回帰のターニングポイント

森本 晃次

第1話 昭和という時代

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年九月時点のものです。それ以降は未来のお話です。


 今を令和三年とすると、昭和四十年代前半というと、どれくらい前になるのだろう?

 昭和四十六年で、ちょうど五十年というところくらいだろうか。その頃子供だった人が、今ではちょうど還暦と言ったところであろうか、普通の会社であれば定年退職というくらいなのだが、その頃すでに仕事に勤しんでいた人は、そろそろ後期高齢者という扱いになる頃ではないだろうか。

 孫はおろか、人によっては曾孫がいてもおかしくはない年齢であり、少子高齢化が進む今では、元気でいて不思議のない年齢であろう。

 昭和四十年後半くらいに入ると、高度成長時代でもあり、ただ高度成長期と呼ばれる時代の末期でもあった。

 この頃になると、経済成長の弊害として発生した、「四日市ぜんそく」、「水俣病」、「イタイイタイ病」などと言った公害問題に世の中が悩まされる時期になっていた。

「光化学スモッグ」

 などという言葉も出てきて、特撮ドラマの中には、

「公害を宇宙人が利用して、公害から作った怪獣を、宇宙からきた正義のエージェントがやっつけてくれる」

 という話もあった。

 今から考えれば、

「公害から派生した怪獣を悪とするのではなく、本当は公害が悪でなければならない」

 というのが、本来のスローガンであるかのように思うのだが、特撮ドラマのテーマとしては、

「怪獣が生まれたのは、宇宙人が発達した科学力によって、公害を怪獣に育てるようなものを使い、作為的に怪獣を作ったのだが、元々公害などが発生しなければ、怪獣が生まれるという発想もなく、宇宙人が地球を侵略するにしても、もっと他の方法をとったことだろう」

 ということであり、

「公害を出してはいけない」

 ということに繋がってくるのだった。

 しかし、問題はテレビドラマだったので、公害問題を扱うということは、公害を発生させるための産業廃棄物が悪いということになり、産業廃棄物を出さないようにするためには、市場で売られているもののほとんどを否定する形になってしまう。

 これは、テレビドラマが、

「スポンサーありき」

 で作られていることに問題がある。

 食物にしても、インフラ関係にしても、家電や燃料に至るまで、スポンサーというのは、そのどれかに当たるものである。

 公害問題を扱うということは、スポンサーが宣伝して売り込みをかけているものを否定するという形になりかねないので、途中から、公害をテーマにするよりも、怪獣をテーマとして重きを置くことに変わっていったのだった。

 路線変更ということであるが、せっかく公害問題を扱うという新しい発想だったものが、怪獣に重きを置くようになると、せっかくのオリジナリティが乏しくなってくる。

 元々は、

「昨今の怪獣ブームに、今問題になっている公害をテーマとしてぶつければ、オリジナリティのある番組を作ることができる」

 というものであったのに、路線変更して、怪獣を最前線に出してしまうと、それまで製作された他の番組と変わらなくなり、オリジナリティがまったく発揮できなくなってしまうであろう。

 当時と今とでは、街の光景もまったく違っている。高層マンションなどもほとんどなく、大都市であっても、駅前などの中心部には住宅や店舗が密集しているが、少しでも離れると、そこには田園風景が広がっているというところも珍しくもなかった。

 鉄道の駅にいけば、自動改札などはほとんどなく、大都会の一部にあるくらいだった。

 駅員が改札のところに立っていて、切符を切るハサミを持っていた。実際にM字に切るタイプもあれば、小さな穴を開けるタイプもあった。電車が入ってくるまでは、暇を持て余している駅員が、カチャカチャと指で遊んでいたのを覚えている人も多いことだろう。

 今との一番の違いは、やはり、

「切符を買わずに利用できる」

 というところかも知れない。

 列車内は高級感が溢れていて、全車に冷暖房が入っている。それだけでもすごいのだが、昔の電車に比べて綺麗になったと感じている人がどれだけいるだろうか。その原因も、昔に比べての大きな違いなのだが、これだけ聞いて、昔と何が違うことで車内が綺麗になったかピンとくる人は、そんなにたくさんはいないだろう。

