帝一の口から妥協という言葉をわたくしが初めて聞いたのは、わたくしが中学二年生の時だった。

 わたくしが小学四年生の時に出会った帝一は、まだ不知火家の神童と呼ばれており、常に何をしても超一流。常に最高の結果を求め続けていた。

 だからわたくしは、そんな帝一の事が嫌いだったのだ。

 常に完璧以上を求める。その姿勢は周りの大人達にとって、称賛すべき姿勢だったのかもしれない。でもその姿勢は、その生き方は、時として一緒にいる人の息を詰まらせる。

 ……許嫁のわたくしの前でも、完璧で居続けるつもりですの?

 あの時の帝一は、わたくしにはこう見えていた。

 彼は、必死で両親の決めた婚約を、完璧にこなそうとしている。

 彼は、許嫁のわたくしに対しても、完璧以上に振る舞おうとしている。

 ……完璧という仮面を被って、そのままわたくしに、素顔を見せないつもりですの?

 わたくし自身を、帝一が求める完璧を構成するための一要素として、帝一の周りを満足させる道具として扱われているように思えて、それが嫌で仕方がなかった。

 だからわたくしは、帝一の事が嫌いだった。

 だからわたくしは、帝一に冷たく接した。

 わたくしが冷たく接すれば接するほど、帝一は狼狽し、より完璧を求め、それが原因で余計にわたくしの態度が硬化する。負のスパイラルだ。

 だから、彼と会う頻度は減らしていた。しかし二人の関係上、全く会わないというわけにはいかない。

 久々に帝一と会った時、彼はもう中学一年生になっていた。

 ……なんだか、雰囲気が変わりましたわね。

 小学生から中学生になったからだろうか? テーブル越しに紅茶の香りを楽しむ帝一は、なんだか少し、大人びて見えた。余裕というか、今この時を楽しんでいるように見える。

 ……なんだか、今日は少し、熱っぽいですわね。

 自分の頬が少し熱を持っているのは、日差しが注ぐテラス席のせいだろう。

 そう思い、カップを手に取ると――

「……これ、ダージリンですわね」

「その通りです。よくわかりましたね」

 優雅に笑う帝一に、わたくしはいつものように、険のある声を上げる。

「……どうして、ダージリンですの?」

「と、言いますと?」

 帝一が、小首をかしげる。そんな彼に、わたくしは言い放った。

「わたくし、今日はアッサムの気分なのです。帝一。貴方、わたくしの婚約者なのに、わたくしの事を全然わかってくださらないのですね」

 そう言ってわたくしは、カップを乱暴にソーサーの上に置いた。

 完璧を求める帝一は、出来ていない、わかっていない、という指摘に、面白い程過剰反応を示す。何か足りていない事が彼にとって、不安で、許せないのだ。

 だからきっと、今も帝一はすぐに慌てると、そう思った。

 ……学年が変わった所で、早々人間の本質が変わる事なんて、ありえませんもの。

 そう高をくくり、わたくしは帝一を一瞥する。だが――

「……何故、アッサムをご所望で?」

 テーブルひ肘をつき、こちらの瞳を覗き込むような帝一の姿が、そこにはあった。

 ……な、何でそんなに堂々としてますのっ!

 内心焦りながら、わたくしは口を開く。

「婚約者の癖に、そんな事もわかりませんの?」

「生憎、女性の機微には疎いのです。よろしければ、アッサムを飲まれたい理由をお聞かせ頂けると、嬉しいのですが」

「……いいでしょう」

 わたくしは咳払いをすると、背筋を伸ばして、こう言った。

「ミルクティーですわ」

 帝一がわたくしの言葉を、繰り返す。

「ミルクティー?」

「ええ。濃厚な味わいのアッサムなら、後からミルクを入れても、風味も落ちません。わたくし、ミルクティーを飲みたいのです。ですので、ストレートティーで楽しむべきダージリンより、アッサムを飲みたいのですわ」

「……なるほど。ロイヤルミルクティーではなく、ミルクティーを」

 そう言った後、帝一は右手の人差指を立てて、わたくしの瞳を見つめる。

「では、最後にもう一つ。ミルクは先にカップに注ぐのではなく、紅茶を入れた後にミルクを入れる方がお好みで?」

 わたくしは少しだけ考えた後、口を開いた。

「絶対後入れじゃないと嫌だ、というわけではありませんが、どちらかと言えば、ミルクは後入れ派ですわね」

 わたくしの答えを聞いた帝一は、ふむ、と言って、控えている従者を呼んだ。男性の従者が帝一の傍に行き、二、三言、言葉を交わす。

 従者が一礼して下がると、帝一はわたくしの方を見て、こう言った。

「二流上等、一流重畳」

「……何ですの?」

「少し、時間を頂けるかな?」

 帝一はそう言うが、すぐに先程の従者が戻ってきた。手にしたトレーに乗っているのは、お湯の入ったポットに、ティーポット、カップと茶こしにスプーン。そして蒸らしに使うカバーに、ミルクジャグと、茶葉が詰まった缶、そして角砂糖が入った瓶。

 まさか……。

「帝一自ら、紅茶を入れますの?」

 ふむ、と彼は小さく頷く。それを見て、わたくしは拍子抜けした。

 ……不知火家当主の孫である帝一自ら紅茶を振る舞った所で、今更ですわ。

 わたくしが求めていたアッサムを最初から用意できなかった事を、それで穴埋め出来ると思っているのであれば、それは業腹というものである。

 ……その程度で貴方の求める完璧になると思ったら、わたくしが満足すると思ったら、大間違いですわよ!

