④
帝一の口から妥協という言葉をわたくしが初めて聞いたのは、わたくしが中学二年生の時だった。
わたくしが小学四年生の時に出会った帝一は、まだ不知火家の神童と呼ばれており、常に何をしても超一流。常に最高の結果を求め続けていた。
だからわたくしは、そんな帝一の事が嫌いだったのだ。
常に完璧以上を求める。その姿勢は周りの大人達にとって、称賛すべき姿勢だったのかもしれない。でもその姿勢は、その生き方は、時として一緒にいる人の息を詰まらせる。
……許嫁のわたくしの前でも、完璧で居続けるつもりですの?
あの時の帝一は、わたくしにはこう見えていた。
彼は、必死で両親の決めた婚約を、完璧にこなそうとしている。
彼は、許嫁のわたくしに対しても、完璧以上に振る舞おうとしている。
……完璧という仮面を被って、そのままわたくしに、素顔を見せないつもりですの?
わたくし自身を、帝一が求める完璧を構成するための一要素として、帝一の周りを満足させる道具として扱われているように思えて、それが嫌で仕方がなかった。
だからわたくしは、帝一の事が嫌いだった。
だからわたくしは、帝一に冷たく接した。
わたくしが冷たく接すれば接するほど、帝一は狼狽し、より完璧を求め、それが原因で余計にわたくしの態度が硬化する。負のスパイラルだ。
だから、彼と会う頻度は減らしていた。しかし二人の関係上、全く会わないというわけにはいかない。
久々に帝一と会った時、彼はもう中学一年生になっていた。
……なんだか、雰囲気が変わりましたわね。
小学生から中学生になったからだろうか? テーブル越しに紅茶の香りを楽しむ帝一は、なんだか少し、大人びて見えた。余裕というか、今この時を楽しんでいるように見える。
……なんだか、今日は少し、熱っぽいですわね。
自分の頬が少し熱を持っているのは、日差しが注ぐテラス席のせいだろう。
そう思い、カップを手に取ると――
「……これ、ダージリンですわね」
「その通りです。よくわかりましたね」
優雅に笑う帝一に、わたくしはいつものように、険のある声を上げる。
「……どうして、ダージリンですの?」
「と、言いますと?」
帝一が、小首をかしげる。そんな彼に、わたくしは言い放った。
「わたくし、今日はアッサムの気分なのです。帝一。貴方、わたくしの婚約者なのに、わたくしの事を全然わかってくださらないのですね」
そう言ってわたくしは、カップを乱暴にソーサーの上に置いた。
完璧を求める帝一は、出来ていない、わかっていない、という指摘に、面白い程過剰反応を示す。何か足りていない事が彼にとって、不安で、許せないのだ。
だからきっと、今も帝一はすぐに慌てると、そう思った。
……学年が変わった所で、早々人間の本質が変わる事なんて、ありえませんもの。
そう高をくくり、わたくしは帝一を一瞥する。だが――
「……何故、アッサムをご所望で?」
テーブルひ肘をつき、こちらの瞳を覗き込むような帝一の姿が、そこにはあった。
……な、何でそんなに堂々としてますのっ!
内心焦りながら、わたくしは口を開く。
「婚約者の癖に、そんな事もわかりませんの?」
「生憎、女性の機微には疎いのです。よろしければ、アッサムを飲まれたい理由をお聞かせ頂けると、嬉しいのですが」
「……いいでしょう」
わたくしは咳払いをすると、背筋を伸ばして、こう言った。
「ミルクティーですわ」
帝一がわたくしの言葉を、繰り返す。
「ミルクティー?」
「ええ。濃厚な味わいのアッサムなら、後からミルクを入れても、風味も落ちません。わたくし、ミルクティーを飲みたいのです。ですので、ストレートティーで楽しむべきダージリンより、アッサムを飲みたいのですわ」
「……なるほど。ロイヤルミルクティーではなく、ミルクティーを」
そう言った後、帝一は右手の人差指を立てて、わたくしの瞳を見つめる。
「では、最後にもう一つ。ミルクは先にカップに注ぐのではなく、紅茶を入れた後にミルクを入れる方がお好みで?」
わたくしは少しだけ考えた後、口を開いた。
「絶対後入れじゃないと嫌だ、というわけではありませんが、どちらかと言えば、ミルクは後入れ派ですわね」
わたくしの答えを聞いた帝一は、ふむ、と言って、控えている従者を呼んだ。男性の従者が帝一の傍に行き、二、三言、言葉を交わす。
従者が一礼して下がると、帝一はわたくしの方を見て、こう言った。
「二流上等、一流重畳」
「……何ですの?」
「少し、時間を頂けるかな?」
帝一はそう言うが、すぐに先程の従者が戻ってきた。手にしたトレーに乗っているのは、お湯の入ったポットに、ティーポット、カップと茶こしにスプーン。そして蒸らしに使うカバーに、ミルクジャグと、茶葉が詰まった缶、そして角砂糖が入った瓶。
まさか……。
「帝一自ら、紅茶を入れますの?」
ふむ、と彼は小さく頷く。それを見て、わたくしは拍子抜けした。
……不知火家当主の孫である帝一自ら紅茶を振る舞った所で、今更ですわ。
わたくしが求めていたアッサムを最初から用意できなかった事を、それで穴埋め出来ると思っているのであれば、それは業腹というものである。
……その程度で貴方の求める完璧になると思ったら、わたくしが満足すると思ったら、大間違いですわよ!