 正解は、

「禁煙になった」

 ということである。

 今でこそ、室内は自分の家でもない限り、タバコを吸ってはいけないということになっているが、昔は、ほとんどどこでもタバコが吸えたのだ。

 電車のホームはもちろん、社内でも、会社の事務所や会議室でも、下手をすれば、病院の病室でも吸えた時代があったのだ。

「喫煙ブース」

 などという言葉が今では言われているが、昔は逆に、

「禁煙車」

 ということで、禁煙が珍しかった。

 元々、嫌煙権というものが叫ばれ出して、電車が四両で走っていれば、最後部の車両だけは、

「禁煙車」

 ということになっていた。

 喫煙が当たり前の時代に、

「やっと禁煙が日の目を見るようになったのか」

 と言って、禁煙車の存在が本当にありがたかった。

 そもそも、大人のほとんどがタバコを吸っているという時代である。テレビドラマ、特に刑事ドラマなどでは、刑事が咥えタバコをしているのが、

「格好いい」

 と言われている時代で、歩きタバコをしながら、足元にタバコをおもむろに捨てて、それを足で揉み消すというシーンをマネする輩がいた時代だった。

 今だったら、

「何て、汚らしい」

 と言われるのだろうが、喫煙者が横行していた時代で、マナーもあったものではなかった。

 時代が昭和から平成に変わった頃から、禁煙車が目立つようになってきた。そしてちょうどこの頃に大きな問題となったのが、

「国営公社の民営化」

 だったのだ。

 国鉄がJRに、電電公社がNTTに、そして、専売公社が日本たばこ産業(JT)に変わった。

 それまでは、すべてが国のものであり、JRなどは、国鉄と呼ばれ、今のように地方によって別会社ではなかった。国鉄時代は、今では信じられないかも知れないが、国鉄職員には、素晴らしい恩恵があったのだ。

 それは、

「全国フリーパス」

 というものが国鉄職員には与えられ、そのパスを持っていれば、鉄道は乗り放題だったのだ。

 ただ、これにも階級制があり、全員がすべての路線に乗れるというものではなかった。逆にいえば、

「通勤定期をフリーパスにしただけ」

 とも言えるものであって、普通通勤手当というと、どこの会社でも会社持ちということなので、逆に経費を計上せずともm人数分、パスを用意して、支給すればいいだけのことであった。

 ただ、実際にそんなものが存在したということは事実であって、フリーパスという、

「職員乗車票」

 なるものがあったとうことであった。

 JRになり、高速鉄道が普及してくると、別の弊害も出てきた。やっとここ十年くらいの間で、鹿児島から北海道(函館)までという路線が繋がっているが、現在整備新幹線ということで、どんどん短い区間も新幹線で結ばれる可能性がある。

 九州でいえば、長崎ルートなどがその一つで、博多から長崎まで、特急列車でも二時間ちょっとくらいでいくのだから、新幹線にもなると、一時間くらいであろうか。

「乗ったと思ったら、すぐに終点」

 ということになりかねない。

 まだ路線としては、建設中だったりするのだろうが、特急列車の旅の醍醐味として昔から利用されてきた、食堂車もすでになく、ビュッフェもない列車もある。そして、車内販売もないとなると、

「旅の楽しみなど、皆無になってしまった」

 ということになるであろうか。

 確かに長崎ルートが開通すれば、到着までが、

「ただの昼休みと同じ時間だ」

 ということになれば、車内販売でお弁当を買っても、車内で食べる時間もない。

 食堂車もしかりで、頼んでから運ばれてきて、そこから食べ始めるのだから、せっかく席を取っていても、まったく意味がないということになりかねない。

「一時間なんて、通勤時間の方が長いくらいだ」

 ということになるだろう。

 そうなると、日帰り出張が増えるというのも当たり前のことなのかも知れない。

「朝、会社に通常で出勤し、そこから午前中のうちに、出張先に移動。昼から会議をして、夕方には終われば、そのまま直帰をしても、普段の出勤よりも早く家に帰りつくことができる」

 ということも、当たり前のようにあることだろう。

 子供の頃に新幹線に乗って、新逢坂から東京まで行っても、三時間近くはあった。これだけあれば、食堂車に行っても時間的にはおつりがくるというもので、食堂車から食事をしながら表を見るのが楽しみで、注文するものは、サンドイッチだったり、ミートソーススパゲティだったというのが、当時の子供ではなかっただろうか。

 いや、お子様ランチというのもまだまだ主流で、お子様ランチというと、、百貨店の大衆食堂というイメージがあるのは、偏見であろうか。

 当時の百貨店には、大衆食堂があった、いつ頃から見なくなったのだろう?

