黒き誓約

新谷四季

1、起源

 人を愛したことはなかったが、人をいたぶって苦しんでいるさまを見るのは好きだった。






 エリザベートが生まれたのは西方の領主の家で、あたりは森に囲まれた静かな土地だった。彼女の母はお産で死に、父と四人の兄のもとに育った。石造りの城に住み、何十という召使に囲まれ、上等な服を着て、飢えることを知らない。何一つ不自由のない、満ち足りた暮らしだった。


 エリザベートは我儘で礼儀知らずで傲慢な娘だった。自分の思う通りにならなければ癇癪を起し、誰が相手だろうと構わず口汚く罵った。


 彼女の異常な性癖は幼いころから片鱗を見せ始める。血を見ると興奮し、鼠や兎のような小さな生き物を捕まえては切り刻んで、哀れな獣が苦しみ悶えているさまを見ては悦んだ。次第に興味は獣から人へと移り、女中や遊び相手に遣わされた村娘に怪我を負わせ、恐れられるようになった。それでも父親は末の娘をすこぶる甘やかし、望んだものは何でも与えるのだった。


 良心を知ることなく、エリザベートは少女の残酷さを残したまま成年を迎える。この頃から彼女は嗜虐嗜好にますます傾倒してゆく。


 きっかけは、偶然に城の地下牢を見つけたことだった。地下牢は戦時下に造られたもので、そこには数々のおぞましい拷問器具がひしめいていた。鉄の処女や大鋏よりも興味をそそられたのは、埃を被った一冊の本だった。著者はエリザベートの先祖。“血の魔術”と銘打たれた、吸血行為をはじめとした穢らわしい闇の儀式について記されていた。


 エリザベートは人間の血を飲むという考えに魅了され、実際に行う。


 彼女は村の若い女を誘惑して寝室に連れ込み、激しく折檻した。泣き叫ぶ女の白い肌を裂き、舌を這わせて温かな血を啜った。苦痛に体を震わせる女を抑えつけながら口にする血の味は甘美で、鼻孔を満たす潮の香りにこの世のすべての喜びを感じた。


 父と兄たちは末娘の異常な嗜好に気づいていたが、止めようとはしなかった。代りに噂を知る召使や村人に金を握らせ、あるいは脅して口止めすることで、家の名誉を守ろうとした。しかしその試みが上手くいっていたのは、はじめのうちだけだった。


 エリザベートの倒錯した欲望は、行為を重ねるうちに歯止めが利かなくなる。ある夜、彼女は興奮のあまり相手の女を殺してしまう。父親は信頼のおける使用人と共に、血みどろの女の死体をシーツにくるんで運び、森の中に埋めた。


 最初の殺人の後も、エリザベートの残虐行為は終わるどころか、ますます拍車がかかってゆく。苛烈な欲望は留まるところを知らず、相手の女を殺してしまうことは珍しくなかった。彼女は節制を持たず、理性があるかさえ疑わしいほどだった。


 父と兄たちはエリザベートの非道をひた隠しにしようとしてきたが、それもやがて限界を迎えた。もはや一族の末娘がけだものであることは広く知れ渡り、エリザベートが村の修道女を手にかけたとき、民の怒りは燃え上がった。


 月夜の晩、怒り狂った民衆は炎を掲げて押し寄せ、城門を叩いた。かつては史実に仕えていた騎士たちですら主君のために剣を取る事はなく、一族の名誉は地に墜ち、取り返せないところまで来ていた。


 父親は民の怒りの矛先から逃れるため、かつては愛した娘を民衆の面前に引き立て、処刑を命じた。


 刑台に縛り付けられたエリザベートは、炎に炙られながら憎悪に吠えた。


「何故私がこのような理不尽な仕打ちを受けねばならぬ、これは不当だ」と。


 他者の苦痛を知ろうともしない彼女に、民衆の怒りは頂点に達した。彼らは農具を、衛兵から奪った槍を、焼かれるエリザベートにこぞって突き立てた。


 ──私を愛していると言った父と兄が、私を下賤な農民に差し出し、私の体に汚らわしい道具を突き立てることを許している。


 憎悪と怒りが混ざり合った激しい感情がエリザベートを支配し、彼女の中で何かが目覚めた。


 裁きの炎も、民衆の槍も、彼女を殺すことはできなかった。皮膚は焼かれながらも肉に達する前に再生し、腹に力を込めると、突き立てられた槍は小枝のようにぽきりと折れた。


 不浄なる“血の儀式”のためか、あるいは邪悪な先祖の血脈の顕れか。エリザベートは心のみならず、身体さえも真の怪物に変わっていた。


 吸血鬼は自らが得た力を感じ、憎悪は歓喜へと変わった。恐怖に目を見開く群衆を見渡し、紅く染まった瞳に邪悪な笑みを浮かべた。


 命を奪う者と奪われる者の立場は逆転し、エリザベートは視界に映るすべての者を殺し尽くした。刑場は瞬く間に血に染まった。彼女の長く伸びた爪と腕力を前に兵士たちの鎧は意味をなさず、裂かれた首が血のしぶきと共に地面に落ちた。逃げ惑う民衆の背に腕を突き立て、背骨を引きずり出した。


 残忍な悦びがエリザベートの内に広がった。彼女は狂喜のうちに殺し、血の渇きを癒した。生き残った者は一人としていなかった。


 我に返るころには、夜が明けていた。エリザベートは自ら湛えた血の海の中に、父と四人の兄の姿があることに気づく。自ら親兄弟を殺したことに何の感傷も湧かなかったが、意外ではなかった。


 エリザベートははじめから誰も愛していなかったのだ。


 エリザベートが一族を鏖殺し、自ら新たな領主として君臨したのは、三百年以上も前のことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る