七月の七分七十七秒のゆくえ

錦魚葉椿

第1話

 魁唯翔かいと


 利き手ではない手で、あるいはまったくの暗闇の元で描くように。

 彼の字はバラバラに砕け、崩れ落ちそうだった。

「翔」の左側、羊の縦線を下からなぞり上げるように書いた時、彼の向かいに座って彼が記入すべき氏名欄を指さしていた女性は優しく、しかし確信をもって尋ねた。

「字を書くのは得意ではないですか」

 彼の顔は一瞬不安そうに揺らぎ、静かに頷いた。

 特に難しいお名前ですものね、と独り言のように呟いて、彼女は名前の欄以外は代わりに書いてくれた。

「自分で書くことのできる名前に変えたいです」

 彼は俯いて拳を握り、悔しそうに呟いた。


 いつもはカイとカタカナで書く。それは何とか書ける。

 手の動きだけを覚えて書けるように練習した。

 それは月夏るかが考えてくれて、先生たちも理解してくれた。

 彼は教科書を読むことができなかった。

 教科書に限らず、すべての文字は意味を成すものとして理解できない。



 女性の司法書士は改名したい本当の事情を確認した後、必要書類をチェックリストにして渡しながら、にっこりと微笑んだ。

「カイさんの特性を考えれば、現在のお名前では不便であることははっきりしていますから問題なく進めることができると思います。診断書があればなおスムーズですが」

「彼のお母さんは病院にいくとかは、納得できないみたいで」

 名前を変えるのも反対されるかもしれません。と月夏は肩を落とした。

 彼女は長い間考え、躊躇していたらしい。

「名前が変えられると知ってたらもっと早くやってた。月夏が僕のためにしてくれることはすべて僕に必要なことだ。いつもありがとう」

 青年がそっと握った彼女の手は指の先までむちむちに肉がついている。

 真っ黒で伸ばしっぱなしの髪も、絞られているところが一つもないオーバーサイズのデニムにチェックのシャツも、彼女の価値を9割がた損なっている。

 そんな風体の女性が、アジアの映画俳優ばりに素敵な男性に見つめられて手を握られている様子はあまりにバランスが悪く、もはやファンサービスのようだった。

 容姿の優れた女性が容姿の優れていない男性と付き合っていたら、周囲は「この男性は容姿以外に優れたところがある」と考え、容姿の優れていない女性が容姿の優れた男性と付き合っていたら、「だまされている」と思うものだ。───── 司法書士は10年ほど前に受講した犯罪心理学の講師の説明を思い出しながら、間をつなぐためにコーヒーをすすった。

 恥ずかしがっていやがる彼女の手を握って、二人は仲良く事務所を出ていった。





 学年が上がるたびに事情を知らない担任の先生が、彼に音読を強いる。

 月夏はそんなとき小さな声で読んでくれる。カイは月夏の声をたよりに同じ言葉を繰り返した。先生が音読させることを諦めてくれるまで。


 月夏は当時から白くてまるまると太っていた。

 目が丸くて離れていてちょっとしっとりしていて、カエルとあだ名されていた。

 彼にかかわっている教師たちは「魁唯翔君を手助けしてくれている女の子」と月夏のことを彼の母親に説明したが、彼の母はまるで犬を追い払うように彼の周りから月夏を追い払う。

 彼の母親は、自分の子供が「どんなに頑張っても字が読めるようにならない」ことを受容できなかった。そして月夏の見た目の愚鈍さを疎んでいた。まるで彼女のせいで字が読めるようにならないかのように。


 カイの顔は端正で印象に残る顔だ。優し気でどこかはかなげにも見える。性格も明るくて優しいから女の子にとてもモテた。

 でも字が読めないことや計算ができないことがわかると、彼女たちはすうっと幽霊のように消えていく。そんなときは王子様になる魔法が解けてカエルに戻ってしまったような気分になる。お前の価値は顔だけで、その他の瑕疵はあまりにも大きくて埋め合わせることができないと突き付けられるようだった。



 ───── 彼女と離されて10年ほど過ぎて、偶然再会することができた。

 そのころは字が読めないことを隠して生きていくのは本当に大変で、隠さないで生きていくのもまた同じように大変でどっちに行こうとしても行き詰っていた。

 すぐ月夏はスマホに視覚障碍者用のアプリを入れてくれた。

 それから時間の概念がわからないカイのために、アラームがなる自作のアプリをつくってくれた。スマホで連絡が取れるようになり、時間が守れるようになるだけで驚くほど生きやすくなった。



 月夏は自分の見た目がよくないことをとても気にしていて、一緒に暮らしていても絶対に心を許してくれない。自分の母親が何か言って、月夏が遠慮しているのだということはわかっていた。

 何度目かのプロポーズも「七月の七分七十七秒を一緒に過ごしてくれたらね」と言われた。カイは計算も苦手なので、七分七十七秒が世界中のどこにも来ないことがわからない。



 二人で住むには手狭な1DK。

 たっぷんたっぷんの月夏のおなかをもんでいると安心する。月夏の抱き心地は大きなビーズクッションのようで、流れるプールで何時間も過ごした幼い日を思い出す。

 どこもかしこもしっとりとつめたくて柔らかい。

 痩せる必要なんて全然ない。

 冷たくて白いしっとりした二の腕の触感。

 二度と月夏と離れないと決めている。

 だからいつか七分七十七秒は来るに違いない。



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七月の七分七十七秒のゆくえ 錦魚葉椿 @BEL13542

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