ねごと

笠井 野里

本編

――愛なんかあるから、ありもしないものが、視えてしまう――――『うみねこのなく頃に』


――

 その夫婦は、結婚をしてから三年が経っていた。ダブルベッドの上で、どんな日でも二人並んで寝るぐらいの仲だった。

 ある時夫は、会社の先輩の愚痴を聞いた。先輩の妻の浮気についてだった。彼の口からは酒臭いため息が出ていた。夫は帰りのタクシーに揺られながら、先輩の警句けいく反芻はんすうしていた。彼はその警句に頭を悩ませないわけではなかった。

 帰ってきた後、彼は妻に対してあることを試してみたのだった。


――

 妻は、三ヶ月ほど夫の寝言に悩まされていた。始まりはあの日である。その日二時過ぎに帰ってきた夫は、ほとんど妻と口を聞かずに、ベッドに倒れこむようにして眠った。夫は、酒臭い口から、寝言で妻以外の女の名前を出したのだった。その日の妻はあまり気にすることはなかったが、翌日、翌々日、さらにその翌日と夫の口から自分とは別の女の名を聞かされるのに耐えられるほど鈍感ではなかった。しかし、夫の寝言の中の女に対して追求できるほど、妻は勇気を持たなかった。夫婦の笑顔は、この三ヶ月で仮面のようになってしまった。


――

 紫陽花あじさいも朽ちて土色から動かなくなる初夏の、蒸し暑い夜、妻はついに涙を流しながら、ベッドの上に起き上がり、夫に寝言の女について尋ねた。

「ねえ、私に隠してることない?」

 妻の声色はけっして低くない。

「え?」

 夫の第一声は、妻を安心させる材料にはならなかった。夫も妻と同じ姿勢になって、話を聴く。

「怒ってないから、真実を言って。私、聞いちゃったのよ、あなたの寝言、ねえ、ハルナって、誰なの?」

一語一語、区切るような話し方で妻は訊ねる。

 夫は妻の涙の溜まった瞳に、申し訳なさを感じた。妻を試す嘘の寝言は、妻をここまで追い詰めていたのだ。夫は何も言わずに妻を抱きしめて、ようやく口を開いた。

「ごめん、疑ったりして」

 妻は夫の言葉の意味を解せぬまま、力なく抱かれていた。

「もしかしたらもう俺のことどうでもいいと思ってるかもって、心配になっちゃって…… 浮気のフリして反応を試したくなって、それでわざとやったんだ、ウソの寝言だよ。本当にごめん、やるべきじゃなかった」

 夫はさらに妻を強く抱きしめる。しかし、妻は夫を抱きしめようとはしなかった。

「下手で馬鹿なウソ、ホントはハルナって女の方を愛してるんだって…… 私知ってる」

 夫は結局、浮気をしていないと証明するために、何時間も問答をした。妻が見せろと言ったものは全て見せた。スマホ、ラインの履歴、三ヶ月の行動遍歴、全てを提示した。夫は潔白だった。浮気の証拠は見つからなかった。夫は根掘り葉掘りの妻を責めなかった。彼はただ、うなだれて、妻をこんな気持ちにさせていた自分の軽率さを恥じていた。

 その夫婦の裁判は朝になるまでほぼノンストップで続いた。どちらもこの裁判を投げ出すことはなかった。あれを見せて、これを見せてと追求を止めなかった妻も、もうタネがない。妻は、ついに夫の方へとゆっくり歩み寄って、夫の方へしなだれた。

「馬鹿ね、私を信じてくれれば……」

 夫は何も言わずに彼女を抱いた。妻もようやく彼を強く抱いた。

 そのとき、妻は大粒の涙をこぼした。そして抱きつくというよりはすがりつくような体勢になってずり落ちて、謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい……」

「私…… あなたが浮気したと思い込んで…… 私、私…… 悔しくなって、他の男と寝ちゃったの……」

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ねごと 笠井 野里 @good-kura

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