 そういえば、かつて列車の中にあった食堂車、駅の中のレストランなどは、日本食堂という会社がやっていたような気がする。

 調べてみると、どうやら国鉄民営化に伴い、各地域の鉄道会社が分割経営されることになり、いくつかの会社になり、存続しているところもあれば、すでに清算してしまったところもあるという。

 鉄道会社が、

「食堂車や者倍販売を中止」

 というのだから、それも仕方のないことだろう、

「いや、食堂会社の方の経営に無理があったのかな?」

 とも思えるほどで、実際に、食堂車というものや車内販売にどれだけの儲けがあったのか、よく分からない。

「列車が時短になったので、経営も滞ったのではないか?」

 と考える方が、余計な詮索をせずに済むのかも知れない。

 昭和四十年後半ともなると、すでにカラーテレビも普及してきた。

「一家に一台のテレビ」

 というのは、ほぼ当たり前の時代になってきたであろうか?

 さらに、時代は博覧会時代の幕開けと言ってもいい。そのさきがけとなったのが、

「一九七〇年のこんにちは~♪」

 で有名な、大阪万博が開かれた年であった。

「芸術は爆発だ」

 でおなじみの、岡本太郎先生の創作物である、

「太陽の塔」

 さらに、文明の利器として初めて登場したのが、

「動く歩道、ムービングウォーク」

 であった。

 世界各国のパビリオンが作られて、アメリカ館などでは、アポロが持ち帰ってきた、

「月の石」

 が展示されたりしていたのを懐かしく思う人もいるであろう。

 博覧会というと、その後、本土復帰の祝賀も込めて行われた、

「沖縄魁皇伯」

 さらに、大阪万博から十年後(正確には十一年後であったが)、神戸で開かれたポートピアなどが皮切りになって、その後、時代が平成に変わる前後、街中年代後半から九十年前半にかけて、未曽有の、

「博覧会ブーム」

 があったではないか。

「筑波のつくば科学博」

「大阪の花博」

「福岡のアジア太平洋博覧会」

「長崎の旅博」

 その他たくさんの博覧会が催されたのがこの時期だったのだ。

 そう、この時代には、一つ大きな転機があった。実際にはタイムラグがあったので、博覧会ブームに浮かれてる場合ではなかったのかも知れないが、転機になったのは、

「バブル経済とその崩壊」

 であった。

 実際に経済が潤っていた時代というのは、経済の基本である。

「モノを生産し、それを売って、対価を得る」

 ということで経済を回していたが、バブル経済というのは、その、

「モノの生産」

 という過程がなかった。

 例えば、土地に値段がつくのだが、

「所有者が、安い時に購入し、高値で販売すると、その分が儲かる」

 という考え方で、決して、モノの介在が経済の基本ではなくなっていた。

 したがって、モノというものがいらないのだから、資金さえあれば、いくらでも事業を拡大できる。

「拡大すればするほど儲かる」

 という仕掛けになっていたのだ。

 しかし、理論的に考えて、限りあるお金なのに、

「すべての人が公平に儲かる」

 などということはありえない。

「儲かる人がいれば、損をする人が出てくる」

 これが、プラマイゼロの発想ではないだろうか。

 それを考えると、バブルが弾けるのは当たり前のことで、そうなると、事業を拡大した分だけ、借金を抱え込むということになるのだ。

 しかも、そのあおりを食うのが、銀行を中心とした金融業で、何しろ銀行は、

「世間が事業を拡大しようというのだから、こちらもそれに乗っかって、乗り遅れないようにしないといけない」

 ということで、もちろん、前もって融資企業を調査くらいはするだろうが、表に出ている数字だけを見れば、儲かっているのは当然である。儲かっていない会社が、いくら事業を拡大したいち思ってもできるわけがないからだ。

 銀行はこぞって金を貸すが、相手の資金繰りがうまくいかなくなれば、当然資金が焦げ付いて、そのすべてが不良債権となってしまう。

 回収できるはずのない不良債権を抱え込んでしまうと、さすがに、

「銀行は絶対に潰れることはない」

 と言われていたとしても、ひとたまりもないだろう。

 バブル崩壊において、一番びっくりしたことで、世間の人がバブルからの夢が覚めた出来事としては、

「絶対に倒産しないと言われた銀行神話が崩壊したこと」

 だったのではないだろうか。

「まさか、銀行が倒産するなんて」

 と誰が思ったことだろう。

 その頃から、世間で、リストラという言葉が流行り出し、

「収入から利益が出せないのであれば、支出を抑えるしかない」

 ということで、一番企業としてお金が掛かる人件費の削減に着手する会社が増えてきた。

 それまでは、

「二十四時間戦えますか?」

 と言われて、過重労働が当たり前だったのに、バブル崩壊後は、残業をしてはいけないということになった。

 もっとも、拡大した分はすべて手を引いたのだから、雇い入れた人が余ってしまったのも当然で、リストラで人員整理をしても、残業をする必要はないくらいになっていたのだろう。

