第48話 私のご主人様中毒
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ご主人様が私で染まっていく姿を見るのが好きです。
欲がたっぷり込められている視線で私を見つめて、それでも我慢しようと必死にもがくご主人様はとても可愛くて、愛らしいです。
私は、中毒になっていると思います。
私はご主人様中毒で、きっと毎日のようにキスしなかったら私はダメになるでしょう。
そして、私は自分以外の誰かを見つめようとするご主人様を、きっと耐えられないと思います。
ちょうど、今のように。
「羽林が、週末に会おうってさ」
夕飯を食べている途中でしれっと渡された言葉に、身が強張ります。
私は顔を上げて、ご主人様を見つめました。私の気を知って知らずか、彼は淡々と言葉を続けます。
「で、土曜日の夜ご飯は要らないかも。言っとくけど、二人きりで会うわけじゃないよ?羽林が所属したレーベルの人たちも来るみたいだし…………氷が心配する要素は、ないよ」
「…………」
私が心配する要素はない。
それはとても甘い響きを持った言葉で、ご主人様が私を気にしてくれているという優しさの裏返しでもあります。
当然、嬉しくなります。心に温もりも広がります。目の前のこの人がもっともっと、愛おしく見えます。
だけど、同時に胸の中で不安が木霊しました。
「……なんで、私が心配すると思うのですか?」
「………」
「羽林さんに会うんですね、分かりました。その日の晩ご飯は一人で適当に済ませます」
だから、こんな意地悪な言い方をして、ご主人様を嫌がらせるのでしょう。
最低で最悪だと思います。自分を心配してくれる優しい主人に、こんな物騒な態度を取るなんて。でも、ご主人様は分かっていないと思います。
心配する要素がないと言われても、安心していられるはずがありません。
羽林紫亜の存在自体が、すべての不安の根源ですから。
「…………」
「…………」
ご主人様はそれ以来になにも言わず、黙々と食事を続けるだけでした。
ハンバーグを食べ終えて、皿洗いをしたら私の仕事は無くなります。
ご主人様はいつものように自分の部屋―――作業室に閉じこもり、私はいつも通りにリビングで、つまらない番組を見ながら考えの沼にハマって行きます。
「……………」
あんなにキスをしても、あんなにハグをしても、温もりを交わし合っても、私の不安は消えません。
ご主人様が大事になればなるほど不安もかさばり、彼が私より大切な人になった以来にはもう、どうすればいいか分からなくなりました。
ご主人様は私のすべての初めてであり、私をこの世に繋ぎ止めてくれる唯一無二の存在です。
だから、感情は大きくなるしかいなくて。そして、大きくなったこの感情をどうやって消化すればいいのか、私はそのやり方が分かりません。
だから、いつもキスで逃げてきました。
実存は本質に先立ちます。キスをして唾液の音が頭の中で響けば、あらゆる悩みがまろやかになって、目に見えなくなります。
うだうだ考えるのが嫌で、日に日に膨らむ思いを抱えきれなくて常にキスで逃げてきましたけど。
滑稽なことに、キスを繰り返せば繰り返すほど、想いは急激に腫れあがります。
こんなの、ただの悪循環だと思います。
このサイクルを絶たねばいけないのに、私の精神と体は既にご主人様に染まっていて、離れることもできません。
「………………」
そして、どうしようもない私は今もまた、ご主人様にキスしたいという衝動に駆られています。
この前、ご主人様が私で興奮してくれているってことを分かった時。私の中にあった何かの枷は、外れてしまいました。
それ以降の私は積極的になって、図々しくなって、メイドの役目も禁忌も何もかもガン無視して、一直線で走り続けています。
「……やっぱり、ご主人様が悪いじゃないですか」
―――そう言いつつも、私は分かっています。
悪いのは全部、私だって。
「ふぅ……」
私はテレビの電源を落として、ソファーから立ち上がります。
我慢できません。今すぐにでもキスをしなければ―――気を紛らわすことができそうにないです。
私は、さっそくご主人様の部屋に向かおうとしました。当然のようにドアを開けて、驚いているご主人様の上に乗っかって、自分勝手なキスをしようとしました。
なのに、予想外の事態が起きました。
「―――え?」
「…………」
なんと、ご主人様が部屋から出て、私を直接見つめて来たのです。
ソファーの前で立ち竦んでいる私は目を見開くしかなくて、ご主人様は一度唇を湿らせてから、私に近づいてきました。
私は、分かっています。一度作業に没頭し始めたご主人様は、時間の感覚のない音楽の世界に飛んで行っちいます。
キスでもしない限り、あの世界にいるご主人様を現実に引き戻すことなどできません。
そして、今の時間帯なら、ご主人様はきっと音楽の世界にいるはず。
――――なのに、どうして私の前に?
「氷」
「…………………はい」
「正直に言って」
ご主人様は、すぐにでもキスができそうな至近距離で私を見据えます。
「心配なの?」
「………」
「ちょっと気になったから」
「………」
………ああ。
この人は、本当に、悪質極まりないと思います。
「……心配だと言ったら、どうしてくれるんすか?」
「氷の不安が無くなるように、頑張ってみる」
「約束に行かないのは?」
「それはさすがにダメかな」
ご主人様は困ったように苦笑を浮かべてくれます。私は、胸が締め付けられる感覚がして息苦しくなります。
約束に行かないのは。それは冗談半分で言った言葉ですし、実現される可能性がゼロだということもちゃんと分かっていました。
でも、いざ否定されたらたまらなくご主人様が嫌になって、私は拳を握るしかなくなります。
「……じゃ、お願いがあります」
「うん、なんでも言って」
「なんでも、って言いましたよね」
「……できる範囲のことなら、善処する」
「ふうん、じゃ」
私は、片手を伸ばしてご主人様の首筋に触れながら、言います。
「土曜日に、跡をつけさせてください」
「…………え?」
「そうすれば、少しは不安が無くなるかもしれません」
しかし、私の言葉を聞いたご主人様は即座に首を振ります。
「それはダメ」
「……どうしてですか?」
「普通にマナー違反なような気もするし、向こうの人にいい印象持たれそうにないから」
「いい印象を持たれる必要があるのですか?」
「悪い印象を与える理由もないでしょ?」
「……………………………」
ご主人様は正しくて、私は間違っています。
知っているのに、私は正しさを貫き通すご主人様が嫌で嫌で、仕方なくなります。
「というか、すごく心配してくれるんだね、氷」
「………それを本人の前で言うのですね」
「いや、なんか……びっくりしたから」
「………私もびっくりしています」
私はふう、とため息をついてから、ご主人様を抱きしめました。
強く強く抱きしめて、懐の中に顔を埋めて、いっぱい匂いを吸います。
落ち着きと興奮を同時に孕んだ匂いが体中に広がって、溜まった悩みとくすぶりが少しは柔らかくなります。
一生、こうやって抱きしめていればいいのに。
そんなことを思った瞬間、私の頭の中ではあるアイデアが閃きました。
「なら、別のお願いをしてもいいですか?」
「……うん、できる範囲内なら」
「今夜から、一緒に寝たいです」
「―――――え?」
明らかに戸惑った声にクスリと笑いながら、私は顔を上げます。
かかとを上げて、慌てているご主人様にもっと顔を近寄せながら、私は再び言いました。
「今夜から、ずっと一緒のベッドで寝たいです」
「……いや、それは」
「これができないとは、言わせませんからね?」
有無を言わさない、メイドにあるまじき発言を聞いて。
ご主人様の顔は、また少し赤く染まりました。
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