番外編其の二 捜査三課課長・水沼裕基のルーティン
※この物語は、「守銭奴探偵アズマ」の番外編である。
今日は警視庁捜査三課課長・
午前五時三十分、アラームの音で目を覚ます。
いや、長年のルーティンと化しているからだろうか、アラームが鳴るよりも前にその目は見開かれていた。
ベッドから状態を起こし、背伸びをする。
すぐ側には裕貴の妻・
裕基は茉莉を起こさないように静かにベッドから出、顔を洗い、歯を磨き、コーヒーを淹れる。裕基はキリマンジャロが好きだ。果実のように甘酸っぱい香りが鼻腔を刺激する。一口含めば柔らかな苦みの中に強かな酸味を感じる。
これにより、今日も「水沼裕基が始まる」ということだ。
午前五時四十五分、トレーニングの時間である。
パジャマからジャージ姿に着替える。
齢三十七を過ぎてもまだまだ衰えることのないその肉体。無駄のない脂肪、引き締まった筋肉は、まさに警察官としてベストの体系だ。これも日頃のトレーニングと、職務に臨む強い意志あってのことだろう。
腕立て伏せ五十回、上体起こし五十回、スクワット五十回、ここでいったんプロテインを挟み、東の空が薄明るい黄金の町へと飛び出す。そして走る、累計五キロ。
自宅に戻ってきてシャワーを浴びようとする頃には、すでに多くの人にとって朝は始まったものとみなされるだろう。この時、六時二十分。
シャワーを挟んで六時三十分、朝食を作る。同時に、茉莉が起床。
「ふわぁ……おはよう裕基さん……」
眠そうな目をこすりながら席に着く茉莉。
「おはよう茉莉、今日は何か予定は?」
「YouTubeに挙げる動画の編集と、あと再来月に控えた国際ピアノコンクールの一次予選に向けての準備かな……」
裕基も茉莉も、会社員とは大分異なる仕事をしている。休日も週休二日というわけではない。なのでこのタイミングで二人のスケジュールを共有しているのである。
「裕基さんはまた朝まで……」
「ああ、明日の九時までだ」
警察官は一日おきに当番が回ってくる。裕基は昨日の午前九時まで当番で、それから今日の九時まで非番である。勿論、今日の九時からまた当番が回ってくる。
「それじゃあ、その間の家事は任せてね」
「ああ、頼んだ」
会話の最中にも裕基は手慣れた様子で目玉焼きとウィンナーを用意していた。
午前七時、水沼家の長男、
「ふわぁ……おはようパパ、ママ」
「おはよう義人、今日は一人で起きれて偉いわね」
副助詞に傍点がついていることに疑問を覚える読者もいるだろうが、想像し給へ、いっぱしの八歳の子供が一人で起きることの難しさを。
すでに朝食を食べ終えた裕基は昨日のうちに回しておいた洗濯機から衣類を取り出し、干す作業に入る。その間茉莉は義人の面倒を見つつ、食器を洗う。
午前七時五十分、義人が学校へ行く。
「じゃあ、行ってきまーす!」
「ああ、気を付けて!」
義人を見送った両親もまた、自分の仕事の準備にかかる。
茉莉はグランドピアノの屋根を立てると、指慣らしに入る。彼女の相棒であるスタンウェイ・アンド・サンズのB-211型(公式曰く、多くのピアニストから「完璧なピアノ」と呼ばれているそうだ)が重厚で、且つ翼を授けられているように軽やかなメロディーを奏でる。
裕基もそろそろ出勤の時刻だ。
ジャージからスーツに着替え、胸ポケットに警察手帳、内ポケットに愛銃シグザウワーP230を差し込む。
「それじゃあ、行ってくるよ」
裕基が外出しようとすると、
「ちょっと裕基さん、忘れ物あるでしょ?」
茉莉がニコニコしながら歩み寄る。しかし忘れ物という割には、その手には何も握られていない。
「……するのか? 今日も」
裕基はなぜか視線を合わせない。
「当たり前でしょ! ほら!」
茉莉はウキウキで目を閉じ、唇を突き出した。
裕基は恥ずかしそうにしていたが、今日も仕方なく茉莉に唇を重ねた。
この時、八時二十分である。
「これでオッケー! 行ってらっしゃい!」
「ああ、行ってきます」
新婚夫婦にありがちの「行ってきますのキス」だが、どうやらストレス緩和や抗うつ効果、さらにはキャリアアップとも密接な関係があるという。もしかしたら裕基のスピード出世にも少なからず影響を及ぼしているかもしれない。
