【15】旦那様が、幸せそうです…。
「わぁ……『ヒールトーチの空渡り』だわ」
金色に輝く光の粒が帯状になって青空に流れていくのを見上げて、私はうっとりと溜息をついた。
「王都でも見られるのね。本当にきれい」
五月末の昼下がり。私はひとりで土いじりをしながら、空を仰いで金色の群れを眺めていた。『ヒールトーチの空渡り』は自然現象の一種であり、渡り鳥が群れを成して空を渡るように、金色の光の粒が風に乗って移動するというものだ。
ヒールトーチという植物は、
この『空渡り』は、五月下旬に国内各地でまれに見られる。北の国境にあるシャムイ山麓で咲いたヒールトーチの綿毛が、季節風に運ばれて空を流れてくるのだ。
私が目を輝かせて空を見上げていると、
「珍しいな。ヒールトーチの空渡りか」
という、ジェド様の声が響いた。
振り向けば、微笑を浮かべて空を見上げるジェド様の姿があった。
「……ジェド様!」
この畑に彼が来るなんて、初めてのことだ。私は少し驚いて、居ずまいを正した。
「お体の調子は大丈夫なんですか?」
「あぁ。最近は、とても体調が良いんだ」
明るい声で言いながら、彼は私のすぐそばに来た。
(ジェド様、前とはすごく変わったわ……)
私はまぶしいものを見るような目をして、彼の美貌に見入っていた。ジェド様は少し前まで青白い顔をしていたけれど、最近は血色が良くなって表情も豊かになった。前はツンケンした態度だったけれど、近頃は物腰も柔らかい。
(無愛想でわがままに見えたのは、ずっと体調が悪かったからなのかしら)
笑顔のジェド様を見つめていると、飼い猫の愛くるしい姿と重なって見えてくる。翡翠のような深緑の瞳が、本当にきれい。
「どうした?」
彼は私の視線に気づいて首を傾げた。
「い、いいえ。ジェド様とお外で会うのは、初めてなので……少し驚いていただけです」
「前から、君の畑を近くで見たいと思ってたんだ」
ジェド様は、おもむろに私の髪へと手を伸ばした。しなやかな指で触れられて、私はびくりと身を強ばらせた。……ジ、ジェド様、何をしてるんですか。
「髪に綿毛がついてた。ほら」
「え……綿毛?」
彼の指は、金色の種子を付けた綿毛をつまんでいた。
「それは、ヒールトーチの種子ですね。風に乗って飛来した綿毛が、落ちてきたんだと思います」
「育ててみたらどうだ?」
「たぶん育ちませんよ。高山植物ですもの」
なぜかマグラス家では、山岳地帯でもないのにヒールトーチの小規模栽培が実現できていたけれど。偶然以外のなにものでもないのだと、弟のウィリアムが言っていた。
「分からないぞ。君なら何でもできるような気がする。俺が元気になったのも、絶対にクララのおかげだ」
「……そんな。私は何もしてませんよ」
なにか心境の変化があったらしく、数日前からジェド様は『嬢』を付けずに私を呼ぶようになっていた……たぶん、機嫌が良いからだと思う。親しみのある声音で呼びかけられると、不覚にもドキッとしてしまう。
「いや、絶対にクララのお陰だと思う。君が来た頃から、日に日に具合が良くなってきたんだ。ついに来週から、魔法の鍛錬を再開できることになった」
ジェド様は嬉しそうな顔で説明してくれた――もともと彼は魔法が好きで、子供の頃から過酷な鍛錬に励んでいたらしい。でも数年前から体調が悪くなって、魔法の鍛錬も中止せざるを得なかったそうだ。
「来週、レナス辺境伯領から魔術師がひとり派遣されてくる。俺の指南役だ」
(ジェド様、本当に嬉しそう。……笑顔がすごく可愛い)
ジェド様には、ずっと元気でいて欲しい。『レナス家の男性が短命だ』という父の言葉がちらりと脳裏を掠めたけれど、敢えて思い出さないようにして、私は笑った。
「魔法の鍛錬、再開できてよかったですね」
「ありがとう。ここ数年、ほとんど寝込んでいたことを思うと夢みたいだ。俺の具合が良くなったのは、……毎朝、君が朝食を食べさせてくれるからかもしれない」
「え?」
ジェド様がいきなり真剣な顔になり、頬を赤く染めた。物言いたげな彼の顔を見て、私は不意に気が付いた。