そう思っている間に、帝一は流れるような動作で、準備を進めていた。
湯通ししていたティーポットからお湯を取り除き、帝一は温めていたティーポットへ茶葉を入れて、お湯を注いで蓋をする。その上にカバーをかけて、茶葉を蒸らした。
茶葉を蒸らしている間に、こちらも湯通しを済ませたカップをテーブルに並べ、帝一はミルクと砂糖をわたくしの前に並べる。
「帝一は、ストレートですの?」
「その方が、お茶請けの甘味を感じられるので。ミルクは自分で入れますか?」
そう言いながら、帝一は蒸らしカバーを外して、ティーポットの蓋を開け、スプーンでひとかき。そして茶こしを使って、カップへ紅茶を注いでいく。
「……せっかくですから、帝一にお願いいたしますわ」
ふむ、と言って、帝一はカップにミルクを注ぐ。そしてそれを、わたくしの方へと差し出した。
「お口にあうといいのですが」
「……言っておきますが、今更アッサムのミルクティーを出された所で――」
カップを持ってから、気がついた。ミルクが混ざっているため気づくのが遅れたが、これは――
「そう、アッサムではなく、ダージリンのミルクティーです」
「馬鹿にしてますのっ!」
一口も飲まずにカップごと放り捨ててやろうと思ったが、帝一の見たこともない程の真剣な目が、わたくしにそれを思いとどまらせる。怒っているせいか、心臓の音がうるさい。
「罵倒は、一口でも飲まれた後に」
「……ふんっ!」
ならば、お望み通り一口飲んだ後に罵詈雑言をぶつけてやろうと、わたくしはカップを口にした。そしてその後、自然に言葉が零れ落ちる。
「え、美味しい……」
「オータムナルです」
「え?」
帝一はティーポットから自分用にカップへダージリンを注ぐと、それを手に取り、香りを嗅いだ。
「ダージリンは、春、夏、秋と三回旬の季節があります。そして、季節によって楽しめる味や香りが違います」
帝一は自分の入れた紅茶で唇を湿らせた後、滑らかに口を開いた。
「春摘みの茶葉(ストレートフラッシュ)は、味も癖がなく、香りも爽やかです。夏摘みの茶葉(セカンドフラッシュ)は、マスカットフレーバーと呼ばれる香りと甘味が特徴的です。これら二つは、ストレートティーで香りと味を楽しむのが一般的でしょう。ですが、秋摘みの茶葉(オータムナル)は、違います」
「……何が違いますの?」
「茶葉が、雨期を越えているのです」
わたくしは知らず識らずのうちに、帝一の言葉に聞き入っていた。早く次の彼の言葉が聞きたくて、思わず身を乗り出す。
そんなわたくしに、帝一は応えてくれた。
「雨期の後の乾燥期には、茶葉が厚くなります。その結果、紅茶の味は濃くなり、更に渋みも増すのです。そのため、ダージリンの中で、オータムナルだけは、ミルクティーでも負けない風味を持っているのです」
そう言って帝一は、わたくしにもう一口ミルクティーを飲むように促す。進められるままに口に含むと、ダージリンの芳醇な味わいがミクルと絡まり、深い甘みとコクが口いっぱいに広がった。
その味に、ほっと一息ついていると、帝一が自然に傍までやってきて、わたくしの髪を触る。あまりにも自然な動作だったので、わたくしも違和感なく彼の行動を受け入れていた。
「ここが、落とし所、ということで、いかがです?」
「な、何がですの?」
わたくしの髪を弄ぶ帝一が、蠱惑的に笑う。
「俺自ら、紅茶を入れた。そして、あなたが満足できるレベルのミルクティーの味を、ダージリンで用意できた」
彼の手が更に髪を押し分けていき、わたくしの頭を撫でる。わたくしは手にしたカップを、両手で握りしめるように持っていた。
「アッサムではなく、ダージリンのこの味で妥協して欲しい。どうだ? 彩」
「は、はい……」
初めて名前を呼び捨てにされたことと、初めて頭を撫でられたことと、彼が初めて入れてくれたミルクティーの味に、わたくしは思わず、赤面しながら、そう言ってしまったのだった。
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