それが恋だった
久里 琳
1 出会ったのは二年の春だった
彼女がもの静かだったことが、まずきみの気に入った。
その第一印象はおおむねまちがってはいないのだけれど、ただ彼女はおとなしいだけの子じゃないってことを、きみはあとから知っていく。きっかけは
ほっそり頼りない
そんな彼女ときみとのあいだに接点が生まれるだなんてだれにも想像がつかなかった。きみは本にもお茶にも興味なかったし。代わりに朝夕バレーの部活で、きみの日々はほとんど埋め尽くされていた。
二年に進級してすぐのオリエンテーリングは、あたらしいクラスメイトと親睦をふかめてもらおうとの学校の配慮だったんだろう。
二人一組とするとき、朽木渚のパートナーにきみを当てたのもまた、配慮にちがいなかった。朽木渚は見るからにかよわかったし、一方のきみは元気がありあまっていたから。でも大人のたくらむ配慮は、子供たちにはたいていよけいなお世話だ。
「無理させるなよ」と先生は注意した。なかば冗談だが、なかばは本気で。
「まかせといて」ときみは請け合った。根拠もなく自信たっぷりに。
朽木渚はなにも言わずに、読みさしの本をとじた。
学校からそう遠くない城址と、むかし城下町だったふるい町家の通りは、じきにジャージの子たちの浮かれた声で色づいた。
きみは朽木渚を連れてどんどん歩いた。平日昼間の町家のあたりは、おじいさんとおばあさんと、猫ぐらいしか歩いていない。朽木渚はつばの広い帽子をかぶって、それがときどき風に揺られた。
「こっちの道行った方が早そうだぞ」
石垣のむこうに見える
くねくね段だらにつづく坂道をすなおに登っていくのは、きみには悠長に思えたのだ。それよりまっすぐ櫓へ向かう小道を登れば、ずいぶん時間が短縮できる。やるならやっぱり勝ちたい、順位がつくなら一番をとらなきゃ――きみの思考はいつだって負けずぎらいで、なにより競い合うのが好きだった。
一方の朽木渚は、勝負ごとから最も遠くにいるような子だった。ひとと競って勝ったことなんて生まれていちどもないんじゃないかと思ってしまうぐらいに。
まかせといて。勝つよろこびを、わたしが味わわせてあげる。朽木渚に、心できみは呼びかけた。きっと楽しい。ぜんぜんちがう景色が見えるよ。細い急坂を全速で駆け上がりながら、きみの心臓は高鳴っていた。
当の彼女がついてきていないことに気づいたのは、坂を登りきって櫓を目のまえにしたとき。朽木渚は、彼女にとっては崖のようにも思えただろう急坂のとちゅうで座りこんでいた。
「ごめんなさい、つかれたからちょっとやすんでたの」
駆け寄ったきみの狼狽ぶりに心配無用、と彼女は打ち消すかのように、立ちあがって坂道を登ろうとした。ところが二歩ほどよろよろ進んですぐまた彼女は立ちすくんでしまった。よく見るときみが難なく登ったその坂は、たしかに道とは言いがたい、朽木渚のような子にはとても登れそうにない、壁のような急坂だった。
「わっ、無理しないで、止まって止まって。櫓にはわたし行ったし、問題も解けた。だからもう上に行かなくってもいいんだよ」
きみはあわてて彼女のわきの下に手を差し入れて、支えるようにして止めた。朽木渚はふり返って問うた。
「解いちゃったの?」
「うん、解いた」
きみが答えると、朽木渚は首をかしげてすこし考えてから、
「ズルしちゃったね。ふたりでまわりなさいって言われてたのに」と言った。
帽子の下の彼女の顔にはいくつもの汗のつぶに混じって、無垢ないたずらの共犯者同士が交わすような
「だいじょうぶだよ、このぐらい。ほら、こっからでも見えるじゃん櫓」
そう言ってきみは崖のむこうにすこしだけ櫓の屋根が覗いているのをゆび指した。
「……ほんとだ。だったらセーフかな」
「セーフだよ」ときみは応じた。
それから彼女を支えて崖を下りるあいだ、なにかが胸に、波のようにひたひたと迫ってくるのを感じていた。それはひとつには申し訳なさだった。それ以上に、さっき朽木渚の
崖を下りきって元のルートに戻ると、きみは貸していた肩を彼女から離して、
「ごめん。ちょっと張り切りすぎてたみたい。朽木の体力を考えてなかった。わたし突っ走っちゃうとこあるからさ、もししんどかったら言ってね」と言った。
朽木渚は首をふった。やわらかに、ゆっくりと。
「ううん。わたしこそ迷惑かけちゃった。だいぶん時間をロスしちゃったね。だいじょうぶ、ここからはちゃんと歩くわ、ロスした分とり返しましょ」
そう言って彼女が顔をあげたとき、汗のしずくがあごから落ちた。
きみの心配を振り払うように歩きはじめた朽木渚がまた倒れたのは、三十分ばかり経ったころ。
その間きみは、さっきの反省もわすれて彼女を引っぱりまわしていたのだった。きみはすこしでも早く、各ポイントを廻ることでさっきのロスを取り戻したかったのだ。彼女が迷惑かけたなんて思わないで済むように。
「糸が切れた人形のよう」って言葉を聞くけど、これのことだったんだな――ときみは感心して、すぐ、こんなときにこんな詰まらないことを考えるわたしは人でなしだと自分で責めた。
ちょうどふり返ったきみの数歩うしろで、朽木渚はくずおれてしまったのだった。あわてて駆けつけたきみは華奢な彼女の上半身を膝のうえに抱きあげたけれど、発する言葉はどれもこれも意味の通らない声にしかならなかった。
朽木渚はいっしゅん意識が飛んでいたようで、きみが必死に呼びかけるのでやっと目をあけると、
「ごめんなさい、がんばったんだけど……だいじょうぶじゃなかったみたい」と言った。ちいさいけれどわりとしっかりした声で。
彼女が目をあけたからきみはゆるしを得た気がして、おおきく息をした。
「無理してたんだね。どうして言ってくれなかったの」
責めるような響きになったのに、きみは自分でおどろいた。そんなつもりじゃないのに。とりつくろって言葉を足せば足すほどますます彼女を責めるようで、とうとうきみは、苦い想いで口をとじなければならなかった。
「あなたをがっかりさせたくなかったから。だってあなた、とても楽しそうだったんだもの。でもやっぱりわたしまちがってたのね、迷惑かけてしまったわ」と彼女は言った。それからちいさな声で「ごめんね」とつけくわえた。
「ちがうよ、そんなんじゃない。迷惑だなんて思ってない」
つばを飛ばしてむきになって言うけど、想いが伝わっている気がまるでしなかった。
「わたしこそ気配りが足りなかった。朽木のことちゃんと見てなかった。ごめん、ほんとにごめん。わるいのはぜんぶわたし」
飛んだつばは膝のうえの朽木渚の顔にかかった。おもわず指を伸ばして拭うとながい睫毛に当たって、彼女は目をしばたいた。
「あ、ごめん」
あわててきみが指をのけるのを、朽木渚は見あげた。その目にはさっきよりすこしかがやきが戻っているように見えた。
「もうやめましょ、『ごめん』てふたり言いあうのは」と彼女は言った。またあのいたずら者の咲みを泛べて。
つられてきみも
朽木渚はきみの膝に頭をあずけて、
「あなた、いいひとね」と言うと、目をとじた。
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