(……弟の看病をしていた時と同じ気分で食べさせていたけれど。もしかして失礼だったかしら)
二つ年下とはいえジェド様は成人男性だし、自分でスプーンを持てないほど衰弱している訳でもない。そんな彼に対して『あ~ん』は、不適切だったのかもしれない。
「あの。もしかして、食べさせるの失礼でしたか?」
「い、いや。失礼とかじゃないが。……最近は体調もいいから、さすがに『あ~ん』は、必要ないかもしれない」
「あぁ……」
しまった。やっぱり迷惑だったみたいだ。
なんとなくで二週間以上、彼のお口に食事を運んでいたけど。非常識な行動に、今さらながら恥ずかしくなってきた。
(お料理を食べてもらえるのが嬉しすぎて、全然思い至らなかったわ……)
夢中になると周りが見えなくなるという悪い癖が、また出てしまった。……申し訳なくなって私がしょんぼり肩を落としていると、
「だが可能なら、これからも朝食を作ってくれないか? できれば今後は二人分で。クララと一緒に朝食を食べたいんだが……」
「!」
心に花が咲いたような気持ちになって、私は彼を見つめた。
「良いんですか!? 私の手料理なんて、ご迷惑じゃありませんか?」
「全然、迷惑じゃない。……できれば今後も、ぜひ食べたい。君の育てたハーブがあると、食が進むんだ」
「ありがとうございます!」
嬉しすぎて、涙目になってしまった。そんな私を、ジェド様はじっと見つめていたけれど――不意に、彼の表情が曇った。
「……っ」
「どうなさったんですか、ジェド様?」
「いや、……大丈夫だ。少し疲れが出たようだから、部屋で休んでくる」
お部屋まで付き添おうとしたけれど、やんわりと断られてしまった。
「俺一人で大丈夫だ。本当にちょっと疲れただけだから、心配しないでくれ。じゃあ、明日からの食事も楽しみにしているよ、クララ」
こちらを気遣うように淡く笑うと、ジェド様は一人で屋敷に戻っていった。彼の足取りは少しふらついていて、危なげだ。
本当はお部屋まで支えて行きたいけれど……しつこく付きまとうと、ジェド様を困らせてしまうかもしれない。
「……やっぱり、体調は万全じゃないのね」
私はジェド様の病状を知らないし、レナス家の男性が短命だという噂の真偽も分からない。自分にできることはほとんど無いけれど、だからこそ、彼が喜んでくれるなら何でもしたいと思う。
「明日の朝食は何にしようかな。魔法の鍛錬が始まるっていうし、体力をつけるならお肉料理かしら。でも朝食だから、重たくないメニューが良いわよね。鶏肉のシナモン煮込みはどうかしら……ちょうどラディッシュも育ってきたから、一緒に添えてみたら……」
独り言をつぶやきながら、料理のことを考えていると。
「みゃぁ」
という、甘えん坊な鳴き声が聞こえた。
「あら、猫ちゃん。いらっしゃい」
私が両腕を開くと、仔猫は勢いよく私の胸に飛び込んできた。甘く鳴いて、艶やかな黒い毛並みを擦り寄せてくる。
「あなたも最近、元気そうね! それに前より少し大きくなった気が……」
「みぅ」
仔猫は可愛い舌で、私の頬や首筋を舐めてきた。
「待って。……ふふ、くすぐったいわ、やめて」
仔猫を抱き上げて「だめ」と諭してみたけれど、全然聞き入れてもらえなかった。笑いながら仔猫と遊んでいると、リンデル卿が現れた。
「とても良い傾向ですね!」
「何がです?」
リンデル卿は晴れやかな表情で「すべてがです」と答えた。
「若も『仔猫』も、信じられないほど安定してきてるんですよ! 最近の若は自分の意志で、ある程度こらえられるようになってきたらしくて」
「……こらえる?」
「いえいえ、こっちの話です。ともかく好調ということで!」
よく分からないけれど、ジェド様の具合が良いという意味らしい。
「若の変わりっぷりを見たら、ビクターの奴も喜ぶだろうなぁ」
独り言のようにそうつぶやいて、リンデル卿は嬉しそうにしていた。
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