意識と記憶のボタンと少年

森本 晃次

第1話 大日本帝国における諜報活動

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年八月時点のものです。それ以降は未来のお話です。


 世間では、今医療関係者の間で、大いに世間を騒がせることになるだけの大いなる大発明が行われていて、

「これが発表されれば、今まで不治の病と言われていた病気に対し、今後は死ぬ人の確率が爆発的に減るであろう」

 と言われている新薬が開発されようとしていた。

 しかも、この薬は、まだ未知の伝染病にも一定の効果があるのではないかと言われていて、少なくとも、最近流行った世界的大問題となった伝染病にも、特効薬として、開発された。

 これは、重症化や発症しないだけではなく、

「病気に罹らない抗体を作り出す」

 という性質があり、そして、今までの予防接種などのワクチンに比べて、かなり長い間の効果があるということで、一度打てば、数年から数十年は、予防効果もあるのではないかと言われている薬であった。

 大学病院でできる治験もある程度クリアしていて、これが発表されると、日本という国が、伝染病関係で、世界のトップレベルに一気に駆け上がったことを示す大変なものだった。

 だが、これはあくまでも、ウワサレベルで、マスゴミすら詳しいことを知らなかったのだが、知っているのは、一部の大学の人間と、国家の首脳くらいであり、もちろん、国家公安委員会のトップも知っていた。

 ただ、そんな国家のトップシークレットほど情報は洩れるというもので、日本の中でも最大級と言われる反政府グループが存在するのだが、彼らには情報がしっかりと漏れていた。

 それは、政府内部に内通者がいるからで。国家の機密事項であったり、まだ世間に発表できないことを政府内部で、世間で混乱が起こらないように調整している部署があるのだが、情報が漏れるというのは、国家上層部の、

「国家のトップシークレットが、そんなに簡単に外部に漏れるわけがない」

 という、実に甘い考えが根底にあるからで、ここが諸外国とは決定的な違いであった。

 何といっても、日本という国は、憲法九条に守られていて、戦争放棄の国だからである。

 かつての軍国主義だった日本が、大東亜戦争に敗れることで、それまでの不敗神話は崩れたことで、プロパガンダと、

「万世一系の天皇が収める神の国」

 という神話が崩れ去ったことで、そこから、平和ボケというものが始まったのだ。

「日本という国は。アジア各国に侵略の手を広げ、中国に侵攻したことで、欧米列強の怒りを買い、経済制裁を受けたことで、戦争に突っ切って行った」

 というように教えられてきたのだった。

 それは、占領軍が日本人に与えた、

「戦争放棄。再軍備の禁止」

 に対しての正当性を植え付けるもので、極東国際軍事裁判において、日本にすべての罪をなすりつけ、戦犯を無理やり作り、処刑しておいて、そこで、後は、

「それまでの教育が間違っていたことで、悲惨な戦争に突入し、最後は敗戦の憂き目にあった」

 ということを、教えこんでいた。

 実際には、すべては、日本の自衛から始まったことなのに、それを言わずに、あくまでも、

「軍部が、政府決定を無視して、独断専行した」

 ということが問題だとして決めつけていた。

 しかし、実際にはそんな簡単なものではなかった。

 例えば、満州事変にしても、シナ事変にしても、元々は、中国側が日本に対して、抗日を名目に、一方的な攻撃であったり、暗殺事件が多発したり、日本の権益に対して、対抗するような法律を作り、満州などにいる居留民の生命にまで危険が及ぶようになったからだ。

 しかも、満州事変前夜には、日本にとって大きな問題があった。増え続ける人口に対して東北地方の凶作であったり、世界的な大不況のあおりから、

「どこかに、市民を移住させる必要」

 があったのだ。

 いわゆる人口問題というのが切実にあり、当時の日本では、娘を売らないと、その日の暮らしも成り立たないほとになっていた。

 そのため、当時日本が権益を持っていた満州に移住させるという計画を持ったのだが、当時の中国は、日本人に土地を売ったり、貸したりすると、死刑になるという信じられない法律があった。当時の居留民でさえ、生きていくのが難しい状態だったのだ。

