逆さに映る

森本 晃次

第1話 「近親相姦」考

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年九月時点のものです。それ以降は未来のお話です。今回は少し、タブー領域に入るかも知れませんが、あくまでも個人見解における妄想の世界だと思っていただければ幸いかと存じます。


 世の中には、性というものについて、いくつもタブーと言われているものがある。性行為の内容、性癖による犯罪への発展などを考えると、タブーと言われているものが、いかに問題を孕んでいるかということは、社会問題として真摯に受け取らなければいけない問題のであろう。

 ただ、昔からタブーと言われているものの中に、近親相姦と言われるものがある。ひょっとして、タブーの中で一番問題になっているものというのは、この近親相姦の問題ではないかと言われているのも事実であるが、では一体近親相姦の何が悪いのかということをハッキリと分かっている人が、果たしてどれだけいるのだろうかと考えた時、何と答えればいいのだろう?

 よく言われていることとして、

「近親相姦をしてできた子供は、生まれながらに障害を持っている子が生まれてくる確率が高い」

 という話を聞いたことがあるが、果たしてそうなのだろうか?

 いろいろ人に聞いたり、ネットで調べたりするが、そのあたりの科学的な根拠はないとも言われているようだ。

 だとすると、後考えられることとすれば、倫理的な問題ではないだろうか。

 しかも、その倫理というのは、宗教観に包まれたもので、

「近親間における性行為は、髪への冒涜だ」

 という意味のことなのであろう。

 ただ、歴史的に、近親相姦によって子孫を作ってきたという経緯もある。皇室においても、近親間においての出産もあったのではないかと思うし、その禁新刊という問題も、今の法律での結婚を定めている民法では、

「三親等以上でないと、結婚してはいけない」

 ということになっているが、もし、親子や兄弟の間で性行為が行われ、子供ができてしまったとして、その子を処分するわけにはいかないだろう。

 昔の探偵小説の中には、昔の

「家」

 というものを舞台に考えられた話もあるが、その中の犯行の動機になっていることとして、しばしば、近親相姦の問題が絡んでいたりする。

 自分たちが知らずに恋愛を育んでいたが、実は、自分たちの父親は一緒だったのだというようなことを知ったり、さらにもっとひどいこととして、男女どちらかの両親は、実は兄妹であり、しかも自分が好きになった相手とは父親が一緒だという、いわゆる二人の父親がいかに鬼畜であるかということが引き金になって、殺人に及ぶということも書いたりしていた。

 結婚しようと思っていた相手が、自分よりも先にその事実を知って、世を儚んで自殺を試みた。その本当の理由を知らないまま、幸せな結婚ができると思っていた主人公は、いきなり天国から地獄に叩き落され、しかも、調べてみると、自分が

「呪われた子供だ」

 として、これから生きていかなければならないと分かった時、それが復讐として、殺人の動機として成り立ってしまうのも当然であろう。

 きっと、主人公は、探偵に事件を解決されなくとも、最初から自殺をするつもりだったのだろう。

 世を儚んでいるのだから、

「早く、愛する人のそばに行って、自分がいかに復讐のために頑張ったのかということを報告したい」

 ということである。

 だが、小説というものは、その観点をどのように読者に伝えているというのだろう?

 まずは、

「近親相姦という許しがたい罪がもたえあした偶然による悲劇」

 これが、小説の「起」の部分である。

 そして、その悲劇が分かったことで、人知れず、自分の愛している人が、自殺をする。もちろん、自殺など日常茶飯事の時代であれば、別にいちいちそのうちの一つだということで、誰からも気にされないだろう。しかし、その人を愛してて、一緒に幸せになろうと思っていた人にとって、これは本当に、

