【9*】調子に乗る実家と、愛が重すぎる弟。(後編)

 弟のウィリアムは、クララの婚姻が契約結婚に過ぎないことを知っていた。


 つい出来心でクララの部屋に忍び込んで、偶然にも婚前契約書を盗み見てしまったからである。


「……クララ姉さんのプライバシーに踏み込むようなことは、良くないって分かってたけどさ。でも、しょうがないだろ? 姉さんのことが心配でたまらなかったんだから」


 ウィリアムは自室の机に伏したまま独りぶつぶつと、姉への想いを吐き出し続けていた――。


   ***


 ウィリアムがクララの部屋に忍び込んだのは、彼女がレナス家に嫁ぐ前日の夜だった。


 最初から侵入しようと思っていた訳ではない。「得体のしれないレナス家への嫁入りなんて、やはり考え直してほしい」と訴えるために部屋を訪れたのだが、あいにく姉は不在だった。しかし、部屋には鍵がかかっていなかった――だからついつい、ふらりと忍び込んでしまったのだ。


「……僕は別に、やましい気持ちで侵入した訳じゃない。子供の頃はよくクララ姉さんの部屋に押し掛けていたし、眠れない夜は姉さんに添い寝してもらっていた。あの頃の感覚で、うっかり入ってしまっただけだ」


 と、ウィリアムは自己弁護をしていた。他人に聞かれたら「こいつヤバい……」とドン引きされそうな内容だが、すべては彼の独り言である。


 ウィリアムにとってクララは七つ年上の姉であり、母親代わりでもあった。実の母親はイザベラそっくりな派手好きの美女で、家庭を顧みずに不倫をしてマグラス家から出て行ってしまった――ウィリアムがまだ五歳のときのことである。


 異母姉であるクララは、マグラス家の中では浮いた存在だった。地味でマイペースで、ドレスや宝石にはほとんど無関心。そして、土いじりが大好きなクララは、どう見ても異質な存在だった。だからウィリアムも昔は、父やイザベラと同じようにクララのことをバカにしていた。


 ウィリアムがクララを敬愛するようになったのは、七歳のときだった。


 流行り病で食事が喉を通らなくなったウィリアムのために、クララは手料理を作って毎日食べさせてくれたのだ。そのときの麦粥が、どれほど美味しかったことか。


 死にそうなほど痩せ衰えていた自分が奇跡的に回復できたのは、姉のお陰にちがいないと、ウィリアムは確信している。


 ――おっとりしているように見えても、クララ姉さんは優しくて芯の強い人だ。本当に、素晴らしい女性なんだ。


 姉のことを知れば知るほど、ウィリアムは姉を敬愛していった。


 ――なのに!


「バカだよ、クララ姉さん……! なんで契約結婚なんてしちゃったんだよ!!」

 やり場のない怒りを拳に込めて、ウィリアムは何度も机を殴りつけた。


 秘密の婚前契約書を机の上に置きっぱなしにしてしまうのだから、やはりクララはうっかり者に違いない。いつもはきちんと引き出しの中に入れていたのだが、その日はしまい忘れていた。――そして、ウィリアムに見られてしまったのである。


「畑欲しさに結婚するなんて……どう考えてもおかしいだろ!」


 婚前契約書には、『レナス家の籍に入れば謝礼として五十平米の耕作地を与える』と書いてあった。そんなバカげた条件で結婚を決める令嬢は、世界広しと言えどクララしかいないだろう。


「クララ姉さんにとっては、それほどに土いじりは大切なんだ。……くそっ、イザベラ姉さんが、クララ姉さんの花壇を潰すなんて言うから!! だからクララ姉さんは、レナス家なんかに行ってしまったんだ!」


 ウィリアムは、自分の非力さに絶望していた。


「契約結婚のことを父さんに訴えても、『知らないフリをしておけ』と言われてしまった。『最初は契約関係でも、同棲していればそのうち子供くらいできる』――だと!? ふっざけるなよ、クソ! むしろ許せない、許さないぞジェド・レナス!! 姉さんに触れたら殺す!」


 ウィリアムはその日の父とのやりとりを思い出して、癇癪を起していた。父は騒ぎ立てるウィリアムを疎んじて、物置部屋に閉じ込めた――ウィリアムがクララの輿入れを、邪魔できないようにするために。


 あのときの屈辱を思い出すと、震えが止まらなくなる。


「畜生……! 僕にもっと発言力があれば、もっと権力があれば、クララ姉さんを守ってあげられたのに。好きなだけ、耕す土地をあげられたのに! 畑をエサにクララ姉さんを手に入れたジェド・レナスを、八つ裂きにできるのに!!」


 マグラス家の継承者でもないウィリアムと、次期辺境伯ジェド・レナスとでは、戦いにすらならない。


 自分の非力さに打ちのめされて、ウィリアムは「くそぉぉぉぉ!」とわめくばかりであった。


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