山神様の嫁入り

収穫の月

山神様の嫁入り

 まだ人の世と神々や精霊、妖魔の世が『科学』という神によって分けられていなかった頃。

 人の世では源氏が平家から天下の覇権を奪取しようとしていたときのことだ。


 血なまぐさい喧騒からは遠く離れた山の裾野で、狩人のサツキはその小さな生き物に遭遇した。


 がさりという何かが動いた物音にさっと振り返ったところ、夏の草花が生い茂る木々の根元から現れたのは、白いふわふわとした産毛をはやした小さな生き物だった。--梟の雛だ。

 これまで眠っていたかのようにその瞼は重そうだ。何かのはずみで巣から落ちたのかもしれない。

 サツキに気づくと、眠いだろうに黒曜石のように黒光りする瞳をかっと見開きすぐに蛇のように細めた。キツツキが木の幹を突くかのように小さな嘴をかかかかと小刻みに鳴らして彼女を威嚇してきた。

 サツキは背負っていた矢筒から矢を一本引き抜くと、小さな獲物へ狙いを定めた。 

 こちらを威嚇する音はさらに激しくなるが、まだ自由に飛び立てない幼い梟など、長年修行してきた一人前の狩人の前では愚鈍なネズミに等しい。

 矢を解き放った瞬間、まだ飛べない雛は羽を広げて慌てて横へ跳ねた。サツキの矢は、雛の頭上を越えて今にも後ろから雛へとびかかろうとしていた蛇の細長い胴体を勢いよく貫き、その場へ影ごと縫い留めた。まだら模様の蛇は、体を貫かれた痛みに地面の上でのたうち回ったがやがてぴくりとも動かなくなった。


 梟の雛は丸い瞳をさらに丸くして心底驚いたように人間の狩人を見上げてきた。サツキはまるで人間の子供が驚いているかのような様子に、それまで張りつめていた緊張の糸がふっと緩み、思わずくすりと笑った。


「気をつけな。昼間の森はお前のことを食べたくてたまらない輩たちがうようよしているよ」


 言葉は通じないだろうが、まだ飛べない雛にそう忠告して背を向けた。

 そして表情をふたたび引き締めると、結界を破って村で人を襲った猩々を共に追ってはぐれてしまった父親を探しに山のさらに奥へ駆け足で進んだ。


 父親はしかし、さらさらと軽やかに水の流れる沢の上で、頭から血を流して倒れていいた。どうやら猩々と争っているうちに近くの崖から足を滑らせてしまったらしい。


 狩人の父を持ったときから、このような事故などは覚悟していた。だからサツキは涙を流すことはなかった。薄情ではあるが、いつもサツキに厳しく接してきた父親が死んでどこかほっとしたような気持ちもあった。


 そしてとっくの昔に成人している娘は、父親の亡骸を背負って村へ戻った。


 その日の夜、父親の遺体のそばで明日の葬儀に備えて寝ずの番をしているとき、大きな羽音とともに、どさりという音を立てて何かが家の前に落下した。


 何ごとかと小刀を手にしてすぐさま戸を開けてみたら、なんと家の前に父が追いかけた猩々の亡骸が転がっていた。


 猩々は腸をするどい嘴か何かで生きながら食い荒らされたらしく、悶絶した表情で死んでいた。まるでサツキに代わって何者かが父の仇を討ってくれたようだ。


 猩々の死体のそばには大きな鳥のものらしき茶色い羽が一枚落ちていた。異形のものかもしれないが夜目にも艶々としていて美しかったので、サツキはそれを拾い上げ、己の帽子に飾ることにした。


◇◇◇


 毎年、田んぼのあぜ道でツツジが花開くとき、それは山の神様が里へ下りてきて田の神様になる合図だ。


 山神様は女神とされている。およそ百年前、奥羽の地からやってきたサツキたちの先祖は誰も手の付けていないこの土地を切り開いた。そのとき土地の山神と縁を結んだ村人たちは、毎年未婚の若い男に女神と一夜を共にさせる儀式を始めた。このようにしてその年の豊穣を山の女神へ祈願するのだ。


 今年はサツキより一回り以上下の従弟の紋次郎が、若者たちの中からその栄えある女神の婿役に選ばれた。ところが。


「は? 私に婿役をやってくれだって?」


「頼むよ、サツキ姉。おれは、形だけって言ってもどうしてもキキョウ以外の女の人と一緒に寝るなんてだめだし、その間に他の男にキキョウを寝取られたらと思うといてもたってもいられないんだ」