「自殺されたことは悲しいが、これから立ち直って、頑張って生きていくんだ」

 と、簡単に割り切れるものではないだろう。

「時が解決してくれる」

 という人もいるだろうが、それこそ、他人事であり、人から言われると、それだけのことで済まされるのが腹が立つことだったりする。

 時が解決してくれるとしても、一体どれだけの時間が必要なのか。

「一か月? それとも半年?」

 解決するには、個人差があるだろう。

 それに、時が解決すると言っても、結局は本人がいかに開き直れるかということに尽きるのであって、

「目の前のことがまったく分からない」

 というのが本音であり、自分の中では、

「半年もすれば、解決できるはずだと思う」

 と感じていても、半年が近づくにしたがって、

「まったく、解決の光が見えない」

 と思っていても、気が付けば、、いつの間にか、解決するだけのパワーを持った開き直りができているかも知れない。

 開き直りのパワーとは、誰から与えられるものでもない。自分で解決するしかないもので、いかに人からアドバイスを受けようとも、言い方は悪いが、気休めでしかないのだ。

 ただ、気休めが必要な時は、

「自分で解決しよう」

 と思っている人には、絶対に必要なものである。

 寂しさがピークになった時、人の温かさが身に染みることがある。

 普段は、まわりの人の意見であったり、忠告を鬱陶しいと思っている人でも、この瞬間は、

「人間やっぱり、誰かを頼りにすることで、生きているという実感を感じられる時というのが絶対にあるんだ」

 と感じるのではないかと思っている。

「自分は人間きらいだ」

 と言っている人ほど、そのことがよく分かるようで、普段は嫌いなだけに、自分でもどうしてそんな気分になるのか、ある意味怖いくらいであった。

 だが、感じたことは紛れもない事実だ。

「一つしかない事実」

 ということを感じたのだとすれば、そこに勘違いや間違いというものはないのではないだろうか。

 そんな犯人は復讐を企てる。自分が知らなかったとはいえ、自分は、近親相姦というタブーで生まれた子供だ。血が濃くなってしまうというのは、呪いに匹敵することで、まるで鬼畜のごとき行為であり、決して許されることではない。

 という理屈だけを胸に秘め、自分が悪魔の子だとでも思うような自虐的な繁盛だけが、生きる糧だったのだろう。

 そして、生きるには糧だけではなく、生きている意味を自分で分かっていなければ、生きていくことなどできないのだと、絶望に苛まれ、自虐でしか生きることができなくなったことの怒りは、復讐で埋めるしかないではないか。

「私は一体誰に復讐すればいいのか?」

 と、考える。

 父親なのか、母親なのか。自分が兄妹である両親から生まれたことが、生まれてきた瞬間から悪夢が始まり、間違った世界が広がってきた。

 つまりは、

「自分は生れてきてはいけない存在」

 であり、愛し合った人と結婚すると、自分たちがまた、同じ鬼畜になってしまうということになるのだった。

 両親との違いとしては、

「自分たちは知らなかった」

 ということだけである。

 確かに知らなかったということには違いないだろう。だが、知ってしまった以上、ここから先は、同じである。

 確かに両親は、兄である父親の欲望が引き起こした悪夢ではあったが、母親も、堕胎することもなく、産み落としたことに罪はないのだろうか?

 確かに、堕胎という行為は、殺人罪だという考えもある。近親相姦を、

「悪いことだ」

 としている連中の考え方で図れば、堕胎は同じくらいの罪であろう。

 しかし、生まれてきてから、すでに他の子供とスタートラインから不利である状態なのだから、この先、どうやっても、彼らの先に行くことはおろか、並ぶことすらできないのである。

