【白蓮の魔女】記憶喪失から始まる契約婚!!? 【時を逆行し記憶を失った令嬢ですが】バッドエンドを回避したらなぜか溺愛がはじまりました。

友坂 悠

記憶喪失から始まって。

「——だから、これは契約による婚姻だ。私が君を愛する事はない」


 気がついた時。目の前の男性がそう宣った。

 婚姻? 契約?

 言葉の意味はわかる。わかるけど。でも——





 ♢♢♢




 その時。

 頭の芯に冷たいものが流れたような気がした、と思ったら、

 ドン

 という衝撃がわたしの身体を突き抜けていった。


 痛みは、ない。

 意識だけがどこか遠くに行きかけ、そしてとどまったのだと思う。

 ここがどこだか今がいつだかそんなものも曖昧になり、身体の力が抜け倒れかけたのを誰かに支えられかろうじて踏みとどまった。


 はっと、気がついてわたしを支えてくれた人を見る。

 そこには……。

 白銀の髪に碧い清浄な瞳。

 鼻筋もシュッとして、とても綺麗な美丈夫で。

 こんな人が現実にいたら絶対に恋に落ちるだろうなぁだなんて考えている自分を何故か客観視していた。

 我に返ったのはその数秒後。

(っていうか誰? この人。ううん、わたし、誰? ここはどこ?)

 自分のことがわからない。

 いくら考えてもわたしが誰でどうしてこんなところにいるのかが思い出せなかった。


「大丈夫か?」


 はぁ。声も好み。

 アイドルのようなそんな綺麗かっこいい声が耳元で聴こえて。

 この人、いい人なのかなぁと思ってちょっと好感度があがる。


「君は、身体が弱いのか?」


 こちらを見るその目が冷たくて。


「まあいい。私には関係がないか。君は私の仮初の妻の役割りを演じてくれさえすれば良いのだから」


 へ?


 わたしを支えてくれていた腕が離れる。もう大丈夫と判断したのだろう、そのまま一歩後ろに下がった彼はわたしに向き直り一瞥すると、


「——だから、これは契約による婚姻だ。私が君を愛する事はない」


 そう冷酷そうなイントネーションで宣ったのだった。




 上がった好感度が一気に下がる。

 目の前の人が何を言っているのかよくわからなくて。


 言葉の意味は、わかる。

 婚姻、契約?

 つまりこれって、お飾り妻を演じろっていうシチュエーション?

 わたしとこの人はそういう関係なのか。

 そう理解したら、心が一気に冷めた。


 ちょっと素敵だな、だなんて思った自分に腹がたって。

 それからどんっと不安が押し寄せてきた。

 わたし、自分のこと、まだ全然思い出せてない。

 それをこのまま彼に喋っても、どういう扱いをされるかがわからないじゃない。

 役に立たない女だって思われ、ここを追い出されないとも限らない。


 そう、ここ。

 上品な調度品、白が基調の壁とところどころに施された彫刻。

 背後にある天蓋つきのおおきなベッド。

 っていうことはここは……。


 ひょっとしたら、夫婦の寝室ってやつ?


 あああああああ。

 契約婚とはいえこの人は形式上わたしの夫ってことなのだろう。

 だったら。


 怖い怖い怖い。

 そういう経験があるのかどうかさえはっきり覚えてないけど、でも。

 自分が男性を受け入れられるようにはあんまり思えない。

 怖いとしか思えなくて。


「わたくしは、どう過ごせばよいのでしょうか?」


 気がつくとそんなせりふが口から出ていた。

 っていうか『わたくし』って。

 どこかのお嬢様のようなそんな言葉が自然に口からでてて、びっくりして。


「私に迷惑をかけなければそれでいい。ただし、外では必ず私の妻として装うこと。そのために必要な費用その他はセバスに言えばいい」


「夜の……おつとめは……」


「必要ない。ここは君だけの為に用意した寝室だ」


「旦那様、は?」


「私の寝室は隣だ。もちろん勝手に入るのは厳禁だ。私ももうここには足を踏み入れない。用があればセバスを通じて連絡をよこすように。いいな」


 そこまで言うとばっと振り向き、部屋を出ていった彼。


(あーあ。彼の名前も聞けなかった……)


 ふかふかのお布団に、ぼすんと倒れ込んで。

 これからどうしよう。そんな事を思いながら眠りについた。

 ああ、ドレス脱いでない。

 っていうかこんな服、どうやって着たんだろう。

 うつらうつらしたあたまにとりとめもなく、ぐるぐるとそんな思考が浮かんでは消えていった。








 どこかで音が鳴っている。

 ピーピーピーって耳障りなそんな、音。

 うっすらと目を開けてみると、見覚えのない天井がみえた。


 って、ずいぶん低い天井だな。

 そんなふうに思いよく見ると。

 ってこれ、天井、じゃ、ない?