 いとこの紋次郎は、村の娘であるキキョウに昔からぞっこんだ。儀式の日の夜は、村の未婚の男が未婚の女を夜這いすることが多い。サツキの家にも父親が死んでから誰か村の男が忍んできたことがある。


 紋次郎の心配は理解できるが、キキョウからすげなく断られているのも知っている。


 女にしては背の高いサツキは、年下の従弟を呆れた眼差しで見下ろした。


「紋次郎、お前何を言っているのかわかっているのか? 山の神様は女人が嫌いだろうが。床で寝ている私が女だとバレたら村へどんな罰があたるかわからないぞ」


「でも、サツキ姉は女だけど山へちょくちょく入っているのに罰があたってないわけだろう」


「それはおそらく男の格好をしているからだ。それに月の障りのときはさすがに山入りを避けている」


 背が高く怜悧な容姿のサツキは、弓矢を背負い獣の皮でできた帽子をかぶり袖の短い衣をまとうといういかにも狩人然とした格好で川を下ったところにある町の市場へ行くと、当然男とよく間違えられる。それでも毎月に月の障りはあって山へは立ち入らないようにしている。


 山の神様は女神で人間の女性、とくに月の障りをことのほか嫌うとされている。けれど父親から引き継いだ狩人という仕事は、冬には山の中でウサギや鹿、イノシシを仕留め、その肉を干して村の食糧とし、それ以外の季節は田畑を荒らす土中のチャ―と呼ばれる精霊、山の中で柴刈りや山菜採りをする村人たちを襲う妖魔を狩るのだ。


 だからサツキは女の身ではあるものの、一年を通して山へ入ることは村人よりもはるかに多い。それでも山神に敬意を払って常に男と変わらぬ格好をし、月のものが来たときには入山を遠慮している。


 紋次郎は下がり気味の眉をさらに下げるが、引き下がらない。


「でも、俺今まで婿役やった人たちから話を聞いたんだ! そしたら何も現れなかったし何か変わったことも起きなかったそうなんだよ。それにこの七年なんて稲は病にもかからず、大雨が降っても流されずたんと実っているだろう? だからきっと山神様は別に村の男と一緒に寝なくたってご機嫌なんだよ」


 若いからか、紋次郎はあけすけなことを言う。


「誰も何も来なかったなら、お前もこっそり儀式の場を抜けてキキョウのところへ夜這いに行けばいいだけだろう」


「でも今まではそうだっただろうけど、今年はどうかわかんないだろう。こっそり抜けていたのがばれたら、俺山神様からどんな目にあわされるか。頼むよ、サツキ姉。この通りだ」


 紋次郎は膝を地面について頭を下げた上に、地蔵や道祖神の像にそうするかのように手を合わせて拝んできた。


「お前、言っていることがめちゃくちゃだぞ。山神様が来て婿役が女だったら余計罰当たりだろうが」


「あっ、そうか」


「ふん、お前の考えは間違っているのがわかったなら、キキョウのことはあきらめて婿役に徹しな」


 まるで実の姉のようにサツキは年下の従弟をたしなめた。


 実のところ、キキョウには誰か好きな人がいると村の母親たちが噂しあっているのを耳にしたことがある。その相手が今夜キキョウの元へ忍んで来るかもしれない。従弟は人の恋路を邪魔するべきではない。


「そんな冷たいことを言わないでくれよ、サツキ姉!」


 紋次郎は幼児のときのようにサツキの膝に抱き着いて来ようとしたが、サツキはすっと体をかわした。


 頬が丸くふくふくしていた小さな頃ならいざ知らず、もう成人して田んぼ仕事をして泥まみれの男に抱きつかれても可愛らしいとは思えない。


 従姉に避けられてしまった紋次郎はつんのめって地面にしたたかに額を打った。曲がり烏帽子が頭から落ちて慌てて拾い上げる。烏帽子は男たちにとって大人の証だ。


「甘ったれるんじゃない。お前はもう大人なんだから、婿役に選ばれたからにはちゃんと務めを果たしな」


 いつまでたっても泣きべそをかいている従弟を冷ややかな瞳で見下ろすと、サツキは畑のそばへ土精のチャ―を捕まえるための罠をしかける作業へ戻った。


◇◇◇


 山神様の嫁入り儀式当日。その日は儀式の日には珍しく、天を割らんばかりに雷がけたたましく鳴る夜だった。


 紋次郎が名主の館でもっとも広い部屋で青ざめながら横たわっているとき、サツキもまた自分の家で横になっていた。雷の音のせいでなかなか眠りに入れない。


 家といっても親族や手伝いの者たちが大勢暮らしている名主の広い館と違い、土間しかない掘っ立て小屋だ。寝床も藁の上にむしろをしいた貧相なものだ。雷が一撃でも落ちたら、きっとあっという間に火に包まれ焼け落ちる。そろそろ建て替えようかと雷の音を聞きながらサツキは藁の上で考えていた。


