第9話 夢か現のお勉強
「…そう言えば、葵って成績の方はどうなの?」
それはまた、俺が何となく居間で勉学に励んでいたとある夜のこと。
別に自分の部屋に女の子がいると思うと集中出来ないとかそういう話じゃなくて深い意味は無いけど今は何となく居間でスタディする気分かなって思っただけいまだけにね。うるせぇ?すんません。
「…まあ、自分で言うのも何ですが、そこそこ優秀な方かと」
「…そりゃそうか。友達に教えるくらいだもんな」
従兄として鼻が高いですね。因みに我が高校、それなりに偏差値は高いらしい。入学しておいて何だが俺は通いやすさが全てだったのであんまり気にしていなかった。
勉強して、受けたら入れた。高くしたその鼻引っ込めてどうぞ。
「撫でますか?」
「お、あ、いや…今はいい、かな…」
「ですか」
何故か向かいではなくすぐ斜め横に座って茶をしばきながら俺のノートを覗き込んでいた葵が、ゆるりと頭を差し出す。瞬間、湯呑みも下に傾いたのでぎょっとしたが、どうやら中身は既に空らしい。セーフ。
コトリと湯呑みを置いた葵の顔は、昔を懐かしむかの様にどこか和らいでいるように見える。
「…小さな頃から知る、お姉さんの様な人に勉強を見てもらいまして」
「あー何か言ってたね。さぞかし教え上手な」
「拷問でした」
「拷問」
すんません気の所為でした。
あーあ、それにしてもはっきり言い切っちゃったね。俺は聞き直してはいけないと思ってずっと聞かない振りしてたのに。
「普段はとても優しいのに、こと勉強となると鬼の様な課題を笑顔で差し出してくる、スパルタな人でした」
「へ、へぇ……」
「だから私は誓ったのです」
そのいつもとは違う気持ち明るめな声を聞いて俺は思う。嗚呼、きっと優しいこの子は、自分と同じ様な苦しみを味合わせない為に必死に勉強して、次代に正しい道を教えるべく努力を続けているのだなと。
あれ?それにしては、天井を仰ぐ遠い目がどんよりと濁っている様な。
「『いつの日か、愚かにも私に教えを乞うた人間がいたのなら、そやつにも私が味わった苦しみを味あわせてやろう』、と」
「手遅れだった……」
気の所為でした。重ね重ねすんません。
ちょっとその先生連れてきてよー。うちの従妹に何してくれちゃってんだよー。
…それにしても良かった、圧が強いだけの無表情で。初めて見る笑顔の理由がこんな哀しいもんだったら俺ちょっぴり泣いちゃうかもしれないもん。
「おかげさまで、この間勉強を教えたその子も喜んでいましたよ」
「壊れちゃいましたの間違いじゃなくて?」
「とうに涙は枯れていました。喜んでいた判定で問題ありません」
「泣き笑いかぁ」
脳裏に浮かび上がるのは、泣いてる時の小さくて可愛いやつの姿。
いつの日か、その子に会ったのなら心から謝ろう。うちの従妹がどうもすいません、と。俺も誓う。
「………にーさん」
ゆらり。顔を傾け、垂れ下がった長い前髪から覗く瞳は虚ろ。怖い。これは次の贄を求める魔女の目だ。
「…私が勉強をお教えしましょうか?」
「…今の会話の流れから頼むとお思い?」
「…今なら優しくしますよ」
「お安くしますよみたいに言われても」
ゆるりゆるりと距離を詰めてくる葵を背を反らして躱す。
優しかろうが厳しかろうが、こちとら年上こちとら兄貴。酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なダンディズム溢れる大和男子。高校生になってまだたかだか数ヶ月しか立っていないお子ちゃまとはレベルが違うのだ。なんて―
「…ここ間違えていますよ」
「え嘘」
葵が何とも無しに指差したそこを、慌てて確認する。そのごくごく一般的な数学の問題の答えは、やけに複雑怪奇な数値を示しており。
「………」
………ま、分かってたけどね。分かった上で諦め、じゃなくて後に回してあげたんだけどね。俺は美味しいものは後に取っておく主義だから。ケーキの苺は先に外しておく人間だから。
「……ふっ」
背筋に変な汗が流れるのを悟られないよう、努めていつも通りの声色を出す。若干、震えているのは武者震い。
「……流石、よく分かったな葵。だが」
「そもそも兄さん式の覚え方からして間違えているんじゃないですかほらこことか同じ間違い」
「あ、わ、はい、すみません」
覚えの悪い子供を躾ける母親の様に眉を寄せた葵が、斜め横から隣に移り、ずいっと身体を寄せてノートを覗き込んでくる。
躊躇いなくくっついてくるものだから、彼女の柔い感触やら匂いやらで数式なんていともたやすく彼方へと飛んでいってしまう。
「…ふむ…。ちょうどいいです。やはり一緒に勉強しましょう」
ぬっ。そう言い放った葵が、一体どこから取り出したのか勉強道具一式を机に並べる。
「分からないところがあれば、この葵が懇切丁寧にレクチャーしますよ」
反らした大きな胸に手を当てるその顔は、どこか得意げ。
「…いや駄目だ」
「え」
だが俺は頑として首を縦には振らない。
されど年上。それでも年上。こちらにも意地というものがある。あるったらある。
出来たばかりと言えど、従妹にこれ以上舐めた真似されたら従兄としての沽券に関わる。…それに、理由は分からないが、何故かこの子の前ではお兄ちゃんぶりたくなるというか、あまり格好悪い姿を見せたくないと、そう思ってしまう。
「………ぁ、…………」
なので。
「………葵さんは、苦手な科目とか…無いの……?」
「……………」
勉強を教わりたくないのなら、教えられる勉強を探せばいいじゃない。
完璧。パーフェクト。……ん?誰?今かっっっこわりぃ〜〜〜って思ったの。泣くよ。はばかりなく躊躇いなく。
「兄さんが教えてあげようではないか。それこそ懇切丁寧に」
「ですか」
「ですよ」
今度はこちらが胸を張る番。何故か隣から白い視線を感じる気がするけど気の所為だろうね。うちの従妹は心優しい子だから。昔から笑顔が可愛らしい子だから。ん?昔から??