 そこへもってきて、満州での治安が最悪になったことから、当時の満州を警備していた、陸軍の関東軍が満州事変を画策したということだ。

 また、それから五年余り経ってからの昭和十二年には、北京にて、日中両国で戦闘があった。いわゆる、

「盧溝橋事件」

 であるが、実際には、その戦闘は、講和が結ばれ、一旦は沈静化したのだが、実際には、

「郎坊事件」

 であったり、

「公安門事件」

 という、二つの、一方的な中国軍からの攻撃。さらには、

「通州事件」

 と呼ばれる、市民に対しての想像を絶するような虐殺事件を中国軍が、日本の居留民に対して行った。

 盧溝橋事件が勃発してから、一か月も経たない間にである。完全な中国側の攻撃に対しての自衛行為がシナ事変だったのだ。

 そういう事実を教えることなく、

「日本が行った侵略行為」

 というのは、事実とは真逆ではないか。

 それだけ戦勝国におけるプロパガンダの効果はすごいものだったと言えるのではないだろうか。

 だから、中国が日本に対して、

「侵略を受けた」

 というのは、どこまでが正しいのかということである。

 確かに日本も中国大陸において、侵略まがいのことをしなかったとは言えないだろう。

 だが、世界史においては、明らかにおかしい部分もあるのだ。

 そもそもかつて、世界は大航海時代を経て、植民地を世界に広げていき。

「世界のすべての地域は、欧米列強によって、分割占領された」

 と言ってもいい時代に入った。

 日本は、鎖国をしていたので、世界に目を向けることはなかったが、アジアは、そのほとんどが欧米列強に支配されるようになっていった。

 インド、シンガポール、オーストラリア地域をイギリス、インドシナをフランス、太平洋の島国に、ドイツなどと入ってきて、ほぼ植民地にならなかったのは、タイと日本くらいではなかっただろうか?

 そのうちの朝鮮半島と満州は、日清、日露戦争において、日本が権益を得て、朝鮮半島は日本が併合する形、そして満州は日露戦争で、ロシアから奪い、さらに満州事変において、日本の勢力下におくことになった。

 これは、欧米列強のように、侵略したわけではない。

 確かに満州は日本の関東軍が掌握していて、満州国という国を作りはしたが、傀儡国家であった。だが、名目上が独立国家であり、別に侵略後の植民地というわけではない。それなのに、なぜ、植民地支配という世界を作り上げた国から批判されなければいけないのか、理解に苦しむというものである。

 しかも中国本土に対しては、当時の清国に対し、特にイギリスなどが、

「貿易で損をするから」

 という理由で、麻薬のアヘンを中国に蔓延させ、アヘン貿易で、イギリスが設けるというような、ヤクザのようなやり方を、国家ぐるみで行ったという恐ろしい植民地の獲得方法だった。

 当時の清国はすでに弱体化していて、イギリス軍の最先端の攻撃に耐えることはできず、結局さらに植民地としての様相を呈してきた。

 しかし、中国本土は広すぎるので、いろいろな国は権益を求めて中国に迫り、租借地などを獲得していく。中国は完全に、列強に食い荒らされた形になっていたのだ。

 清国が弱体化し、ちょうど十九世紀の世紀末に起こった、列強に対しての反抗と母国申告を守ろうという団体結社である、

「義和団」

 と呼ばれる組織が台頭してきた。

 スローガンを、

「清国を助け、外国勢力の滅亡を図る」

 という意味の、

「扶清滅洋」

 ということで、立ち上がったことに清国の実質的な支配者であった、西太后が、何をとち狂ったのか、欧米列強に、いきなり宣戦布告を行ったのだ。

 まさか、義和団のような勢力を政府軍にも劣る新興勢力を当てにしたのか、それとも、義和団から、宣戦布告をするように、脅迫されたのか、真意は分からないが、八か国くらいに宣戦布告をしてしまったので大変だ。

 諸外国は多国籍軍を形成し、北京を数日で占拠、それにより、さらに清国は窮地に追い込められ、国内の反乱である、孫文らによって、革命を起こされ、滅亡してしまう。それが辛亥革命というものであった。

 その後中国は混乱し、中華民国が成立したのだが、袁世凱による臨時大総統から、袁世凱の最終目的であった、皇帝に上り詰めたことで、一時期、中華帝国となったのだが、それを全世界から承認されず、半年ほどで袁世凱が退位することで、帝国は元の民国に戻ったのだ。

 その後、日本による「対華二十一箇条要求」などによって、袁世凱の求心力は低下し、彼の死後の中国は乱れてしまった。

 奉天派、直隷派、国民軍などの派閥ができてきて、内乱時代に突入する。奉天派を支援してきた日本だったが、その軍閥の長であった張作霖が、日本に反感を持ち、日本の権益である満州鉄道の平行線に自分たちで鉄道を敷くなどという、あからさまな態度に業を煮やした関東軍が、張作霖を爆殺してしまったことで、満蒙問題がリアルとなり、その後の満州事変に突入する。

 日本において、中国大陸に、いくつかの特務機関が置かれていた。奉天やハルビンなどの満州主要都市に置かれていたものだが、その内容は、諜報、宣撫工作・対反乱作成・秘密作戦などと呼ばれるもので、主に、相手国への内偵(スパイ行為)であったり、テロ工作や、相手への陽動作戦などであろう。

 もちろん、諸外国にも日本の特務機関のようなものが多数存在し、特にロシアによるスパイ行為は結構あった。

「ゾルゲ事件」

 などもその一つで、国家がソ連になってからは、各国の共産化に向けての諜報活動が盛んであったのだ。

 それがいずれ、共産圏というものを作り出し、民主主義国家との間に大きな壁を作ることで、戦後の、

「冷戦時代」

 を迎えることになる。

 戦後は、主に植民地の独立がさかんとなり、奇しくも日本が目指した、

「大東亜共栄圏」

 であるところの、

「アジアの欧米からの独立」

 が果たせることになったのは、皮肉なことだった。

 そういう意味で、日本の国家が行おうとしていたことは間違っていなかったと言えるのではないだろうか。日本がアジア各国を統治していた頃に建設したインフラが、結局、独立した後のアジア各国の経営を支えたのだから、かの戦争を、元々閣議決定された名前である、