 目線を横にずらすとベッドの外が見える。これ、ベッドの天蓋だ。天井っていえば天井かもだけど、それはベッドの天井にすぎなくて。


 赤いベルベットの光沢のある生地が天蓋から下がっている。

 この分厚いカーテンを閉じれば外からの光が完全に遮られ、ゆったりと眠れるんだろう。

 身体をおこしてもぞもぞっとベッドから出ると、窓から朝日が漏れさしていた。

 もう朝なのだなと感じると同時に、途方に暮れた。


 朝になればこの訳のわからない夢から覚めるんじゃないか。

 寝て起きれば忘れてしまった記憶も思い出すんじゃないか。

 そんな期待もあったのに。

 それが完全に裏切られてしまったことに。


 耳障りだった音はいつの間にか消えていた。

 もしかして夢だった?

 身の回りにはそんな音が鳴りそうなものは見当たらない。


 わたしは……ドレスのままだ。

 かろうじてストッキングは脱いだらしい。ヒールはベッドの下に転がってるし、脱ぎ散らかしたのであろうそれはまるまって転がっていた。

 ちょっとくしゃっとしちゃった水色のドレス。シフォンのひらひらがいっぱいで若い子向けなのはわかる。こんなちゃらちゃらしたドレス結婚式って感じの衣装ではないのはわかるけど、それならどうして?

 まあシワがはいっちゃってるからちゃんとクリーニングしなくちゃだよね、なんて考えながらなんとか脱いで。

 背中の部分がファスナーじゃなくって紐でぎゅっと締め付けるコルセットドレス。

 なんとかかんとかほどいて脱いだけど、これって一人で着るのは無理だなぁって考えながら周囲を見渡す。

 脱いだは良いけど着るものがないと、ほとんど裸みたいな格好だから誰かに見られたらやばい?


 豪奢なクローゼットはカラだった。そうかわたしはここに来たばかりなのかとだったら何か荷物が無いかとよく見れば隅に置いてあったちょっと古風な革のトランクを見つけた。

 これがわたしの荷物なのだろう。

 っていうか荷物らしいのはこれ一個だけ。

 どういう事情だったのかも思い出せず、なんだか人ごとのように感じながら開けて中を見ると若草色のストライプがかわいいワンピースを見つけた。

 自分の趣味とはどうしても思えなかったそれをとりあえず着てみると、どうやらサイズはぴったりで。着心地も何もかもわたしに馴染んでいるそれ。

 記憶はない、けど。

 趣味でもない、けど。

 ああこれはわたしの服なんだなぁ。そう実感した。


 ふと、外がみたくなり窓際まで移動する。

 床一面に貼られた毛足の長いカーペットは、ヒールで歩くより裸足で歩いた方が気持ちが良かった。

 ここは、お金持ちの家なんだなぁ。そんな素朴な感想を持ちつつ窓の外を眺めると、そこには広大な敷地が広がっていた。

 公園? と間違えそうになるくらい緑や池まであるお庭。

 綺麗に整備された馬車道が街との境の大門まで繋がっているのがわかる。

 って言うか何これ?

 こんな光景、見たことない。

 記憶はない、記憶はないんだけど、絶対に初めて観る景色だって、何故かそう思えて。




 ちょっと怖くなった。

 いったいここはどこなの?

 わたしはどうしちゃったの?

 こんな王侯貴族かって思うようなお屋敷にわたしなんかが居ていいの?

 もしかしたらこれって何かの間違い?



「まぁ。起きてらしたんですね。それじゃぁ朝食をお運びいたしますわ」


 コンコンとノックの音と共に部屋に入ってきたふくよかな女性。

 黒のシックなワンピースに白のエプロン。あたまにも三角布をかぶっていかにもお手伝いさん風な人。


「あの——」


「どうされました奥様。ああ、わたしのことはマリアとお呼びください。本日より奥様付きのメイドを仰せつかりました」


「そうなの、マリア。よろしくお願いしますね」


 メイド、かぁ。

 やっぱりかなりのお金持ちのおうちなのは間違いなさそう。

 旦那様がおっしゃってた「セバス」さんって人は執事さん?