何を言っているのやら。いや、何かを思い出しかけたその時。
「保健体育」
「ん?」
それは彼方へとぶっ飛んでいった。
「保健体育。男性の身体の仕組みについて」
「………」
四つん這いになってこちらににじり寄り、下からこちらを見上げるその目は笑っている。表情はとんと読めないのに、不思議とそう確信できた。
「浅学の葵に懇切丁寧にお教えください?先生」
「え、いや、それはちょっとまだ早いというか」
じりじり、じりじり。
気づけば背後には壁。なすすべなく追い詰められた俺に葵が腕を絡めてくる。
「…私はいつでも大丈夫ですよ…?」
「……ぇ゙……」
美しく整った顔がゆっくりと、けれど確実に俺の顔へと近づいてくる。
こんなにも至近距離で見つめたことなど無かったけど、揺れる瞳も、色づいた頬も、艷やかな唇も、その何もかもが綺麗で、俺を惹き付けて離さない。
「……ずっと…こうしたかった…」
互いの息遣いが感じられる程に、二人の隙間が埋められる。
腕に押し付けられる己では有り得ない柔らかな感触が、確かにこれは現実なのだと思い知らせてくる。
葵の細い指が俺の頬を包み込み、頬に伝わる濡れた感触。
「ね?…………兄さん……」
茹だる頭でぼーっとする視界に移ったその顔は、確かに微笑ん―――
「――兄さん。にーーさん」
「……え?」
「兄さん。起きてください」
頬をぺちぺち叩かれるその感触で、意識がゆっくりと浮上する。
顔を上げたその先には、脚を揃えてしゃがみ込み、すぐ横から俺の顔を覗き込んでいる葵の姿。
「こんなとこで寝たら風邪引きますよ」
「……ぁえ?」
上げた顔でゆるゆると周りを見回せば、お馴染みの我が家の居間。
俺に縋り、熱い視線を送る従妹など存在しない。いるのは困った様にこちらを見つめる従妹だけ。
「………あれ?…葵は?」
「葵はここにいますが」
「いやそうだけどそうじゃなくて」
「……?」
「…………………………」
首を傾げる葵の姿を頭が認識して、そしてすかさず己がいかにゴキゲンな夢を見ていたのかを理解して、瞬く間に顔に熱が灯る。
「………兄さん?」
「……………ごめん何でもないから……」
「……ですか」
嫌悪嫌悪自己嫌悪。こんな何一つ疑いを持たない曇りなき目でこちらを見つめる女の子に対して俺は何と言う穢らわしい妄想を。何が『確かにこれは現実なのだと』だよ馬鹿じゃねーの。
「…お風呂湧いてますけど」
「………入る……」
お湯どころか氷水でも頭からひっ被りたい気分だ。
力無く立ち上がり部屋を出る。だが戸を閉める直前、わざわざ知らせてくれた葵に礼を言ってなかったと改めて振り返る。
風呂上がりで耳まで赤く色づいた顔、そして濡れた長い黒髪を乾かしているのか首に巻いたタオル諸共口元を隠したその横顔がいつになく色っぽく見えてしまい。
「(…………これは重症………)」
今はまともに顔を見れない。未だ柔らかな熱が残っている様に錯覚する腕を動かし寝汗で湿った頬をぎゅぎゅっと抓ると、何も言えずにまた振り返る。
………心配してくれている彼女には悪いが、一度水のシャワーで頭でも冷やすとしよう。
……本当に、いつも見る夢ともまた違う、やけにリアルな夢だったな。
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