午前八時四十五分、バス停「黄金駅前北」にバスが停まる。
ここが黄金警察署の最寄りである。バスを降車した裕基はそのまま徒歩で自分の職場たる警察署まで移動するのだ。
「おはようございます、警視!」
廊下で裕基とすれ違った警官が敬礼する。
「ああ、夜勤お疲れ」
水沼も返礼する。裕基は警視庁から特例で派遣されている警視である。たいていの警官はすれ違えば先に敬礼をする。この警察署で水沼より偉いのはそれこそ署長程度である。
九時、朝礼の時間だ。
警察体操というものを踊り、署長の訓示を受け、装備品の点検の後、各課ごとに分かれる。
裕基は黄金警察署刑事課の課長も兼任しているので、この時間帯で部下に指示を出す。
「ここ数日、黄金区内でひったくりの事例が多発している。いつも以上に警戒してパトロールに臨め。また、これは新人にありがちのミスだが、ひったくりの被害者が転んでなどして負傷すれば、それは『窃盗』ではなく『強盗致傷』になる。気を付け給へ」
「「「はい!!」」」
九時三十分、当直引継ぎ。
前任者の業務が裕基に伝えられる。
「本日未明に酒乱事件が発生し、殴り合っていた男二人を現行犯逮捕しました。只今留置施設にて身柄を拘束中です」
「了解だ。取り調べは俺がやっておく」
引継ぎ作業終了後、取調室に向かう裕基。
「あ、警視! お疲れ様です! 取り調べの準備は済んでおります」
取調室に入ると、一人の警官が出迎えた。
「ああ、ご苦労」
部下の反対側には逮捕された青年が座っていた。顔に痣ができている。服の下に隠れている部分も傷だらけである。
「やあ。君が殴り合って逮捕された男か」
部下の隣に座り、気さくな態度で話しかける裕基。
「なんだてめぇ……」
男はふてぶてしい態度をとる。
「なんで殴り合いなんかしたんだ?」
「てめぇには関係ねえことだろうがよ!」
「まあ、そうだな。でも聞かなきゃならないんだよ、こっちも仕事だから」
「……」
数十秒の沈黙が流れる。
先に沈黙を破ったのは裕基だった。
「お前、飲んでなかったんだな?」
「……!」
初めて男が裕基を見た。
「なんでわかんだよ」
「二日酔いの症状がないからな。おそらく酔っていたのは相手だけだ。どっちなんだ?」
「何がだよ……俺が酔ってたかどうかってか?」
「いや、酔っていなかったことは確かだ。私が訊いているのは、どっちが先に手を出したのかだ」
「ハァ!?」
「まさか酔っている相手に一方的に仕掛けたわけじゃあるまいな?」
「いや、それは……」
「どっちなんだ?」
男は暫く黙りこくったが、ついに口を開いた。
「……白い杖を持ってた爺さんをいじめてたんだよあいつ。だからムカついて……」
「……そうだったんだな。よく話してくれた」
裕基の顔が優しく笑みを浮かべた。
その日の昼頃、ある視覚障碍者が被害届を提出しに来た。彼の証言では、道を歩いていたところを突然中年男性らしき人物に腕をつかまれ、金を出すように要求され、困っていたところを若い男に助けられたそうだ。
また、こういう発言もしていた。
「あの青年はとてもいい人です。暴力はいけないことですが、私を助けるために暴力をふるったのでしょう。どうかあの青年は咎めないでいただけますか……?」
その後、彼の証言や当時の状況が考慮され青年は罰金を払うにとどまった。初めに恐喝をした男はその後実刑判決を受けることになるが、それはまた別のお話。
十二時三十分、昼休憩。つかの間の癒しの時である。
裕基はいつも、茉莉が作った弁当を食べている。しかし、優しい妻の弁当をじっくりと味わって食べることは彼にはできない。
裕基は愛妻弁当を五分で書き込むと、午後の執務の準備を始めた。
そう、彼にとって休みなどあってないようなもの。
それからも又、黄金区の治安を守るために様々な業務に励むのであった。
【番外編其の二 捜査三課課長・水沼裕基のルーティン】:完
守銭奴探偵アズマ 江葉内斗 @sirimanite
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