飛べ! 桂馬‼

バーニー

第一章『キメラ実験』

 この物語の主人公のプライバシーを守るためにも、あの事件が起こった正確な時間を記すのは辞めておく。

強いて言うなら、二〇××年のこと。二〇〇一年かもしれないし、二〇九九年かもしれない。強いて言うなら、ヤクルトスワローズが優勝した年である。

季節は春かもしれないし、夏かもしれない。もしかしたらもしかすると、秋かもしれないし、雪が降り盛る冬かもしれない。トヨタ自動車がカローラランクスを発売した頃だということは伏せておこう。

 日付は一日かもしれないし、二日かもしれない。三日かもしれないし、四日かもしれない。五日かもしれないし、六日かもしれない、七日…。

 福沢諭吉の誕生日ということは誰にも言うまいな。

 ヤクルトスワローズが優勝した年で、トヨタ自動車がカローラランクスを発売した季節。そして、福沢諭吉の誕生日…。

 言ってしまえば、二〇〇一年の一月十日にあの事件は起こった。

 事件が起こった正確な場所の明言は…いや、もういい、関東にある某K県だ。

 そのK県の山間部。国道を大きく外れ、獣道と言っても過言ではないくらい荒れた道を進んだところにある、周りを山々に囲まれた渓谷に、その建物はあった。

 「島田フルーツ」という看板を掲げた、小ぎれいな倉庫。時々この渓谷に迷い込む連中は、この看板を見る度に、「秘境の地で見つける極甘フルーツだ!」と歓喜して建物に駆け寄る。実際、中からは優しそうな老人が出てきて、「ようこそいらっしゃいました」と彼らを歓迎し、甘々なフルーツパフェを振舞った。そう、この建物は、何処からどう見てもフルーツ工房。何処からどう見なくてもフルーツ工房なのだ。

しかし、それは世を忍ぶ仮の姿。例えるなら、勇猛果敢にヴィランに立ち向かうヒーローが、普段は冴えない大学生をしているようなものなのだ。

語弊の無いように言えば。別に、フルーツ工房が「冴えない」と明言して批判しているわけじゃない。フルーツ工房だって立派な仕事だ。美味しいよね、フルーツパフェ。

とにかく、フルーツ工房を運営する老人には、また別の顔があるというわけだ。

「…さて」

 客が満足して帰っていくのを見届けた老人は、悪意をこれでもかと詰め込んだ笑みを浮かべた。踵を返すと、工房の奥へと入っていく。

 綺麗に磨かれた床にある亀裂に触れると、ある部分だけが浮かび上がり、現れるのは地下への階段。階段を降りていくと、その先には、「バイオハザード(危険区域)」というペイントがされた、重厚な扉があった。それをパスキーで開く。

老人の細い目に飛び込んできたのは、六〇〇平米はあろう広い空間だった。当然、その空間には何もないわけではない。所狭しと、使用目的不明な機械が立ち並び、壁際にあるテーブルの上には、実験用フラスコや、謎の液体が入ったビーカーが沢山置いてあった。強烈な消毒液の香りが立ち込めている。

 まるでSF映画に出てきそうな謎の実験施設。

 その奥にある、巨大な保護瓶を有する機械の前で作業していた女が振り返った。

「ああ、島田博士、お戻りですか」

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