第12話  私はご主人様にイラついて

冬風ふゆかぜ こおり



「……お帰りなさいませ」

「うん、ただいま」



たぶん、ただ送っただけではなく森住さんと色々と話をしたのでしょう。


そう思えるくらいに帰りが遅かったご主人様は、相変わらずしれっとした顔で私に近づいてきました。


お互いの視線が一度混ざり合って、溶け合って。少しだけ気まずくなって、キスをする前の沈黙が流れて。


その雰囲気をわざと崩すように、ご主人様は少し茶目っ気のある口調で言います。



「大丈夫?森住さんに変なことされなかった?」

「はい。むしろ、けっこうよくしていただいたくらいで」

「そっか、よかった」

「………………」



ご主人様が人間の心を保っていられるよう、傍で見守って欲しい。


それは森住さんの言葉で、今目の前で淡く微笑んでいるご主人様とはあまりにも程遠い言葉のように思えます。少なくとも、私の中のご主人様はいつだって暖かくて、人間性が溢れていました。


お母さんたちが同じ病室を使うことになって、初めて病室で会った時。お母さんが集中治療室に入って彷徨っていた冬、あの丘で私に聞かせてくれたギターと歌声。そして、私をこの家に入れてから見せてくださった優しさ。



「どうしたの?そんなにじっと見て」

「……いえ」



私なんかいなくても、ご主人様なら一人で上手くやっていけると思います。


そう思うのに、私はこの家にいることを選んでいます。私の中で、この家を出て行くという選択肢は段々と薄れてきて、感情が行って欲しくないところにどんどん進んで行きます。



「ご主人様」

「うん?」

「私のことが要らないと思ったら、いつでも追い出していいですからね?」

「それは安心していいよ」



唐突だけど本音が込められているその言葉を、一蹴するようにご主人様は答えます。



「氷が要らなくなったと思う俺なんて俺じゃなくて、人間でもなくて、ただの化け物だから」

「…………………」

「氷こそ、俺のことが嫌いになったらいつでもこの家を飛び出していいからね?あ、もちろんその後に危ない真似をするのは……ちょっと勘弁して欲しいけど」

「……一体、なんでそこまで私を信じてくださるのですか?」

「うん?」

「私、ご主人様に信頼されるようなことは何もしてないと思いますが」



私はどちらかというと、かなり質の悪いメイドだと思います。同じ人間としても、あまり褒められない行動をした自覚もあります。


私はご主人様の好意を受け入れられず、不器用なやり方でずっと距離を置こうとしましたから。勝手に何回も……主人の唇を奪いましたから。


なのに、ご主人様のくださる返事は信頼です。私にはこの齟齬そごが、原因がどうしても分かりません。



「……綾乃あやのさんに何度も聞かされたからね。自分の娘がどれだけ優しい子なのかを、何度も」

「………………………………………………」

「俺は、昔に見た綾乃さんと氷を信じてるよ。それだけ」



久々に聞く母の名前をなぞるように、私はその言葉を受け入れました。そして、その感動は感謝に繋がらず、モヤモヤした霧になっていきます。



「……ご主人様は、バカです」

「………………」

「そんなので容易く人を信じないでください。信じない方が絶対にいいですよ?人を信じないと傷つくこともありませんし、否定的な感情に繋がることもなくなります」



それは私の経験で、私の人生でした。いつも優しくしてもらった叔父さんに襲われそうになった時に感じた怖さと、圧倒的な絶望感。私はその日、彼を蹴って泣きわめきながら家を出ていったのです。


その絶望感と引き換えに私は大事な教訓を得て、その教訓で自分を守っています。なのに、この家にいるとその大事な信念がどんどん崩れていきます。



「でも、それは自分でどうにかできない問題じゃん」

「………………はい?」

「信じるってことは感情の枠だから。考えるものではなく感じられるものだから……俺がけっこう直感で動くタイプだからそうかもしれないけど。少なくとも俺にとっての氷は、信頼に値する人間だよ」



ちょうど、今のように。


この人は常識という言葉では説明できない行動を何度もして、私を崩してきます。そのためにムッとなって、なにか仕返しをしたいという強い欲望に駆られてしまいます。


どうやったら、この人の信頼を裏切られるでしょうか。


どうやったら、この人に嫌われるでしょうか。


その答えはいつもキスで、今の私はまたご主人様にキスしたいという欲求が湧き上がってきています。きっと、私がキスをしてもご主人様は私を止めないはずです。だから、単なるキスじゃ足りません。


この余裕を、この広い心をどうにかして崩したいです。私の今までの経験を否定するような言葉ばかり投げるこの人に、なにかをしたい。



「私は、そんないい人間じゃないんですよ?」

「うん?それって、どういう―――」



その声が最後まで響くも前に。


私は主人の唇を再び塞いで、彼を押し倒すように体に力を入れます。彼は驚いたように体をビクンと跳ねさせてから反射的に私の両肩を掴んで、後ろに倒れないためにせいいっぱい踏ん張ります。


でも、急に押しかけて来た体重に耐えられなかったのか、ご主人様の体はソファーに背中から倒れてしまいます。もちろん、私はその体の上に乗っかってから唇の隙間に舌を入れました。


最初にした2回のキスは緊張で、その次のキスは短くて、この間のキスは雰囲気でした。今のキスはやけっぱちで、激しくて、気持ちがいいです。


今回はご主人様も突き放すつもりなのか、私の肩を掴んで精いっぱい私を拒もうとします。でも、その期待を裏切るために私は両腕で彼の首元に手を回して、より激しくキスをしていきます。


唾液が混ざって、唇が湿って、互いの感触が塗りつけられて……気持ちがいいです。

体が火照って、何も考えられなくなります。キスは驚くほど気持ちよくて、頭がぼうっとして快楽に堕ちそうになります。


なんで、ここまで気持ちいいのでしょう。好きな人とするキスでもないのに、どうして。


互いの鼻息と耳元で聞こえるキスの音が激しすぎて、私は一旦唇を離しました。私たちの唇の間には唾液の糸が出来上がって、私はまた線を越えてしまったのだと実感します。



「………氷」



そして、今回はかなり怒っているように見えるご主人様を見て、私は嬉しさを感じてしまいます。


いいことだと思います。この人に嫌われれば嫌われるほど、私は自分自身を守れますから。



「これで、少しは証明できましたか?私がどんな女なのかを」

「………………」

「好きでもない人に平然とキスして、恩を返さなきゃいけない人を襲ってしまう女なんです。どうですか?これでもご主人様は、私を信じられますか?」



ご主人様の頬に両手を添えてから、私は言い加えます。



「前に、ご主人様がおっしゃいましたよね。キスは大切な人としろと」

「………………」

「私に大切な人なんていません」



断定して、気分がよくて。私は心からこみ上がってくる笑いを湛えてから、言い続けます。



「そんな女なんです。大切な人なんてみんなあの世に逝ってしまいましたから……それに、私は別に大切にされたいとも思いませんし、自分を大切にしようとも思いません」

「………氷」

「私はあなたのメイドです。私を道具として見てください」



そうすることでしか、心の平和を保てませんから。


そう言うも前に、ご主人様は上半身を上げて私を突き放します。急に力で押しのけられた私は体勢を崩しながらも、笑顔でご主人様を見上げました。

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