バレないようにしているのか、ハッキリとは分からなかった。
自分たちの子供の頃も、苛めはあった。あの時お似たようなものだったが、自分が子供の立場から見ていたので、苛めがあっていることは分かっていて、先生の立場から見るよりもハッキリとしていた。目線が同じだからであろう。
それを思うと、小学生の頃に何も言えないかった自分と、今、先生として何も言えないという立場と、分かる気はした。
子供お頃に、
「どうして先生は助けてくれないのだろう?」
と思っていたが、
「なるほど、このように目線が違っていれば、見えてくるものも見えてこないということか」
先生は、
「知っていて黙っているわけではなく、分かっていなかっただけなのかも知れないな」
とも感じた。
だが、あの頃の先生と今の先生とでは、どこかが違っているような気がする。苛めも進化しているのだろうが、隠し方もうまくなっているのかも知れない。
ただ、もう一つ言えることは、
「大人の方も、見て見ぬふりをすることが身についているのかも知れない
と考える。
なぜなら、自分たちが小さい頃の先生というと、先生たちの子供の頃というと、本当に苛めというのが出始めた頃で、社会問題になっていたとしても、まだまだ何も分かっていなかった時期だろう。
今では、コンプライアンスも煩く言われ、先生が生徒にできる行為もかなり制限されてきた。
躾と称して子供に手を挙げると、暴力と言われ、教育と称しての指導も行き過ぎると、
「体罰」
と言われるのだ。
あの頃はそこまではなかった。きっと、苛めも表に出てきていたので、苛めた生徒に対して先生が起こったり、態度の悪さに業を煮やして手でも挙げてしまうと、そこからは、体罰になるのだ。
PTAは。今も昔も強いもので、
「教育委員会に訴える」
となると、先生も弱い立場だった。
先生の方にも親の方にもそれぞれに言い分がある。
「子供の躾は、親の責任であって、学校には責任はない」
と親が言えば、親の方も、
「高い学費を払っているんだから、躾も教育の一環ですよ」
という言い争いになってしまう。
しかし、これは永遠に交わることのない平行線であり、この話題になると、そちらもそれぞれの言い分から、引き下がることはない。なぜ、平行線かというと、ここで話が膨らんでくると、本来の主旨から離れていってしまうので、平行線どころが、違う方向に行ってしまうからだった。
学校と保護者は、そんな争いの繰り返しであり、先生は保護者を、保護者は先生を、
「天敵」
として見てしまうことで、話ができる状態になるはずもない。
一つ言えることは、保護者の方は、その学校に預けているのは、小学校でも六年間、中学高校ともなると、三年しかないではないか。そういう意味では、保護者も先生も、相手にどうしてあからさまにイラつくかが分かるというも小田。
保護者とすれば、
「先生は、在学中だけ面倒を見ればいいかも知れないけど、こっちは、もっと先までこの子を見なければいけない」
という多いがあり、逆に先生側とすれば、
「親というのは、自分の子供だけでいいけど、こっちはたくさんの子供を見なければいけない。しかも、三年経てば、そお子はいなくなるけど、学校には毎年新しい生徒が入ってくる。ずっと続くもの」
と考えているに違いない。
要するに、見ている視点が違うのだ。
親とすれば、自分の子供しか見ていない。当たり前のことである。
先生は、預かった子供全体を見る立場だということになり、先生としても、当たり前のことである。
それゆえに、お互いにずっと続いていくものに対して、見ているものが違うのだ。親に対して、
「他のお子さんに迷惑をかけた」
と言っても、親とすれば、自分の子供はそんなことはしないと思い込んでいるし、先生が、あからさまに他の子供を贔屓しているように見えるのが癪に障るのだ。
子供もそのことが分かっているのか、家では親は自分のことしか見ておらず、厳しくしてくるが、学校にくれば、他の生徒と一絡げにされてしまって。自分がせっかく目立ちたいと思っても、出鼻をくじかれるようで腹が立つのだ。
だから、学校で反抗的な態度を取る。これは先生に責任がないというわけではないだろう。
ただ、他の生徒も見なければいけないという立場上、しかたのないところもある。しかも、教育委員会、親、生徒の板挟みに遭い、自分の目指していた教育というものがあっという間に破綻させられ、辞めるに辞められなくなり、この先どうしていいのか分からずに、ノイローゼになる先生も少なくはないだろう。
何しろ相手は大人なのだ。神経を使う営業の仕事とは違う。営業の仕事も今さらできないだろうが、教師の仕事は一度挫折すると、復帰はかなり難しいだろう。
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