 マリアさんといいいかにもな名前ではある。


 って、何? いかにもな名前? 記憶は繋がらないけれど自分にそんな知識があるって言うのを認識してちょっと驚いて。

 それでもこれはちょっとチャンス、だ。

 なんでもいいから情報収集しなくっちゃ。


「あ、あの、マリア。わたくしちょっと混乱してて。今どういう状況なのかどうすればいいのかよくわかっていなくて……」


 マリアはこちらを見て、ああそうでしょうそうでしょうといった感じに頷く。


「セラフィーナ様は昨夜こちらにおつきになったばかりですものね。うちの旦那様ったら女性がお嫌いだからわたしでもおそばに近づけない程なんですよ。ですから少しばかり辛辣な物言いになりやすくてですね……」


 多分、わたしが旦那様に何かきつい言葉を投げかけられたのだろうと察したのだろう。マリア、そんなふうにちょっと言葉を濁しながら。


「それでも、根は本当はとってもおやさしいんですよ? ですから、長い目でみていただければと思いますわ」


 そう締めた。


(セラフィーナ? それがわたしの名前なのかしら……)


 なんとなく聞き覚えがあるような気もするけど……とそんなふうに思いながら聞き流す。

 どうにも自分の名前ってふうにはしっくりとこない。


「旦那様のお名前、フルネームだとどうおっしゃるのかしら……」


 いかにも知ってるけどフルネームには自信がないからみたいな風を装って。


「ああフルネーム。旦那様は普通にミドルネームにフォンがついてらっしゃるんですよ。普段はあまりそう名乗りませんものね。正式なお名前だと、ルークヴァルト・フォン・ウイルフォード公爵閣下でいらっしゃいますわ」


「そうなのですね」


「奥様ももうセラフィーナ・ウィルフォード様になられたのですから、お間違いのないようにしてくださいね。社交の場でレイニーウッドの家名を名乗ってしまうといけませんから」


「そうね。ありがとうマリア。気をつけるわ」


 そうにっこり微笑み答える。

 ああでも、これでなんとかわたしの名前と旦那様の名前はわかった。

 ここはウィルフォード公爵家。

 そんなお貴族様の頂点のようなお家に嫁いできたっていうの?

 信じられないけど一応わたしの実家も貴族の一員だと言うことなのだろう。

 あいにくとこの国にどれだけの貴族がいるのだろうとか、そういった方面の知識はわたしの中にはまるっきし残っていなかったらしい。

 公爵様って言ったらものすごく偉い人。王様の次くらい。

 そんなくらいのイメージで。


 マリアが運んでくれた朝食をいただいて。

「ご馳走様、マリア」

 そう笑みを浮かべ言うと彼女、

「昼食はお部屋で摂られますか? できれば夕食は食堂で召し上がっていただけると助かります」

 と、食器を片付けながらこちらを覗き見る。

 その時は、夕食はお皿の数が多くなるから食堂の方がいいんだろうなぁくらいの気持ちで、

「わかりました」

 と頷いた。


「奥様の微笑みは心がやすまりますわ。それでは失礼いたします」

 マリアがそうにっこり微笑んでお部屋を出ていったあと、なんだかホッとして自然と笑みが溢れた。

 記憶がなくってもなんとかやれていることに、安心して。

 っていうか、なんとなくわたしはわたしだもの、そんな思いが先にたつ。

 記憶なんて些細なことだと思えるくらい、わたしは自分自身にそこまで悲壮感を持っていなかった。

 記憶喪失になったら、普通だったらこんなにも泰然としていられないかも、なんてふうにも思うけど、それでも「なんとかやって行けそう」だなんてお気楽に思えるくらいには。


 それに。


 心の中にあるマナが、騒ぐのだ。

 外に出して、って。


 この世界には魔法がある。


 人の心の中には魔力のもとであるマナを貯めておく場所がある。

 そして、そのマナを使って魔法を行使するための値。魔力特性値というものがあるのだ。

 って、記憶がないのにどうしてそんなことがわかるのかって?

