第11話

 俺は重力に逆らえず、倒れ込む。柔らかいマットレスに受け止められ、そのまま意識を失いそうになった。

 ああ、もう限界だ。まさか、こんなことになるなんて。やっぱり俺は甘かった。けど、このままじゃいけない。何とか起き上がろうとするが、身体に力が入らない。どうやって俺はホテルの部屋のベッドまでたどり着けたのだろうか。

 やっと練習が終わって、自由時間になったのにもうヘロヘロだ。普段の練習とは比べ物にならない程の運動量だった。いつもだって、適当に手を抜いている俺についていける訳がない。

 ヴァンさん、楽しそうだったな。もう無理だって言っているのに、平気で筋トレを追加してきた。スパーリングでも、同じところを繰り返し狙ってきやがって。ガードの仕方もろくに習っていないのにだ。

 この数時間で、これまでの人生の一生分は動いたんじゃないだろうか。あまりにもやられっぱなしになったので、途中でやけっぱちになった。それがまた無駄に体力を使うことになってしまった気がする。

 しかも、練習は男性をヴァンさんと林さん、女性を渉が担当したので彼と全く接点を持てなかった。向こうはキャッキャウフフと楽しそうだったな。まるで別世界のようだった。

 俺、何のために夏合宿に参加したんだろう。動機が不純だから、バチがあたったのかもしれない。

 林さんにも渉と仲直りしたいって言っておいたのに、取りなしてくれる素振りもなかった。俺との約束なんて、忘れてしまったのかもしれない。

 意識が遠退く中で耳に原さんの声が聞こえてきた。

「高橋くん、大丈夫?」

「はい」

 俺はかろうじて声を絞り出す。

「懇親会は出ないで、休んでおくか」

 懇親会? そうだ。この後、有志のメンバーで集まって、親睦を深めるための飲み会をするって言っていたな。きっと渉も来るだろう。今のままでは、彼と一言も話をせずに夏合宿が終わってしまう。そんなことになったら、何のためにこんな辛い思いをしているのかわからない。

「いいえ、行きます」

 天使が誘うベッドの温もりと決別し、俺は何とか立ち上がった。原さんが笑い声をあげる。

「テンカウント、ぎりぎりで立ち上がったってところだな。けど、そのガッツ。若いって良いね」

「ありがとうございます」

 自分でも何を言いたいのかよくわからない。とりあえず、顔を洗おう。俺は洗面所へ行き、水で顔を洗った。水の冷たさが、意識を現実に引き戻してくれる。

 これで少しは戦えるだろう。更に頬を軽く叩き、自分自身に発破をいれると外で待っていてくれた原さんに言った。

「行きましょう」

「おう」

 俺たちは懇親会が行われているホテルの宴会場へ向かった。社員旅行で使うような部屋の前に着いた時点で、中から笑い声や大きな話し声が聞こえる。障子戸を開けると、声が上がった。

「高橋さん、いらっしゃい」

 畳にあぐらをかいて座っていたヴァンさんが立ち上がり、俺の方に近付いて来た。顔は真っ赤だ。まだ始まって十五分も経っていないハズだが、ちょっと酔っ払い過ぎじゃないか。俺はヴァンさんに手を引かれて、連行される。

 渉はどこだろう。あたりを見回すと、相変わらず女性陣に囲まれて楽しそうにやっている。ヴァンさんが名前を呼んだので、俺が来たことにも気付いているハズだが素知らぬ顔だ。

 ヴァンさんは俺が座ると、グラスを手渡してビールを注ぐ。

「チョンゲーオ」

 グラスを掲げてきたので乾杯という意味なのだろう。周りにいたメンバーも同じようにしたので、俺もそれに従った。

 普段であればこのくらいは飲める。だが、この疲れた身体でどの程度アルコールに耐えられるかわからない。渉と話ができるチャンスを伺う必要もある。

 適当に口をつけて、誤魔化しておこう。さて、ヴァンさんのこの調子。油断していると、どんどん飲まされてしまう危険性がある。誰かと話をしなくては。

 原さんはヴァンさんと話し始めてしまったので、ダメだ。他に誰かいないだろうか。普段、別の会員さんと仲良くしていなかったのが、こんなところで仇になるとは。周りを見渡し、ようやく知っている顔を見つけた。津田さんだ。俺は彼女に声をかける。

「お疲れ様です」

 津田さんは一瞬、目を見開いたがすぐに笑顔へ変わった。

「お疲れ様です。今、いらっしゃったんですか」

「練習が辛くて、部屋でへばっていました」

「男性のグループはかなりがんばっていましたもんね」

「ええ。普段、自分がいかにサボっているのかがわかりました。女性のグループはどうだったんですか」

「黒田くんは手加減してくれましたよ。それに彼って教え方が上手いんです」

 そうなのか。とはいえ、比較対象の一人がヴァンさんだ。あの感覚的な指導に比べれば、誰でもマシのような気もする。

「そうなんですね。原さんから『今回の合宿の参加者はいつもより多い』って聞きましたけど、黒田くんの指導力もあるんですかね」

「そうですね。まあ、単純に黒田くんのファンって人もいるとは思いますけど」

 さっきから渉の周りには女性しかいない。違うのは津田さんくらいだ。俺は彼女に聞く。

「津田さんは違うんですか」

 彼女は慌てて首を左右に振る。

「全然。弟がいるからなんですかね。私、年下の男性にあまり興味がなくて」

「年下って、津田さん。二十歳くらいでしょ」

「やだ、高橋さん。私、もう仕事してますから。二十八ですよ」

「へぇ、見えないですね」

「もう。お世辞が上手いんだから」

 人は見かけによらないものだな。感心をしていたら、向こうの方で女性たちの低い声が上がった。そちらを見ると、渉が立ち上がり、部屋を出ていく。

 何かあったんだろうか。ヴァンさんと入れ替わりでこちらに来た林さんが俺に声をかけてきた。

「高橋くん、お疲れ様。身体、大丈夫?」

「もうへとへとですよ。明日は絶対に筋肉痛です」

「ははは、大丈夫。筋肉痛は動けば気にならなくなるから」

 それって大丈夫なのだろうか。それはさておき、俺は林さんに確認する。

「向こう、何かあったんですか」

「ああ。ヴァンさんが黒田くんに買い出しをお願いしたんで、女性たちが残念がって」

「買い出し?」

「みんな、飲むペースが早いから、今のうちにコンビニへ行ってもらったんだ。バスでここまで来る途中にあったでしょ」

 言われてみれば、ホテルに着く数分前くらいに見た気がする。渉も飲んでいたので、移動は徒歩だろう。往復するにはそれなりの時間がかかる気がする。だから、女性陣が声をあげていたのか。

「ひとりで?」

「うん。何か必要なものがあれば、彼に伝えるけど」

 もしかして、これはチャンスなんじゃないだろうか。

「あぁ、そういえば家に忘れてきちゃったものがあったんです。けど、私的なものを黒田くんに頼むのは悪いな。俺、自分で行ってきますよ」

「高橋くん、大丈夫? さっきへとへとって言ってなかったっけ」

「平気です。それに買い出しだったら、荷物持ちが多い方が良いですよね。俺も手伝いますよ」

 林さんは腕を組んで、首をひねる。ダメだと言われても、後で抜け出して追いかけるつもりだ。だが、許可が取れるならばそれに越したことはない。

「そう? じゃあ、お願いしちゃおうかな」

「了解です」

 俺は軽く敬礼をして立ち上がると、ホテルの入口へ向かった。

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