 昔であれば、人知れず、

「悪魔の子」

 として、葬られた事実があるという近親相姦による子供である。

 探偵小説の犯行の動機としては、復讐を企てるには、相応の動機であったりもするだろう。

「俺たちは生れてきてはいけなかったんだ」

 と言って、何度嘆いたことだろう。こんな自分を、一時の快楽だけで産み落とした両親を道連れに、自分もこの世から抹殺するくらいの気持ちだったのだ。

 実は、犯人の本当の最終的な目的は、

「自分の抹殺」

 であった。

 両親への復讐は当たり前のこととして、自分の中での復讐の正当性は、

「俺が生まれてきてはいけない子供だった」

 ということである。

 その思いがあるから、

「親はそんな子供である自分から殺されるべきなんだ」

 という理屈が生まれ、親を殺す正当性に結び付いてくる。

 ただ、その前提には、

「自分が悪魔の子であり、生きていてはいけない」

 という思いがあるからで、それを思い知らせる必要があるのだ。

 悪魔というものは、皆の心に住んでいる。住んでいてくればければ、自分が殺人を犯しても、それが教訓にはならないからだ。

 別に自分は聖人君子ではない。ただの悪魔の子なのだから、教訓などというのはおこがましいが、それでも、人を殺そうとするのに、理由が必要なのは、同じであった。

 それは自分を殺すことに対しても同じことで、この犯人の場合は。

「自分を抹殺するために、両親も殺す必要がある」

 という思いもあった。

 もちろん、好きになった相手である妹の復讐というのが、一番の動機であったが、それはあくまでも、

「両親を殺す」

 という動機であって、それは初期のことであった。

 途中から、両親を殺す意義に、彼女の復讐ということを天秤に架けてみると、復讐心というものが、別のところに波及しているかのようで、殺すための意義が薄れていき、

「このままだと、両親を殺すという気持ちに整理がつかなくなって、ずっと自分の気持ちが彷徨ってしまい、自分への決着もつけられなくなる」

 と感じたことで、殺害の気持ちが躊躇に変わり、最終的に自分が生きている意味が分からなくなってしまう。

 新たに何かの意義を見つけることで、

「こうなったら、最終目的から、強引にその理由を見出すしかない」

 という風に感じた。

 自分にとっての最終目的というのは、

「自分で自分を抹殺すること」

 であった。

 復讐を遂げたことを彼女に報告するのが、その意義だったのだが、どうも違っている。

「自分で自分に決着をつける」

 ということが、すべてではないだろうか。

 ただ、

「死んでしまったら、すべてが終わりだ」

 ということは分かっていたが、その本当の意味を分かっていなかったのかも知れない。

 近親相姦の話ばかりを読んでいると、感覚がマヒしてくる。そして、

「近親相姦は悪いことだ」

 という感覚を植え付けられるのだ。

 しかも感覚がマヒしてしまっているから、この、悪いというイメージがこびりついてしまっているのだ。感覚がマヒしてしまうと、疑うという気持ちがマヒしてしまっているということを表しているのだろう。

 ただ、人間は、年齢を重ねると、

「性格は変わらないが、性質は変わることがある」

 と言われることがあった。

 性質としては、食事などで、飽きが来やすいかどうかということであった。

「子供の頃は、大好きなメニューは、数か月続けても飽きがこない。半年くらい続けても、まだ食べたいと思うが、大人になるにつれて、すぐに飽きるようになり、どんなに好きでも、数回続ければ、もう見るのも嫌だ」

 と思うくらいになっていたのだ。

 そういう意識が性欲にも出てきたような気がした。

 二十代前半までは、好きな女の子であれば、毎日でもセックスをしてもいいくらいで、「一日に何度でもできるくらいだ」

 と、思っていたが、そのうちに、飽きが来るようになってきた。

 そのせいもあって、二十代後半くらいになると、それまで女性をフッたことがなかったはずなのに、その頃になると、気が付けば、急に態度が変わってしまっていたようで、

「私のことを嫌いになった?」

 と言われて、ショックを受けたことがあった。

「そんなことはないよ」

 と言っていたが、自分でもなぜ相手にそんな風に言われるのか分からなかったし、もちろん、飽きっぽくなっていることにも気づかなかった。

 それが、感覚がマヒしてしまっている証拠だろう。

 しかし、別の女性を思うと、身体が必要以上に反応する。

 二十代前半までは、

「好きな相手ができれば、他にどんなに可愛い人がいたとしても、意識はしない」

 というのは、きっと、好きな人ということであればあるほど、感覚がマヒしてしまっているのではないかと思うのだ。

 確かに、いくら気持ちがいいことであっても、同じことを長く続けていると、気持ちよさの感覚がマヒすると、敏感すぎて、それが嫌いな感覚になってしまう。

 だから、好きになった気持ちは変わらないのだが、それ以上に身体あ瓶間になり、まったく興奮しなくなるのだ。

 相手を満足させることができなくなり、相手も自分のことを好きになってくれたことに喜びを感じているのに、身体が反応しないことに対して、相手は、

「私のことを嫌いになったのかしら?」

 という疑心暗鬼にさせられる。

 態度も嫌いになったという態度であれば、

「私のことを嫌いになったのなら、もういいわよ、私の方か願い下げだわ」

 と言って、意地になることができるのに、相手は今まで通りに優しく接してくれているのに、その態度がいかに身体と精神でのギャップを感じさせるかということを感じると、中途半端な気持ちになり、疑心暗鬼がそのまま、すれ違いで終わるという、消化不良の関係で終わってしまう。

 それを解消するには、

「女性とは浅く広くがいいんだ」

 という感覚で、

「好きになったから、抱きたいのであって、飽きる前に、いいタイミングで離れる」

 というのを繰り返すのが、今の年齢の自分なのではないだろうか?

 そんなことを考えているこの男は、名前を大村彰浩という。彼は、もうすぐ三十歳になろうとしているが、若い頃から女性からモテていた。イケメンという雰囲気ではないのだが、彼の佇まいが優しくみえたり、癒しを感じさせたりするのだろう。