 だって、感じるんだもの。

 自分の中にあるマナを。

 そしてそれに刺激されるように、そんな魔法の知識が頭の中に溢れてきたから。


 マナを貯めて置く場所をバケツに例えると、わたしのバケツはきっととっても大きくて。

 いっぱいのマナがそこに溜まっていて、今にも溢れそうになっている。

 そして。

 《ねえ、ちょうだいな》

 《そのあまーいマナ、ちょうだいな》

 そんなことを喋りながらわたしの周りをぷんぷん飛び回ってる光の粒のようなもの。

 あれは、キュア? アウラもいる? それに、ディンも。

 この世界でマナを物理的に魔法へと変換してくれる存在。ギアという名前の天使たち。

 マナをギアに与えることで通常の物理法則を凌駕する力を生み出すこと。

 それが魔法マギア

 そして、そんなギアたちと心を通じることができる値が魔力特性値という。

 当然、特性値が高ければ高いほどより高度な魔法マギアを行使できる。

 彼らはマナが大好きだから、あげると喜んでお仕事をしてくれる。

 それが魔法っていう現象として現れるわけ。


 わたしが自分自身についてなんとなく自信みたいなものを持っていられるのも、こんな自分の中にある魔法の力かもしれないなぁって。そう思うのだ。




 こんな状況に最初はちょっと怖くなったりもしたけれど、それでも絶望したりしなくて済んだのも。みんな魔法のおかげかなぁ。だなんてね。





 ♢ ♢ ♢



 朝食はコーンスープにスクランブルエッグ、それにベーコンとソーセージが添えてあるだけの簡素なものだったけど、とてもおいしかった。

 特にソーセージがパリッとしてジューシーで。

 親指くらいのサイズのが3本だったけど、もっと食べたいなって思うくらいだった。

 まあそんなことは言わずに我慢したけど。


 昼食は簡単にパンに野菜やベーコンを挟んだだけのもの。

 ドレッシングが美味しく、カリッとしたベーコンがアクセントになっていて食感がとても良かった。


 マリアは食事の時にしかお部屋に来てくれなかったけど、それでもたわいもない話をしながら楽しく過ごせた。


「すみません奥様。私、少し驚いているんですよ」


 お昼の食器を下げるときにそうこちらを覗き見るように話すマリア。


「お伺いしていた話とあまりにも違うものですから」


「え? どういうことなのです?」


「うーん、奥様は内向的であまりご自分からお話になることもない、と、そう聞いておりましたの」


「そう、だったのですか……」


「実際、昨夜こちらに到着したばかりの奥様は、下を向いて何もお話にならないご様子で……。こんなにも笑顔でお喋りくださるとは思っていなかったのです」


「印象、違いました?」


「私は今の奥様の方が好ましく思いますよ」


 そう微笑みながら答えるマリアに。

(なんだか好ましいな)

 だなんて、こちらもそんな印象を持って。

 仲良くできるといいなって思ったのだった。



 午後、窓から差し込む日差しがとても暖かくて気持ちよく。

 ソファーに腰掛けまどろみながら今後のことを考えていたわたし。

 本でもあれば、嬉しいな。

 着替えも、もうちょっと欲しいかも。

 贅沢は言わないから、もうほんの少しだけ、いろどりが欲しいなぁ。

 ってそんなふうに考えて。


 トランクにあった服は今着ているこれとあと洗いざらしの割と傷んだ薄っぺらいワンピースだけ。

 下着も替えが一枚あるだけ。

 とても貴族の令嬢の持ち物には思えないそんなものだけで。


(内向的って、わたし、そんな性格だったんだろうか?)

 今の自分からは信じられない。

(気弱な令嬢、っていうならこの服の趣味もわからないでもないけど)

(いかにもオーソドックスな古風なワンピース。薄緑のストライプだなんて、童話の中でしか観たことないわ)


 ふっとそんな考えが頭をよぎる。

 記憶はないのに。そんな知識だけが蘇る。


(ままよ。考えてたって解決しないもの。明日は街に出て色々見てまわってみよう)


 必要なものはセバスさんに言えばいい。

 そんなふうに旦那様はおっしゃったけれど、できればあんまり頼りたくはない。

 幸い、今日の様子を見る限り食事の時間にさえ部屋にいればそこまで何か言われることもなさそうだ。

(わたしの荷物でさえ何が入っているかも興味がなさそうな旦那様だもの。お金を持っているかどうかだって、知られていないに違いないわ)