 そう思っている間に、帝一は流れるような動作で、準備を進めていた。

 湯通ししていたティーポットからお湯を取り除き、帝一は温めていたティーポットへ茶葉を入れて、お湯を注いで蓋をする。その上にカバーをかけて、茶葉を蒸らした。

 茶葉を蒸らしている間に、こちらも湯通しを済ませたカップをテーブルに並べ、帝一はミルクと砂糖をわたくしの前に並べる。

「帝一は、ストレートですの?」

「その方が、お茶請けの甘味を感じられるので。ミルクは自分で入れますか?」

 そう言いながら、帝一は蒸らしカバーを外して、ティーポットの蓋を開け、スプーンでひとかき。そして茶こしを使って、カップへ紅茶を注いでいく。

「……せっかくですから、帝一にお願いいたしますわ」

 ふむ、と言って、帝一はカップにミルクを注ぐ。そしてそれを、わたくしの方へと差し出した。

「お口にあうといいのですが」

「……言っておきますが、今更アッサムのミルクティーを出された所で――」

 カップを持ってから、気がついた。ミルクが混ざっているため気づくのが遅れたが、これは――

「そう、アッサムではなく、ダージリンのミルクティーです」

「馬鹿にしてますのっ!」

 一口も飲まずにカップごと放り捨ててやろうと思ったが、帝一の見たこともない程の真剣な目が、わたくしにそれを思いとどまらせる。怒っているせいか、心臓の音がうるさい。

「罵倒は、一口でも飲まれた後に」

「……ふんっ!」

 ならば、お望み通り一口飲んだ後に罵詈雑言をぶつけてやろうと、わたくしはカップを口にした。そしてその後、自然に言葉が零れ落ちる。

「え、美味しい……」

「オータムナルです」

「え?」

 帝一はティーポットから自分用にカップへダージリンを注ぐと、それを手に取り、香りを嗅いだ。

「ダージリンは、春、夏、秋と三回旬の季節があります。そして、季節によって楽しめる味や香りが違います」

 帝一は自分の入れた紅茶で唇を湿らせた後、滑らかに口を開いた。

「春摘みの茶葉(ストレートフラッシュ)は、味も癖がなく、香りも爽やかです。夏摘みの茶葉(セカンドフラッシュ)は、マスカットフレーバーと呼ばれる香りと甘味が特徴的です。これら二つは、ストレートティーで香りと味を楽しむのが一般的でしょう。ですが、秋摘みの茶葉(オータムナル)は、違います」

「……何が違いますの?」

「茶葉が、雨期を越えているのです」

 わたくしは知らず識らずのうちに、帝一の言葉に聞き入っていた。早く次の彼の言葉が聞きたくて、思わず身を乗り出す。

 そんなわたくしに、帝一は応えてくれた。

「雨期の後の乾燥期には、茶葉が厚くなります。その結果、紅茶の味は濃くなり、更に渋みも増すのです。そのため、ダージリンの中で、オータムナルだけは、ミルクティーでも負けない風味を持っているのです」

 そう言って帝一は、わたくしにもう一口ミルクティーを飲むように促す。進められるままに口に含むと、ダージリンの芳醇な味わいがミクルと絡まり、深い甘みとコクが口いっぱいに広がった。

 その味に、ほっと一息ついていると、帝一が自然に傍までやってきて、わたくしの髪を触る。あまりにも自然な動作だったので、わたくしも違和感なく彼の行動を受け入れていた。

「ここが、落とし所、ということで、いかがです?」

「な、何がですの?」

 わたくしの髪を弄ぶ帝一が、蠱惑的に笑う。

「俺自ら、紅茶を入れた。そして、あなたが満足できるレベルのミルクティーの味を、ダージリンで用意できた」

 彼の手が更に髪を押し分けていき、わたくしの頭を撫でる。わたくしは手にしたカップを、両手で握りしめるように持っていた。

「アッサムではなく、ダージリンのこの味で妥協して欲しい。どうだ? 彩」

「は、はい……」

 初めて名前を呼び捨てにされたことと、初めて頭を撫でられたことと、彼が初めて入れてくれたミルクティーの味に、わたくしは思わず、赤面しながら、そう言ってしまったのだった。

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