 従弟の一家のように名主の館の敷地内に暮らせればいいが、獣や妖魔を処理するので、サツキは名主の館敷地内で暮らしている村の多くの人々とは離れて生活を営んでいる。


 儀式用に干した鹿の肉を名主のへ届けに行ったとき、美しい衣が飾ってあった。村の女たちによって山神様のために織られ染められた衣だ。


 春の芽吹きを思わせる若草色に染められた女ものの衣をうっとり思い出す。サツキは華やかな衣をまといたいとつゆほども思わないが、可愛らしい娘に着せたい欲はある。


 母親を知らずに育ったからなのか、父に息子のように育てられたせいなのかはわからないが、サツキはどちらかといえば男より娘の方が好きだ。


 彼女の目を引くのは、いつだって田を耕し薪を割る男たちのたくましい体ではなく、機織りや畑仕事に励んでいる女たちの柔らかそうな胸や捲し上げた着物の裾からすらりと伸びる足なのだ。


 昼間に聞いた娘たちのかしましくも高くかわいらしい声を思い出せば、ふふふと思わず口元がほころんでしまう。


 父親が亡くなってからこの七年間、一人暮らしのサツキを気の毒に思ってか、時々家の前に山菜や茸、木の実や酒壺などの差し入れがある。彼女らのうちの誰かからの好意だったら嬉しいと思うサツキだった。


 雷がやみ、雨が降ってきた。土砂降りである。そのとき、そっと遠慮がちに戸が動く音が聞こえた。 


 サツキは思いもよらない物音にすっと切れ長の目をきりりと吊り上げ、口元を引き締めると、相手に悟られないよう枕の下へ手を伸ばした。


 どうやら村の若者の誰かが夜這いに来たらしい。 


 父親が死んでから、初めて迎えた祭りのときにサツキの家に誰かが忍んできた。その男はサツキに「お前のことがずっと好きだった」と告げてきたが、名乗りもせずに無理やりサツキを犯そうとしてきたので、やむおえず彼女は枕元に忍ばせている小刀をそいつの喉元に突き立てて家から追い出したことがある。


 それ以来、誰も彼女の元へ夜這いに訪れたことはなかった。

 だが、今宵ふたたびとっくにとうがたったサツキへ果敢に挑戦してくる若者がまたいたようだ。


 夜這いに来た男は大きな灯りを手にしているのか、背後がいくつも蠟燭をともされたかのように明るくなった。


 男がサツキの背中に近づいた途端、サツキは胸ぐらをつかみ小刀を突き付けた。男とは思えないぐらい柔らかく甲高い悲鳴が家の中を響き渡った。


「あっ、あの」


 転がっていた筒状の灯りで不埒者を照らせば、零れ落ちそうなぐらい丸く大きな瞳を持った娘が鈍く光る刃を前に青ざめていた。


 娘は十七、八歳ぐらいで、顔も体もサツキより一回り小さく、後ろに結っている長い髪は雨上がりの地面のように濃い茶色で、小さな唇には赤い紅をひいている。明らかに村の娘ではない。けれど、その黒々とした丸い瞳をサツキはどこかで見た覚えがある。


 見知らぬ娘はおまけに名主の館に飾っていた鮮やかな若草色の衣をまとっていた。


「お前は誰だ?」


 白い喉元に刃を突き立てたままサツキは小刻みに震えている娘に尋ねた。


 村に魔よけの結界は張っているものの、強い妖怪が人間へ変化して人家に現れることはごくまれにあるから油断はならない。


「わたしはスズメと申します。今から七年前、山の中であなた様に助けていただいたものです」


 お忘れですか? と悲しそうに問われた。サツキはいぶかしげに娘を見つめた。山に潜んでいた野盗を殺したことはあるが、こんな娘を助けた覚えなどない。狩人である彼女は山の中で殺した数はとても多く、助けたものと言えば、梟の雛ぐらいだった。そこでサツキはあっと声を出した。

