第十六話 弁護士笹島登場
給料日。
多くの社会人にとって、待ち焦がれ、楽しみにしている日である。
取り分け就職してから初めて迎える給料日、そして初めて得られる給料「初任給」は、社会人としてスタートを切ったことを実感し、自らの力で経済をまわしたという偉業に対する祝福の意味もある。
この女、
二〇二三年五月三十日。本日は、東探偵事務所の就業規則によって定められている給料日である。
ATMから彼女が引き出した金は、二十五万円。この数値は2023年度の大卒初任給の平均、約二十一万円を多少上回っている。しかし、彼女が今月もらった給料の手取りの半分にも満たない。
「ムフフフ……笑いが止まらないですな……」
ずっしりと重みを感じる封筒をカバンに入れて銀行を立ち去る香菜。
彼女の人生で未だかつて、このような大金がカバンに入っている経験はない。
重いカバンとは対照的に香菜の気分は軽く、ウキウキしながら自転車を走らせた。
それから様々な買い物をし、荷物がさらに重くなり、そろそろ香菜の心まで重くなってきたところで、自宅兼職場に帰ってきた。既に西日が黄金駅に続く大通りを照らしていた。
東京都黄金区
「只今戻りました」
「あ、おかえりなさいっす!」
この部屋で、彼女の雇い主である
「東さん、いい加減車
「ダメっすよ」
「最後まで言わせてください!」
「車なんて金の無駄じゃないっすか! まず本体が高い!! ガソリン代が高い!! メンテナンス費用が高い!! おまけに自動車税もあるし!! 自転車で十分じゃないっすか!!」
「そしたら長距離の移動も自転車でするつもりですか!? 埼玉とか千葉とかから依頼が来たらどうするんですか!」
「電車とかがあるじゃないっすか!」
「重い荷物は!?」
「頑張れ!!」
「無理です!! デスクトップとか買いたいのに自転車じゃ運べないじゃないですか!!」
……このように、なかなか言い争いが絶えないのである。
そんなとき、東のスマホに着信が入った。
思わず口喧嘩を止める二人。
「はいもしもし……え!
香菜はその会話に耳を傾けた。東が「先生」と呼ぶような相手が気になったからである。
「はい……はい……わかったっす。じゃあよろしゃーす」
「東さん、今の相手どなたですか?」
スマホを置いた東に香菜が尋ねる。
「大学の恩師っすよ。依頼を受けたっす。明日の朝十時、黄金警察署っすよ」
「警察署? なんでまた……」
「なんか、自分が担当している容疑者の無実を証明するのを手伝えって……」
「え? 恩師って弁護士なんですか?」
「まあ、今は弁護士っすよ。もとは大学教授で、俺が大学生の時にお世話になった人物っす」
「へぇ……」
東が世話になったという人物。それはつまり、現在の東の人格形成に多少なりとも関与していると言える。
どんな人物に会えるのか、香菜は今からわくわくが止まらなかった。
「さて、そろそろ夕飯作らなきゃ、今日の当番は僕っすね」
と、やおら立ち上がる東。
「私、自分のお金でお肉買ってきましたから、ステーキ焼いてくださいね!」
「えぇ……めんどくさいっすね、僕肉料理得意じゃないのに……わざわざ買ってくるなら自分で作ってくださいっすよ」
そもそも東家の食卓に肉類が並ぶことがほとんどないため、東にも肉料理の経験はほとんどない。しかも助手が高級食材である「肉」を、恐らく値引きもされていないものを買ってきている。故にやる気が出ない。
「東さんの分も買ってあげましたよ。近江牛のリブロース」
「いやー仕方ないっすね! 香菜さんがそこまでやってくれるってんなら僕も頑張っちゃうっす!」
しかし、タダ飯は喜んで喰らう。それが東敏行である。
翌日午前十時。二人は東ビルから自転車で十五分弱、黄金区北西部と中央部の境目付近に存在する警視庁黄金署にやってきた。ここに所属している刑事部捜査三課課長・
「おっす、みっちゃん! 調子はどうっすか?」
「やあ東、今日は何の用だ?」
ロビーで談話する東と水沼。
「いやーなんかここに留置されている性犯罪の容疑を掛けられている人が、無罪だって主張しているから証拠集めを手伝ってくれって、とある弁護士さんが」
「性犯罪……? ああ、あいつか……捜査一課の後輩に聞いたが、なかなか面倒なことになってるそうだ。本気で奴の無実を証明する気か?」
「いやーそれは見てみないとわかんないっすね。奴はどこに?」
「まだ留置場だが……」
「面会してもいいっすよね?」
「もちろん構わないが、あまり出過ぎたマネはするなよ? お前はいつも犯罪スレスレなことばかりしているから……」
「そろそろ僕は弁護士さんのもとに行くっす。じゃあまた」
「オイ待て! 話は終わってないぞ!! 東!!?」
東は水沼が制止するのも聞かず、すたすたと立ち去ってしまった。
警察署の出入り口で香菜が待機していた。
「どうでした?」
どこかに行こうとする東に並んで歩く。
「やっぱ無理っすね、みっちゃんの管轄じゃないし。とりあえず
「クライアントはどちらに?」
「裏口って言ってたっすね」
そんなことを話していると、もう裏口に到着していた。当然のことだ。ただ建物の裏側に行くだけなのだから。
そこに、依頼人はいた。ベージュ色のスーツを纏い、サングラスをかけて、壁に寄りかかりながら本を読んでいた。
「先生、こんちゃっす!」