 トランクの中身を知られていたら、さすがに今頃着替えの数着は必要だと思ってくれただろうに。いくらなんでもわたしの荷物はこのお屋敷にそぐわないもの。

 そんなふうにも思うのだ。

 だから。

 そこまで興味がないならないで、いっそほっておいてくれればいい。

 とりあえず今すぐここから追い出されることはなさそうだ。だったらあとは……。




 日が暮れた頃灯りを持ってきてくれたマリアに促されるまま廊下に出て食堂に向かう。

 ふかふかの絨毯で覆われた床はヒールの靴より裸足で歩いた方がきもちよさそうだなぁとかおもいながらマリアにひたすらついていったわたし。

 壁隅々まで複雑な彫刻が施された様子をながめながら、あらためてこのお屋敷の豪華さに驚いて。

 どこかのホールの入り口のような大きな扉を両端に立った衛士のような装いの人がおもむろに開くと、シャンデリアの灯りが煌々と照らす食堂というにはあまりにも豪勢なお部屋が現れた。

 まるでお城のダイニングホールだな。そんなふうに思いながら中に入ると中央の大きなテーブルの上座真ん中に旦那様が座ってらした。

(ああ、夕食はご一緒に頂くのね。少しは家族らしく扱ってくださるのかしら?)

 旦那様はわたしを一瞥すると、口もきくことなく手を振ってわたしに着座するように促す。


 大勢のメイドさんや侍従さんが周囲を取り囲む中、目の前の黒服の侍従さんがわたしが座るべき椅子をすっと引いてくれた。

(ああ、ここに座ればいいのね)

 元々10人以上が座れるような大きさのテーブルには白いクロスがかかっていて、奥の旦那様のちょうど対面の席にカトラリーが並べてある席がある。

「おはようございます旦那様」

 スカートの裾をつまみそう軽く会釈しながら旦那様に挨拶し、

「ありがとうございます」

 と、椅子を引いてくれた侍従さんにお礼を言って席に着く。

 するとそのままメイドさんたちの給仕が始まった。

 最初に出てきたのは浅めのお皿によそわれたコンソメスープ。

 具がいっさい入っていない、透き通った澄んだ琥珀色のそれ。光の加減では黄金色にも見える、宝石のような色合いで。

 小さく手を合わせいただきますと呟いてから、スプーンで掬って口にする。

「美味しい!」

 思わず声が漏れ出ていた。

 コクがあるのにすっきりとして、そのやさしい味わいが口の中いっぱいに膨らんでいく。

 雑味が全然なくってその旨味だけが凝縮されているようだ。

 わたしが思わず声を上げたことで旦那様がちらっとこちらを見た。

(ああ、お食事中にこんな声をあげてはしたなかったかしら)

 そう反省しつつごめんなさいって顔をして会釈する。

 旦那様はすぐに目を逸らしてしまったけど、しょうがないか。


 次に出てきたのはお魚のマリネ。

 さっぱりとした酸味がお魚にしみわたって。

 これも好みの味だ。

 添えてあるお野菜もとても美味しい。もうこれだけで晩御飯終わりでもいいなぁとか思ったけれど、並んでいるカトラリーからするとまだお食事が出てくるんだろうなぁと思っていたら、次はお肉料理だった。


 ナイフを入れるとすっと切れるくらいに柔らかいそれは、甘辛く濃厚なソースがとてもお肉に合っていて。

(美味しすぎてほっぺたが落ちそう)

 多分、わたしは始終ニコニコと微笑んでいたんじゃないかな。

 旦那様が驚いたようなお顔をしていらっしゃったから。

 きっと、はしたない女だなとか思われていたんだろうけどしょうがない。

 本当に美味しいお食事だったんだもの。


 食後のデザートは甘いパフェ。

 果物がいっぱい入ったそれもとても美味しくって。

 っていうか、もしかしてこのお料理やデザートって旦那様の好みで選ばれているんだろうか?

 だとしたら。

 なんだかとっても親近感。

 好きなもの好きなお味が一緒だなんて、なんだかとっても嬉しいな。

 そんなふうに思って。


 両手を合わせ「ご馳走様でした」と口に出すと、周りがちょっとだけざわつきすぐに静かになった。

 貴族らしくなかったのかな? そうも思うけどまあいいや。

「とても美味しかったです。ご馳走様でした」

 改めてそう笑顔を振り撒き旦那様や周囲の皆に挨拶すると、すくっと立ってそのまま一礼してお部屋に戻る。



「奥様は本当に美味しそうにお食事をなさいますねぇ」


 部屋に着くと、一緒についてきてくれたマリアがそうしみじみ言った。


「あら、だって本当に美味しかったのですもの」

「それはそれは。厨房の皆も喜んでおりますよ」

「ならよかった。ちょっとはしたないって思われてないか、心配していたんですよ。これでも」


 片目をとじちょっと小首を傾げて、ほおに手を当てる。


「入浴の準備をしてまいりますけれど、どうされますか? 大浴場もいつでもお使いいただけますよ?」


「ああ、それならお湯とタオルをいただける? 今夜はお部屋で身体を拭くだけにしておきますわ」


「わかりました。それでは少々お待ちくださいませ」


 そういって部屋を出ていくマリア。

 そうかお風呂があるのかぁ。

 大浴場っていう言葉にちょっと心が揺れたけど、今夜はその前に確かめておきたいこともあったから。

(お風呂に入ったら寝ちゃいそうですしね)