 

 こちらを見つめてくる娘の瞳があのときの雛のあの丸い瞳とそっくりだったのだ。

 

 人の形をとれるならば、あの雛は単なる梟ではなくどうやら妖魔や精霊の類だったらしい。


「梟なのになぜスズメという名前なんだ?」


 サツキは娘の喉元から刃を下して尋ねた。まず浮かんだ疑問がそれだったのだ。


 今度はなぜか梟の娘が拍子抜けした表情を浮かべたが、すぐに明るく微笑んだ。


「父親が雀なのです。雀の長者に名付けてもらったのです。母は山神です。今年母から山神の座を譲られましたので、さきほど村の名主殿の所へ挨拶に参りました」


「なんと。あなたは山神様だったのか」


 梟の娘はさきほど名主の枕元に立ちその夢に現れて新しい山神だと告げたという。

そこで自分への捧げものらしいこの若草色の衣を見つけてまとったそうだ。どうやら紋次郎と一夜は共にしなかったらしい。


「なるほど。では山神様、私のところへは何しに来られたのです?」


 若い女神は恥ずかしそうにうつむいた。そのさまはツツジの花がほころんだかのように実に可憐だった。


「スズメでかまいません。あの、サツキ様、わたしを」


「私を?」


 続きを促すと、少女は外で降りしきる雨音にも負けない声で叫んだ。


「どうかわたしをサツキ様のお嫁にしてください!」


「私たちは女同士だぞ!?」


 まさか求婚されるとは思わず、驚きのあまり夜更けにもかかわらずサツキもまた叫び返してしまった。雨が降っていなかったら他の村人たちに聞こえていただろう。


「そもそもあなた方山神は人間の女人が嫌いだろう?」


 サツキは人間として当然の疑問を口にした。女嫌いの神様が、人間の女人へ嫁ごうとするだなんて西から日が昇るような天変地異だ。


 目の前の娘は新しい山神などではなく狐かたぬき辺りが悪戯で人をからかいに来たのではないかとサツキはいぶかしんだ。


 だが、正体不明の娘は、サツキから鋭い視線を向けられても縮こまるわけでもなくお尻から尻尾を出すわけでもなく、不思議そうに丸い瞳を瞬かせた。


「ひょっとしたらそういう山の神もいるかもしれませんが、わたしたち一族の場合は山の精気から生まれたので元来性別はありません。山に暮らす生き物たちの手前、梟の姿を取っていることは多いです。でも、特に人間の女人や男のことを嫌いだなどと思ったことはありません」


「なんだと? あなたはまさか人間をからかいに来たのか?」


「そんなまさか。わたしはサツキ様の元へ嫁入りに参ったのです」


 若い娘は風に揺らぐ花のようにふわりと微笑んだ。すると家の中は一瞬、清浄な気に包まれ山百合の匂いのように甘い香りが漂った。ハリネズミのように気が立っていたサツキはあっという間に毒気が抜かれてしまった。


 どうやらこの娘が神であることは間違いないらしい。


「わたしたちが嫌うとしたら、匂いが強いものですね。ニラやニンニクは苦手です」


 独特の匂いを思い出したのか、スズメは顔をしかめた。


「匂いの強いものが苦手。ということは、女人を嫌わなくてもやはり月の障りは嫌うのだろう?」


 いくらかほっとしたような気持で、サツキは念押しするかのように問いかけた。もし山神が女人を嫌わないどころか月の障りも気にしないのであれば、これまで入山したくとも月の障りのときは入山しなかった彼女の遠慮は一体何だったのだろう。