 その頃というのは、当時小学生だった人は、そろそろ就職活動をする頃であろうか。就職活動をしようにも、なかなかそれまで一定数の求人があったところが求人を控えるようになり、もっとひどいのは、内定が決まってから、首を斬るというものであった。完全な、

「買い手市場」

 である。

 しかし、その数年前というと、まったく逆だった。完全な売り手市場で、就職活動をすればするほど内定がもらえて、しかも、優秀な学生は手放したくないということで、あの手この手で、自分の会社に入ってもらうようにしたものだった。

 入社前に、

「海外研修」

 という名前の、

「観光旅行」

 をさせてもらったり、総務部長が、高級レストランで食事をし、高級ホテルに泊めてもらったりと、上げ膳据え膳でのもてなしだったのだ。

 二十年後に、東京五輪招致に成功し、

「おもてなし」

 などと言った言葉よりも前に、本当の「もてなし」が行われていたのだ。

 だが、入社してから数年で、バブルが弾けてしまった。会社ではリストラの嵐である。

 一番最初に狙われたのは、多くなってしまった中間管理職であった。中途半端な仕事に中途半端に高額収入を得ていると思われたのだろう。

 しかし、彼らの役目は、パイプ役であり、上下の関係の潤滑油としての役割が大きかったはずなのだ。

 それを理解せずに首を切ってしまうと、上層部の考えがまともに部下に伝わらず、仕事も遅延してしまうことも多かっただろう。

 そして次に狙われたのは、バブルの時期に入社してきた、若手社員だった

 ただでさえ、役に立つと考えて、たくさん入社させてきた。

 そして、何しろこの会社を辞めても、バブルの時期なら他の会社が引き抜くくらいに考えていたので、

「嫌な思いまでして、会社にとどまったりなんかしない」

 と思っていたことだろう。

 そのため、会社の方でも、

「いつ人が辞めてもいいように」

 ということで、予定数よりもたくさん採用していたはずだ

「どうせ、新規事業が始まれば、人はたくさんいるんだ」

 と考えてのことだったのだろうが、その人たちがそのまま、まるまる、

「邪魔になった」

 のである。

 それにしても、普通に考えて、実態のない経済が、長持ちするなどと、真剣に誰も疑わずにいたのだろうか?

 今までの歴史を振り返ってみれば、確かに高度成長時期には、所得が倍増したり、GNPが世界最大になったりしたのだが、その間に、ちょこちょことした不況もあったはずだ。

「これだけ好景気であれば、少々の波が来ても、今の日本ならびくともしない」

 とでも思っていたのか?

「好景気の後には不況あり」

 という言葉もあるではないか

 特需があれば、今度は買い渋りがある。消耗品だけで成り立っていれば、また消費もするだろうが、そうもいかない。何しろ実態のないものを回しているのだからである。

 そんな状態でバブルが弾けて、それまで神話とされてきた、

「銀行は絶対に潰れることはない」

 というはずだったものが、銀行が破綻したことで、世間もビックリしたわけである。

 そして、大きいところに吸収合併されることで生き残るしかなくなり、どんどん、企業が合併していく。

 銀行などは、合併した会社の名前をそのまま連ねているので、ただ長いだけの社名になってしまったりしているではないか。四つの銀行が一緒になったりしたが、システム統合がうまくいっていなかったので、致命的なシステム障害を一か月のうちに何度も起こすというお粗末なこともあったりした

「これが、天下の銀行というものか?」

 と、誰もが感じたことだろう。

 そんな昭和の時代を、今走馬灯のように、頭を巡らせている人がいる。医者の石橋肇であるが、彼が医者を目指そうと考えたのは、高度成長が終わってからのことであったが、高度成長の頃、まだ子供だった石橋は、あまり身体が強い方ではなかった。小学生の頃などはしょっちゅう、扁桃腺を腫らせては、いつも高熱を出して、学校を二、三日休んでいた。

 そんなことが、毎年数回あるのだから、本人にとっては結構大変なことだった。

 学校に行く途中にある小児科が馴染みで、いわゆる、

「かかりつけ医」

 であったのだ。

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