第14話  私とご主人様との、理由のないキス

冬風ふゆかぜ こおり



「………ふぅ」



私が決まって起きる時間は朝の8時です。


ご主人様の生活パターンは夜型ですので、あまり早起きして朝飯を作る必要がないのです。8時に起きて顔を洗って簡単に朝ごはんの準備をすれば、十分に間に合います。


まあ、今は冬休みですし、学校が始まったらまた違うパターンになると思いますが。



「…………」



部屋が五つもあるこの家はあまりにも広くて、静かです。殺風景な部屋から出ると真っ先にキッチンと横並びテーブルと、ご主人様の部屋のドアが目に入ってきます。


私は洗面所に向かいながら、昨日の温もりを思い出しました。


機械的に顔を洗って、寝ぐせを直している間にも頭の中はご主人様のことでいっぱいです。誰かに抱きしめられたのは、お母さんが亡くなった以来に初めてだったかもしれません。


昨日の私は、叔父さんに襲われるあの時の夢を見ていました。もちろん、現実の私は精いっぱい抵抗してあの人の顎を蹴飛ばしましたが、それが恐ろしい場面であったことは間違いありません。実際に何度も、私はあの夢と死んだ母の夢を見てきましたから。


でも、昨日の夜は驚くほど寝つきがよくて、久々にぐっすり眠れた気がして。その原因がご主人様に抱きしめられたからという自覚も、ちゃんとあって。


私は今、非常に困っています。本当に参ってしまいました。



「美空、直」



その人の名前を、口ずさんでみます。


あの人は、優しい命令しかして来ない私の主人。


割れやすいガラスである私を大切に包んでくれるご主人様。乱暴なキスをしても私を叱りつけないご主人様。私のために大きなベッドと机と椅子と、トリートメントと化粧水とローションと………何もかも都合よく、買ってくださるご主人様。


どんどん、侵食されていきます。どんどん堕ちていきます。


傷つきたくないのに、もう一度信じてみたいと思ってしまいます。そんな弱い自分が許せなくて、また思考が堂々巡りします。



「……今日の朝ごはんは、豚汁にしましょうか」



親戚の家でたらい回しにされていた中、生き残るために身につけた料理スキルがここで役に立つとは思いませんでした。


料理をしている中でも、私はあの人の反応を無意識に頭の中で浮かべます。細長い体型な割に本当に美味しく食べてくださいますから、作り甲斐があるというか……その笑顔が新鮮で、どうしても思い返してしまいます。


何ということでしょう。これではまるで、私がご主人様のことを気にしているみたいじゃないですか。


私にはそんな気持ちなんて微塵も…………………微塵も、ない………のに。



「……っ、ふぅ………」



私は大きく深呼吸をして炊飯器を操作して豚汁を完成させた後、ご主人様の部屋に向かいます。


トントン、とノックをしてもやはりというべきか、反応はありません。


2週間も一緒に住んで気づいたこどえすが、この人の生活パターンは本当に壊滅的です。睡眠だけではなく食事をとる時間も不規則ですし、部屋はよく散らかっていますし、栄養バランスなんてちっとも気にしない様子でした。


私がいない間にどうやって生き残ったのか疑問になるくらいに、ご主人様はだらしのない人です。生活面に振られるステータスが優しさと音楽の才能に割り当てられたのではないかと思うくらいに、変な人です。



「ご主人様、朝でございます。入ってよろしいでしょうか?」



返事がないのを確認して、私はそっとドアを開けて部屋の中に入ります。


案の定、暗いです。すべての窓にはカーテンがかけられていて、ご主人様はベッドではない狭いマットレスで眠っていました。大きなモニターにはまだ作曲プログラムが映っていて、そのモニターの横に2台の大型スピーカーがどんと置かれています。


モニターの薄暗い光と一筋の日差しだけが部屋に入って、ご主人様が眠っているマットレスを照り付けています。


私は、そっと膝を折ってご主人様の肩を握りました。



「ご主人様、起きてください」

「んん………ん………」

「朝ごはんがもうできておりますから。それとも、お抜きになりますか?」

「いや……食べるけど………後10分くらいお願いできないかな……」

「………昨日、何時に寝られたのですか?」

「たぶん、4時半……?」



まだ目も開けていない状態で、ご主人様はそう言います。私はふう、とため息をつきながらご主人様に触れている手に力を加えました。



「あまり深夜までは起きないようにと……先日、私が言いましたよね?」

「………あはっ」



ようやく、ご主人様は目を開けて私を見てくださいました。完全に目が覚めたのを確認して、私はそっと手を離します。



「昨日はちょっと集中できなかったから、ごめんね」

「………体を壊してしまいますよ?規則正しい生活は大切です」

「もしかして心配してくれてるの?氷にしては珍しいね」

「私をなんだと思っているのですか、一体」

「少なくともこんなに小言を言うタイプだとは思わなかったから……よいっしょ」



上半身を起こして、ご主人様は屈託のない笑顔のまま後ろ頭を掻きました。その姿はあまりにも純粋で、隙だらけで。


……私は、再びご主人様の両肩に手を乗せて、顔を近づけます。



「うん?氷、どうし――――」



そして、今まで何回もしてきたように、ご主人様の唇を奪います。


暖かい唇の感触とご主人様の匂いが感じられて、心臓がドクンと跳ねました。その暴力的なくらいの感覚に襲われながら、私は思います。


なんで、私は今ご主人様とキスをしているのでしょう。


今までのキスは少なくとも確かな理由があったのに。ムカついたとか嫌われるためとか、捨てられるためとか。ちゃんとした理由があってしてきたキスなのに。


今回のキスは、自分でも分かります。これはほとんど成り行きで、本能です。私が望んでいるキスです。


……なんで、なんで望んでいるのでしょう。


私はご主人様のことが、好きではないはずなのに。



「……………氷?」

「っ………」



息が辛くなる前に顔を離すと、ご主人様は驚いたように目を見開いて私を見ていました。なにか答えなければいけないと思っているのに、適切な言葉が浮かびません。優しくて暴力的な、赤い何かが頭の中を支配して、唇が震えるだけ。


ご主人様はそんな私をジッと見てから苦笑を浮かべて、囁くように小さな声で言ってきました。



「氷、今日一緒に行きたいところがあるけど、大丈夫かな」

「……一緒に行きたいところ、ですか?」

「うん」



未だに近い互いの距離を遠ざけようともせず、ご主人様は言葉を付け足しました。



「ぬいぐるみ、買いに行こう。大きなヤツでさ」

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