 しかしサツキの思いも空しく、若い山神はますます不思議そうに瞳を瞬かせた。


「わたしどもがそもそも月の障りがないので人のそれを気にしたことはありません。山に暮らす獣や妖怪は人の血の匂いに気づけば人を襲うかもしれませんが」


 このとき、サツキは『山神は女人を嫌う』と山から女人を遠ざける本当の理由に気づいた。


「なるほどそういうことだったのか」


 唇の端を上げながら、女狩人は月の障りのときは入山を控えることにした。先人の知恵には粛々と従うことにする。


「納得してくださいましたか」


「いやまだわからないことがある。山神は無性のはずなのになぜあなたは人間の娘の姿を取っているのです?」


「それは『山神様は人型の女神だ』とあなた方人間が思っているからです。サツキ様がお望みでしたら梟にも人間の男の姿にもなりますよ」


「いや、私はかわいい女子のほうが断然好きだ」


 丸い頬がとがり豊かな胸が徐々に減っていくのをみて、サツキはきっぱり即答した。山神は瞬く間にもとの愛らしい娘の姿に戻った。


「疑問が解決したのでしたら、わたしをサツキ様のお嫁にして下さいますね?」


「それとこれは話が別です」


 サツキはまたきっぱり答えた。若い女神はたちまち日照りでしおれた野菜の苗のように項垂れた。


「まだ何かお気に召さないことでもあるのでしょうか?」


「肝心なことをまだ聞いていない。そもそもどうしてあなたは私に嫁入りしようなどと思われたのです?」


「はい、サツキ様の嫁になってあのとき助けて下さったご恩を返させていただきたいのです!」


 しおれた苗のようだった娘は、通り雨で息を吹き返したかのように前のめりになって言った。


 それなら身の回りの世話よりも食糧を定期的に運んでくれた方が嬉しいのだが、と思ったがサツキは口には出さなかった。そう言ってしまうと、この女神はサツキの嫁としてそうしかねないかもしれないからだ。


 可愛らしい娘は好きだが、一人暮らしの狩人に誰かを養う余裕などない。ましてや人ならざる者を伴侶にするなど人の理とはちがう理で動いているだろうからきっと面倒なことこの上ない。


 実のところ、村の人間は知らないがサツキの母親もまた妖魔だった。母親は風のように父親の前にある日突然現れ、サツキを生んでから煙のように忽然と消えたという。それ以来、父は自分を置いて行ったと母を恨んでいた。母親に似ているらしいサツキは特に何かしたわけでもないのに父の機嫌が悪いときは時折ぶたれていた。それゆえ、サツキは人ならざる者とも人とも必要以上に近しくなりたいと思ってはいなかった。