 さっき廊下から見たら月が昇り始めていた。それも満月? まんまるなお月様だったから。


 ワゴンにタライをのせあたたかいお湯を運んできてくれたマリアに、あとは自分でするからと帰ってもらい。

 まあせっかくのお湯だしと身体をさっと拭く。

 使い終わったお湯はワゴンごと廊下に出しておけばいいとマリアは言い残していった。

 あとは。

 多分、自由な時間のはず。




 だから……



 ♢ ♢ ♢


 窓から見えるまあるい月は、そろそろ天頂に掛かろうとしていた。

 街の灯りも落ち、人々は寝入った頃合い。

 お屋敷の中も静まり返り、働いている方たちももう寝入ったかな。

 それでも、衛士? そんな騎士姿の方達がまだあちらこちらを巡回しているっぽい。

 流石に公爵邸のお屋敷だ。普段から警備も万全、なのだろう。

 こっそりお外に行こうと思ってたけど、このまま普通に歩いてじゃちょっと無理。

 だけど、ね?


 わたしは宙に舞うアウラたちを集め希う。

(お願いアウラ。力を貸して)

 白銀の光の粒がより集まり白鳥の羽のような形になって、わたしの背中に二対の翼がふんわりと浮かぶ。

 ギアたちにはそれぞれ得意な特性がある。

 そんな中でもアウラは空間とか位置とかそんな属性を操るギアだから。

 風のアウラ。

 そんな名前でも呼ばれている。初級クラスでは風の魔法。中級クラスでは浮遊の魔法がその権能として行使できるのだ。

 若草色のストライプは結構目立つし、そうでなくともあれは人前で着れる一張羅だったからあまり汚したくもなかったし、もう一つの洗いざらしのワンピースに着替えてる。

 白、というかくすんだベージュのそのワンピースに、純白の二対の翼。わたしの髪もホワイトゴールドのストレートだったから、なんだか幽霊みたいにも見えなくはない。

 この格好で空に浮かんでいるところを見られても、まさかわたしだとは気が付かれないだろう。

 そう思うと結構大胆になれた。


 窓を開け放ち、空にふんわりと浮かぶ。

 騎士様たちはわたしに気がついてない、よね。

 それだけをさっと確認して、そのまま月に向かって飛んだ。


 月の降る夜は世界がマナで満たされる。

 満月の日はそんなマナの量がピークに達する。


 命の根幹。魂の素。力の源。

 マナがなければ生き物は生きていけない。

 だから、こんな満月の夜は世界が喜びで満たされるのだ。


 植物がその命の調べを謳い、動物は喜び駆け回る。

 人の耳には聞こえはしないけれど、そんな歌声の連鎖は彼らの成長の促進にも役に立っているのだった。



 空の上で両手を広げた。キラキラとした月の光と共にわたしの心の中にマナがいっぱい降り注いでくる。

 もういっぱいだったと思った心のバケツ、でもまだ余裕があるみたい。

 溢れてる分もあるけど、どんどんマナの総量が増えているのを感じて。


 ああ。気持ちいい。

 チカラが溢れてくるのを感じる。

 この感覚は絶対に経験があるはず。でも、記憶を失う前のわたしがこんな万能感を感じていたら、そんな内気な性格になるだろうか?

 そこが疑問。

 っていうか、わたしって本当にわたしだったの? 

 自分の中のマナを解放してみたくてここまできた。

 聞いた話の中の過去の自分と、今のこの自分がどうしても繋がらなくって。

 だから、実際に魔法を試してみたかった。

 知識だけではない本気のチカラを出してみたかったのだ。



 そのまま実際にいくつか魔法を使ってみたけど、全部、ちゃんと発動した。

 ふだん空間の隙間に隠れて住んでいるギアたちもどんどん姿を現して眩しいくらいに周囲を飛び回っている。

 わたしの中に降ってきた知識は知識だけじゃなくってちゃんと現実だった。

 でも、だとしたら……。

 いったいどういうことなんだろう……。


 わたしはいったい……。

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