第76話 想いあふれる《side掛水リンネ》


 薄暗い病室の中を、かちかちと時を刻む秒針の音だけが響いている。


 掛水リンネは、病室のベッドに横たわる皆守クロウを、傍らでじっと見守っていた。


「ねえ、クロウさん……?」


 リンネは、クロウに呼びかける。


「クロウさんが倒れてから、もう五日ですよ? そろそろ、起きませんか? 皆、すっごく心配してるんです……ヨル社長も、ユカリさんも、ハルも……わたしだって……」


 だけど、クロウは眠り続けたまま、その声に答えることはなかった。


 クロウがダンジョン内で倒れたあの後、リンネは、ヨルが手配した医療班と共に彼のもとまで駆けつけて、そのままこの病院まで運び込んだ。


 クロウの容体は、目立った外傷はないものの、体内の魔素濃度が基準値の数百倍を超えていて、それによる意識障害が発生しているとのことだった。


 諸々の検査結果により、命に別状はないとのことだが、逆に何故この状況で人間が生きていられるのか、クロウを診察した医師の誰もが首をかしげる状況だった。

 そのためクロウがいつ目を覚ますのかは誰にも分からなかった。


「クロウさん……」


 リンネは、ベッドの上で眠り続けるクロウの手をそっと握った。


「……何にもできなくてごめんなさい」


 震える声で、リンネはもう何度目になるか分からない謝罪の言葉を口にする。

 目頭がかあっと熱くなり、涙がこぼれだすのをリンネは抑えることができなった。


「クロウさんが戦っているのに、傷ついているのに……見ているだけで……」


 ぽたぽたと、リンネの涙がクロウの手の甲に落ちる。


「クロウさん……お願いだから起きてください……いつもみたいに優しい笑顔を見せてください……声を聞かせてください」


 リンネは大粒の涙をこぼしながらクロウに呼びかけた。



「大好きなんです……あなたのことが…」



 抑えきれない想いが、涙とともにあふれだす。

 けれどその告白は、想い人の耳に届くことなく、静寂に吸い込まれて消えてしまった。


 その時だった。


 コンコン――と控えめなノックの音が病室に響く。


 リンネははっと我に返り、慌てて涙を拭うと、扉の方を向いた。


「どうぞ……」

「失礼します」


 がちゃりと音を立てて扉が開く。

 病室に入ってきたのは、白髪頭をオールバックに撫でつけた、長身痩躯の老紳士だった。


「……犀川、さん」

「ほほっ、リンネさん。こんにちは」


 ヨルの専属秘書、犀川ロウは、にこやかな笑顔を浮かべてリンネに軽く一礼する。


「少し時間ができたので、お見舞いにきました。こちら差し入れです。よかったらリンネさんもどうぞ」

「あ、ありがとうございます。すみません、気を遣わせてしまって……」

「いえいえ、わたくしも特務秘書課の一員ですから」


 犀川は、フルーツの入ったバスケットをベッドサイドに置いてから、クロウのそばに歩み寄った。


「クロウさんのお加減はいかかですか?」

「相変わらずです。まだ意識は戻っていません……」

「そうですか。それは心配ですね」


 犀川はクロウの容態を気にする素振りを見せつつ、ベッドサイドの椅子に腰かける。

 クロウの寝顔をしばらく見つめた後、リンネに向き直った。


「……ヨル社長から聞きましたよ。リンネさん、クロウさんが入院してからずっと付きっきりで看病をしていると」

「え? あ、はい……」

「心配なのは分かりますが、あまり無理をなさらないように。クロウさんが目を覚ました時に、貴女が倒れてしまっては本末転倒です」

「すみません……でも、わたし……」


リンネは言葉を詰まらせる。


「クロウさんの目が覚めるまで、そばにいたいんです……」

「……そうですか」


 犀川はそんなリンネの想いを否定することなく、ただ穏やかな表情で頷いた。


「好きなんですね。クロウさんのことが」

「え?」


 犀川の指摘に、リンネはどきりとして顔を赤くする。


「あ、えっと……その……」

「隠さなくてもいいですよ。クロウさんを見ている貴女の表情かおを見ていれば、すぐにわかります」

「あ……う……」


 リンネは耳まで真っ赤に染めてうつむいた。


「す、すみません……わたし、その……」

「ほほっ、謝ることではありません。誰かのことを好きになる、素晴らしいことです」

「は、はい……」


 犀川に優しく諭されて、リンネはこくりと頷くしかなかった。

 しばしの沈黙。それからリンネは、ぽつりと独り言のように呟いた。


「最初は……憧れ、だったと思います。ダンジョンで危なかったところを助けてもらって……それから、一緒に働くようになって。クロウさんは信じられないくらいの力を持っていて……同じ探索者ダイバーとして純粋に憧れました」


 クロウの寝顔を見つめながら、リンネは続ける。


「でもクロウさんは、そんなに凄い力を持っているのに、まるでそれをひけらかさないで……謙虚で……優しくて。それから……クロウさんと一緒にいると、わたしも楽しくて。一緒にいるだけで、安心して。いつの間にか、もっと一緒にいたいなって思うようになったんです……」


 視界が滲んだ。

 再び込み上げてくる涙をリンネは抑えることができなかった。


「ずっと一緒にいたい……だから、クロウさんに求められるわたしになりたかった……でも……でも……! わたしは子どもで弱くて……役立たずで……! クロウさんが傷つくのをわたしは見てるだけだった……!」


 リンネは、錆びたナイフで自分を切りつけるように、言葉を吐き出す。


「こんなに好きなのに……! どうして、わたしは……子どもなんだろう! どうしてこんなに……弱いんだろう……!」


 リンネの瞳から、とめどなく涙が流れ落ちる。

 犀川は懐からそっとハンカチを取り出すと、リンネに手渡した。


「どうぞ」

「……す、すみません……」


 リンネはハンカチを受け取って、目にあてた。

 再び、沈黙が病室に降りる。


 やがて、その沈黙を破ったのは犀川だった。



「仕方ありません。皆守クロウは人間ではありませんから」




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