 人の語る山神が女嫌いなら、人間のサツキは人嫌いなのだった。


「スズメ殿、お気持ちはまことにありがたいのですが、私は一人暮らしが性に合っています。恩返しはお気持ちだけで十分です」


 まさか嫁入りを断られると思っていなかったのか、若い女神は頭を後ろから殴られたかのように愕然としている。


 気の毒だが速やかに山へ帰っていただこう。


「でも、でも、サツキ様はこれまで結納の品をすべて受け取ってくださいましたよね?」


「結納の品?」


 サツキは眉を寄せた。そんなものさっぱり心当たりがなかったからだ。


「この七年の間山の中にある木の実や果物、山菜や茸などサツキ様へたんと差し上げたと思いますが」


「まさか、あれはあなたからの差し入れだったのか!?」


 若い女神は大きく頷いた。サツキは村の誰かが善意でよこしてくれたのばかり思っていた。


「受け取ってくださったからには了承だと思っていました」


「そんなの、差出人があなただとわからなかったのだから無効でしょう」


 すると、山神は満月のように丸い瞳を三日月のようにすっと細めた。かつて山の中でこの顔に威嚇されたのをサツキは思い出した。


 あのときはちっとも怖いと思わなかったが今は外で雨が降っているとはいえ、初夏なのにうっすら寒気を感じた。


「あくまでも私の求婚を断られるおつもりなのでしたら、今すぐ結納の品をすべてお返し下さい。でないと、村に災いが起きるかもしれませんよ」


 結納の品はすでにすべてサツキの腹の中に収まって彼女の血となり肉となっている。返せるはずはない。


「あなたは私を脅すつもりですか」


「いいえ、わたしは世の理を説いたまでです」


 スズメは可憐な乙女の風情から一転して、はるか高みから世を睥睨するかのような傲岸とした態度で答えた。


 恩を返すと言いながらこのようにサツキを脅したりとなかなか身勝手だ。虫の一匹も殺さないような優しげな顔をしているが、さすが人ならざるものだ。


 山神を怒らせると村にどんな祟りが来るかわからない。遠くの村では、土地神の怒りを買った者は、気がふれて他の村人を大勢殺してしまったそうだ。


 人と神はしばしにらみ合った後、折れたのはやはり力の弱い人だった。サツキは感情の一切こもっていない作り笑いを浮かべる。その日に焼けた頬は大変ひきつっていた。


「致し方ありませんね。あなたを娶りましょう。けれど、このような貧寒とした暮らしゆえ贅沢はさせてやれませんがそれでもかまいませんか」


 サツキは渋々若い女神を受け入れることにした。だが、腹の中ではこの若い女神が人間の暮らしに嫌気がさし早々に山へ帰りたくなるように仕向けようと考えていた。


「はい、おそばにいられるならヒンカンでもキンカンでも何でもかまいません!」


 スズメは、顔を星の瞬きのように輝かせ「やったあ!」と人間の娘のように喜んだ。


 そのように喜んでいられるのも今のうちである。食事は毎食ネギやニラ、ニンニクなど匂いのきついものにしてやろうなど、サツキは嫁をいびる姑のようなことを考え始めた。


「ふつつかものでございますが、末永くよろしくお願い申し上げます」


 藁の上に敷いたむしろの上で三つ指を立てて、伴侶となったサツキへ丸い頭を深々と下げた。


 それから若い女神は何を思ったのか、サツキへその小柄な体を徐に押し付けてきた。


娘の体は折れそうなぐらい華奢で、まるで正月に村で作って食べる餅のように柔らかかった。触れたら壊れそうな気がしてしまい、サツキは彼女を咄嗟に突きとばせなかった。


「! 何をなさるつもりですか」


 夜着の合わせへ山百合の花のように白い手を差し入れられサツキは焦った。その手首をつかんで止めさせようにも小さな手はすでに胸の膨らみを包み弄び始めた。


「何って、人間は婚姻を結ぶと体を重ねるのではありませんか」


 スズメはそう言うと、蛇のようにちろりと舌舐めずりした。まるで色ごとにたけた後家のように実に妖艶な表情を浮かべている。


 まさかこの若い神が寝食のみならず閨まで共にしたがるとはサツキは想像もしていなかった。


「私たちはともに女ですよ。男女のように重ねる部分がありませんよ」

 サツキは弓の弦のように細い眉を跳ね上げた。


「人間の体のことは嫁入り前にたくさん勉強してまいりました。女同士であっても愛し合う方法はたくさんありますよ」


 若い女神は自信ありげに言った。


黒い瞳の奥で金色の怪しげな炎が揺らめく。サツキはぞくりと背筋が震えた。目の前の若い娘は神の化身であるはずなのに人を惑わす妖魔のようにも思えた。


 その間にも、スズメのもう片方の手がサツキの引き締まった太ももの内側をつたい、秘所へ伸びてくる。


「んあっ」


 自分でさえ触れたことのないそこへ触れられて、サツキは思わずあられもない声を漏らし、羞恥で顔を真っ赤にした。若い女神は、その反応にふふと嬉しそうに笑う。


「サツキ様、どうぞわたしに身を委ねてくださいませ」


 そう言うなり、山神は人間の女にその紅色の唇を重ねてきた。


◇◇◇

 

「縄をほどいてくださいませ!」


 手足を縛られた女神は藁の上で自らを縛る紐を解こうと激しくもがいていた。


 特殊な編み方をしている縄のため呪力が備わっている。神といえどもそう簡単には抜け出せない。


「ご期待に添えられず申し訳ないが、初夜はもう少しお互いのことを知るまで延期とする」


 可愛らしい娘を眺めるのは好きだが、たとえスズメが人間であってもサツキは情を交わす気はさらさらなかった。生涯誰ともだ。


「そんな! お嫁にしてくださったのに初夜をお預けするなんてひどいです」


「黙りなさい。これ以上うるさく騒げばいかな神といえど馬のように轡をかましますよ」


 サツキは厳しい口調で告げた。


 すると悔しそうに口をつぐみ、「ううう、こんなはずじゃなかったのに」と言いたげにスズメは藁の上でしくしく泣き始めた。


唇を重ねそうになった瞬間、サツキはスズメの小さな頭を抱え込み体をひっくり返しその腕を素早く後ろ手に拘束したのだ。相手が山神といえども、百戦錬磨の狩人は一方的にやられっぱなしではなかった。


 サツキは竈のそばに置いていた素焼きの酒壺から盃へ酒を注いだ。これも以前家の前に置いてあった酒だ。おそらく結納の品というやつなのだろう。


 今宵は飲まないと眠れそうにない、とサツキは盃を大きくあおった。


 酒壺が空になった頃には雨はやみ、しくしく泣いていた女神も幼い子供のようにすやすやと寝息を立てていた。


 こうして、山神様は狩人のサツキの元へ嫁入りした。

 

 

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