 そういう意味では、

「俺って得な性格なんじゃないだろうか?」

 と思っていた時期もあった。

 だから、女性をとっかえひっかえする性格であっても、女性から、やっかみを受けることはなかった。ただ、男性からは女性の分までやっかみを受けるのだが、

「どうせ、男性なんかどうでもいいので、気にならない」

 と言っていた。

 それでも、女子は自分の思い通りに接してくれている。

「俺って、そんなに女の子から気を遣われるタイプなんだろうか?」

 とも思ったが、考えてみれば、女性の方も、同じように、

「そんなに男性に依存ばかりするようなことはしない」

 と思っている人だけが集まってくると思えば、別に自分に気を遣ってくれたり、それでも自分のことが好きだというほど、都合よく考えられるわけではなかった。

 そんな時にでも、さすがに不特定多数というのは、男としてのプライドが傷つけられるような気がして、最初こそ、不特定多数の女性を相手にしてみたが、その中から、身体の相性が合っている人であったり、一緒にいて、癒しを感じさせてくれる人であるとか、今までなら、絶対に付き合っていたなどと思える人を数院ピックアップして、彼女たちと複数において付き合うことにした。

 中には自分の性格について一切話をしない人もいるが、逆に、自分の考えをすべて曝け出し、相手に分かってもらおうと思った相手もいた。

 もし、それで分かってもらえないとすれば、その人を好きになるということはないだろう。それを思うと、相当、割り切った付き合いを女性たちとはしようと思っているのであった。

 お互いにそんな関係でいられたのは、やはり自分が自分に合う人を引き付けるだけの才能のようなものを持っているからではないかというような、本当に都合のいい考えができたからではないだろうか。

 自惚れであっても、その自惚れのせいで、何か問題が起こったわけではない、却っていいように回ってくれたことが、今後も自分の考えが間違っていなかったということを証明しているようでよかったと思っている。

 そんな女性たちとの関係が三年以上続いた。

 最初は、

「三年なんて気が遠くなるような時間」

 と、三年間をまるで、宇宙にでも飛び出したかのくらいに感じていたのに、三年が近づいてきた頃には、当着地点が近づいてきたかのように感じられ、これまでの道のりが、まるでそこらへんだったくらいにしか感じなかったのだ。

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 という言葉があるが、まさにその通りであろう。

 三年で終わりだということが、その時に分かったはずはないので、きっと、三年が経って、終わりに気づいた時、目の前まで来ていた時に、ゴールが見えていたかのような感覚に陥ったことを、自分で感じたのだろう。

 それを証明してくれたのが、彼女たちであった。

「私、今度会社を辞めて、田舎に帰ろうと思うの」

 と最初に一人の女の子が言い出したことを皮切りに、他の子も、微妙に違う理由で自分から離れていった。

 まるで、三人が示し合わせたようなタイミングだったことが、少し癪に障ったが、タイミング的には本当によかったのだろう。最初の彼女が田舎に帰るという理由を聞いた時、

「元々、三十歳までに結婚できなかったり、仕事でも何かの形を示さなかったりした時は、田舎に帰ってお見合いでもして結婚するという約束だったのよ」

 ということであった。

「あなたには、私と結婚してくれるという感じはないし、お互いに別れるタイミングさえ間違いなければ、蟠りなく別れられるということを考えると、私は、あなたとお付き合いできたことを嬉しく思うわ」

 と言っていた。

 彰浩は、彼女は自分以外にも他に男がいると思っていた。そうでもなければ、その気もない男と付き合っていくのに、自分が利用されているように思えて、我慢できない、あるいは、プライドが許さないという思いに至るだろうと思ったのだった。

 だが、彼女は彰浩が思っているほど、強かな性格ではなく、自分が好きになった人には従順な性格の、普通の女の子だったのだ。

 そんな女性がタイプで、本当なら好きだったはずなのに、彼女に対しては、

「恋愛対象としてというよりも、結婚相手として見てしまうタイプなのかも知れない」

 と感じたのだ。

 逆にそんな彼女だったからこそ、普段なら分かるはずのない終焉に時期を、想像できたのかも知れない。

「もし、これが真剣に結婚を考えている時期だったら、よかったのかも知れない」

 と思ったが、やはり、彰浩には、彼女は結婚相手というよりも、恋愛相手としか見えなかった。

 だから、彼女を最初に好きになったのだし、三年という期間が彼女との期間だということが分かったのではないかと感じたのだ。

 他に三人の女性を好きになり、付き合っていたのだが、後の三人においても、最初に好きになった彼女に対してと同じように、もっと強かだと思っていたのに、皆それぞれ、純粋で、その純粋ま気持ちの上で、彰浩を愛してくれているということが分かると、彼女たちがこれから、自分自身のために生きていくという選択をするのだとすれば、それは嬉しいことであった。

 その気持ちをいかに自分なりに表しているかということを考えると、この恋愛期間について、

「三年間だったんだ」

 と感じたことに、正直な気持ちでの信憑性が高いということなのだろうと、感じたのだった。

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