「やあやあ敏行君! 会えてうれしいのだ!」
東に声を掛けられた彼は、親しげな風に東の肩を叩く。
「こちら、僕の助手の桃山さんっす!」
と、急に紹介されたので香菜は多少戸惑った。
「は、はい! 東さんの助手させてもらってます、桃山香菜です」
「桃山さんかー、私は弁護士の笹島
自己紹介の勢いで香菜と握手をする笹島。サングラスを外した彼の目は、人生経験に満ち溢れていた。
「それで、今回の依頼なんすけど」
と、東が話を切り出そうとするが
「いやいや良くないのだ! 二年ぶりの再会だというのにいきなり仕事の話とは!! しかも今日は私の誕生日なのだぞ! 近くにカフェがあるからそこでコーヒーでも飲むのだ!」
と、二人を誘導しようとする。
香菜が東に耳打ちした。
「東さん……なんですかあの人の口調」
東がささやき返した。
「キャラ付けじゃないっすか? 大学にいた時からあんな感じっすよ」
三人は警察署から歩いて五分ほどの喫茶店に来た。
「嫌だなぁ……このあたりは高級店が多いんすよ……」
黄金区北西部と言えば、数々の高級食材・高級アクセサリー・高級衣類等が揃っている、全国でも唯一の総合高級品店街「福禄商店街」である。いま三人の目の前にある喫茶店も、コーヒー一杯1500円という非常識な値段設定で運営されている。勿論黄金区に多く存在する金持ちどもには常識的な価格である。
「なんだ敏行君、結構稼いでるそうじゃないか。何なら私より稼いでいるとか。コーヒー代すらけちるというのかね!」
「コーヒーなんてここで飲もうがコンビニで飲もうが一緒っすよ。コンビニなら100円で飲めるのに、わざわざ15倍も払ってたまるかってんすよ」
「なんだと!? 君、コーヒーの違いが理解できないというのかね!? いいかいまずコーヒーというのは豆から……」
「お二人共!! ここじゃ迷惑ですからお店入りますよ!!」
香菜が言い争う二人を引っ張って店に入った。
「そんなに気に入らないのなら、君達、二人の分は私がおごるのだ!」
「えぇ!? よろしいのですか?」
香菜はこのような場所でコーヒーを飲んだことはない。理由は大体東と同じである。
「ああ、敏行君との再会の記念だ! 好きなものをなんでも頼んでくれたまえ!」
「ほう、なんでもっていったっすね?」
その時、東の目は獲物を狙う肉食動物の目になった。
香菜は既に何かを察した。
笹島が呼び鈴を押し、店員がやってきた。
……さて読者の諸君、君たちは薄々察しているだろうが、東に向かって「おごる」などと口にしてはならない。もしそのようなことを、ついうっかりしゃべってしまうようなものならば、以下のとおりである。
「えーと……私はアイスコーヒーで」
「私はエスプレッソを頂くのだ!」
まだ笹島の表情は良好である。
「じゃあ僕はカフェラテとー」
まだ彼の表情に変化はない。
「メロンクリームソーダとー」
ここで笹島の脳内に「?」が現れた。
(飲み物を二つも? メロンクリームソーダと?)
「フレンチトーストとー」
ここでようやく彼は、自分が愚かな選択をしてしまったことに気づいた。
「窯焼きふわふわパンケーキにするっす!」
「ちょっと待て敏行君!! 確かに何でもいいとは言ったが……」
「いやー助かったっす! 流石先生! これでお昼代も浮かせられるっす!」
「東さん! ちゃんと栄養あるもの食べてください!」
そばで店員がうろたえながら突っ立っているのも気づかない三人の口論が繰り広げられる。そこに
「なんだこの騒ぎは」
店の奥から店長が現れた。
「あ、店長! ちょっとお客様同士でトラブルが……」
経験の浅い店員が店長に泣きつく。
しかし店長はその騒ぎを確認するなり、
(ああ……しまった……)
という顔をした。新人をキッチンに連れていき、次のような訓戒を述べた。
「いいか、あの黄色いジャージの人は東敏行さんと言ってな、高額な依頼料を取る探偵で敵に回すとまずいってこの街じゃ有名なんだ」
「敵に回すとまずい?」
「あの人は莫大な資金を溜め込んでるって噂だ。あの人がどんなに騒ごうが誰も文句を言えない。お前も気をつけろよ」
断っておくが、東はそこまで常識がないわけではない。注意されれば大人しくはなる。ただ常識などどうでもよいだけである。
三人の口論が少しクールダウンしてきた時だった。
「そうだ、事件の話聞かせてくださいっすよ」
東がここに来た理由を思い出した。
「ああ、このタイミングか……まあ良いのだ」
笹島はその事件について語り始めた。概要は以下のとおりである。
五月二十八日、女性が電車内で下着の中に手を入れられたとして警視庁へ通報があった。
警視庁は直ちに黄金駅に向かい、そこで駅員に拘束されていた
今野容疑者は逮捕前から一貫して無罪を主張しているという。
「というわけで、今野さんの弁護人になった私は、君に証拠集めを手伝ってほしいのだ!」
「なるほど……痴漢冤罪っすか。犯人のデータは?」
「このとおりなのだ」
笹島は持参したカバンから容疑者の個人情報のデータを渡した。
それを手に取ってみる東。横から覗き見る香菜。
そのとき
「……うっわ……」
東は顔をしかめ、思わず顔写真から顔をそむけた。
第十七話 有罪率99% につづく
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