第42話 私のご主人様の温もりがないと
「キス、しばらくやめようか」
ご主人様から突然言われたその言葉は、あまりにも深く私の胸に刺さりました。
刺さった棘はさらにかさばり、心臓が痛くなります。
夜ご飯を食べて洗い物を終わらせて、一緒にテレビを見ていた時に……ご主人様は急に、その言葉を投げてきて。
一緒のソファーに座っていた私は、ゆっくりとご主人様に目を向けます。ご主人様もまた、私と同じタイミングで目を合わせました。
無機質に流れるテレビの音。先に口を開いたのは私でした。
「理由をお聞きしてもいいですか?」
「………」
ご主人様はテレビを消して、静寂の中ではっきりと声を響かせます。
「氷のことが嫌いになったんじゃないよ」
「……そんなことを聞いているわけではありません」
「……氷に嫌われたくないから、距離を置こうとしているだけ」
平然ととんでもない発言をするご主人様は、私から目をそらして俯きます。
私はご主人様に嫌われていない。その言葉は思ってた以上の安心感をもたらしてくれますが、今の心を支配する感情は安堵よりは、もどかしさでした。
「私に嫌われたくないから、距離を置くんですか?」
「……前に何度か嫌いだと言われたことがあるからね」
ご主人様は苦笑を浮かべながら言います。しかし、ご主人様も本当は分かっているはずです。
私がご主人様を嫌いになるなんて、ありえないじゃないですか。
私は今も救われていますから。ご主人様は私の帰るべき場所で、命を絶とうとした私をこの世に繋ぎとめている唯一の生き甲斐でもあります。
感謝と敬愛と申し訳なさ。ご主人様に感じている感情は主にその類のもので、そもそも私は……いえ、女の子なら誰しも私と同じなはずです。
誰も、嫌いな人にキスしたりしませんから。
「…………」
でも、私はご主人様のことが嫌いと既に2回も言っています。
それはきっと最低最悪の言葉で、私にとっても自己嫌悪しか湧かない発言でした。だけど、そう言わないともっと浸食されそうで、怖かったんです。
嫌いだと誤魔化さないと、好きになってしまいそうでしたし。
この人はいつだって、私に甘さと温もりしか与えませんから。
「……かしこまりました」
だからこそ、ご主人様の判断は正しいと思います。この生活をもっと長く続けるためには、お互いに距離を置く必要があるでしょう。
しかも、高校生の男女が一つの屋根の下で住んでいるわけじゃないですか。
何が起きても変じゃないですし、いざ何かが起きたら……私は居場所をなくしてしまいます。
この家から追い出されたら私は、行き先がなくなります。
そう考えるたびに背筋がゾッとして、目の前が暗闇に覆われてしまいます。
「氷」
「………」
「氷?」
「……あ、はい」
「………」
滑稽だと思います。たかがキスをやめると言ったくらいで、ここまで色々考えちゃうなんて。
私はやっぱり、こんなに脆い自分自身を好きにはなりません。改めてそう思ってご主人様を見たら、いつの間にかご主人様との距離が近くなっていました。
手を伸ばせばすぐに相手に触れられる距離。ソファーの両端に座っていたさっきまでの距離とは全然違くて、私の心臓はドクンと鳴り出します。
「………」
「………」
私たちはまた、互いを見つめ合います。
普段だったらこれはキスをする前の静寂ですが、キス禁止令が出された今だと、この沈黙の意味が分からなくなります。
不安と、少しの期待に瞳が震えます。
そんな私を見て、ご主人様は何度か口ごもった後に伝えてくれました。
「嫌いになったんじゃないから」
「………」
「本当だよ?そもそも、前に言ったじゃん。俺が氷を嫌いになるわけがないって。だから……そこだけは、信用して欲しいな」
「………………」
なんてことを言うのでしょうか、本当に。
この人は、感覚がバグっているような気がします。
気恥ずかしくて心の奥に留めやすい言葉を平然と引き出して、相手に伝えます。当たり前とばかりに、自然に伝えます。
一種の爆弾を投げられた私はまた震えて、ついご主人様に覆いかぶさってキスをしたいという衝動に駆られます。実際に体が少し動きました。
……でも、これは守るべき約束ですから、唇を奪うことはできません。
その代わりに、私は口を開きました。
「ご主人様」
「うん」
「私も、ご主人様のことは永遠に……嫌いにならないと思います」
熱に浮かされたのか、ご主人様と一緒に感覚がバグったのか……もしくは、想いが膨らみ過ぎたのか。
どちらかは分かりませんけど、私は拳を握りしめてから言いました。
「ふふっ、前は嫌いだと言ったのに?」
「……………それは」
「それに、これから氷に酷いことするかもしれないのに?」
「……ご主人様が私に酷いことをするはず、ないじゃないですか」
理想の押し付けか、はたまた願望か。
どっちにしろ危なっかしい言葉だというのに、ご主人様は笑いながら頷きました。
「氷」
「はい」
「俺には分からないんだ。互いの感覚や価値観が違うから、氷にとっての酷いことが俺にとってはなんともないことかもしれない」
「………」
「俺は音楽バカで、ズレているところがあるからさ。でも、これだけは約束できるよ。常識的な範囲内で、俺は絶対に……君に酷いことをしないって約束する」
ご主人様のさらに近くなって、その顔が視界の大半を占める距離になった時。
ご主人様は、もう一度言いました。
「氷が悲しむと思う行動は、絶対にしないから」
「………………………」
「これで、少しは安心してもらえた?」
「…………え?」
「泣きそうだから、氷」
……泣きそう?私が?
私はそんなことありません、と即座に反論しようとします。
だけど、視界が段々とぼやけていくのが分かって、目頭の熱さが感じられて……認めるしかなくなります。
「………私は、酷いことばかりするのに?」
「氷が酷いことをしたことはなかったよ」
「キスは、酷いことじゃないんですか?」
「酷いことじゃないよ。キスは……性質が違う」
「……………」
私とのキスが、酷いことじゃない。嫌いじゃない。
その言葉はさらに涙を込み上がらせて、私は結局俯いてしまいました。ご主人様はしばらく間を置いて、私を抱きしめてきます。
その暖かい背中に両腕を回して、私もご主人様を引き寄せました。胸板に顔を埋めるのは心地が良くて、背中を撫でられると震えが収まっていきます。
しかし、鼓動が収まることはありません。
鼓動は死ぬことなくどんどん、早くなっていきます。落ち着きと高揚が共存する胸の中は、ご主人様で覆い尽くされていました。
この人がいないと、私はきっと生きて行けないでしょう。
そんな当たり前な事実をもう一度噛みしめながら、私は大切な温もりを堪能しました。
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