「大東亜戦争」

 と言ってもいいのではないだろうか。

「太平洋戦争」

 という言葉は中途半端で、日本が戦争を行った範囲は広く、中国全土だけではなく、インドシナを含む東南アジア、ビルマやインドなどと東アジア全般で、まさに、

「大東亜」

 なのだ。

「日本による、東アジアを植民地支配から救って、大東亜にそれぞれの共栄の国を作る」

 という大義名分が大東亜戦争である。

 確かに占領統治されている時代においては、大東亜戦争という言葉はタブーであっただろうが、

「サンフランシスコ平和条約が締結されたことで、日本への占領統治の時代は終わり、日本は独立国家になった」

 という事実があり、独立国家である以上、それまでタブーとされてきた言葉を使っても構わないはずだ。それを反日思想のマスゴミが、今でも大東亜戦争という呼称を使わないという慣例を設けたのかも知れない。

 さらに、おかしいと思われる表記がいくつかあるのだが、もちとん、考え方はいろいろあるので、一概には言えないという前提での話になるのだが、

 日本は、昭和二十年の八月十五日を、

「終戦記念日」

 と呼んでいるが、なぜか、

「配線記念日」

 ということはない。

 この日に起こったことは、日本がポツダム宣言による無条件降伏を受け入れるという意思表示を示し、天皇がマイクの前に立ち、その旨を国民に宣言するという、いわゆる、

「玉音放送」

 が流された時だった。

 その時を持って、日本は生まれ変わったと称する人が多く、その後の祝日を制定する時の、建国記念の日をいつにするかということで、いろいろな意見があったという、今の皇起を起源としての、二月十一日以外にもいくつか案があったが、その中に、日本のいわゆる終戦記念日としての八月十五日を建国記念としようというものがあったというが、果たして八月十五日で正解なのだろうか?

 あれは、幸福を受け入れた日ということで、本来の降伏文書に調印したのは、その半月後の、戦艦「ミズーリ」の艦上において、降伏文書が調印された九月二日を持って、終戦というのであれば、分からなくもないが、なぜ日本は八月十五日を終戦記念日としているのか理解に苦しむことである。

 そういう意味で、建国記念の日への候補が九月二日だとするのが正解ではないかと思うのは作者だけであろうか?

 戦前であれば、二月十一日というのは、

「紀元説」

 と呼ばれていた。

 建国記念の日の意見としては、当時の日本社会党の案として、日本国憲法の施行された五月三日、今の憲法記念日にしようとする案。さらには、公明党の組織母体である創価学会の池田大作によるサンフランシスコ講和条約の発効日である、四月二十八日という意見も出たという。

 さて、ここで一つ国民のほとんどが勘違いをしているのではないかと思われる、二月十一日の名称であるが、あれを、

「建国記念日」

 と思っている人が多いのではないだろうか。

 実際には、建国記念と日の間に、「の」が入り、

「建国記念の日」

 というのが正式名称なのだ。

 ちなみに、「の」が入っている祝日というのは、現在、ほとんどがそうである。

「成人の日」、「子供の日」、「海の日」、「勤労感謝の日」などであるが、「の」が入っていない祝日の方が圧倒的に少ない。憲法記念日、くらいではないだろうか。

 この「の」は入っている祝日というのは、

「その日にちを変えることができる」

 というものである。

 かつては、春分、秋分の日などのように、最初から日にちを決められないもの以外は、基本的に日にちをずらしたりはしていなかった。しかし今は、休日を生かして、国民に消費を促そうという政府の姑息あ考え方で、成人の日、、敬老の日、体育の日などが、毎年可変する祝日となり、日付が毎年変わる祝日となった。

 特に、令和二年と三年は、オリンピックの開会式に合わせて、祝日を大幅に変更するという暴挙を政府がやったりした。そもそも、昭和三十九年の東京オリンピックの開会式は十月十日だったのに、アメリカの都合、いや、オリンピック委員会の視聴率によるアメリカへの忖度のため、真夏に行うという、選手のことをこれっぽっちも考えないような大会になり、オリンピックが地に落ちたと言われる状況になってしまった。

 余談になってしまったが、日本という国は、諜報活動を盛んに行い。それにより、列強に劣らない作戦を水面下で進めるというやり方にも長けていたのであった。日露戦争の勝利はまさにその賜物だったと言えるのではないだろうか。

 大日本帝国の諜報活動というと、まずは、日露戦争における。

「明石機関」

 と呼ばれるものがあった。

 明石元二郎と呼ばれる、陸軍大佐がいたが、彼が当時のロシア帝国の首都であったペテルブルクのロシア公使館に着任後、日露戦争が勃発したことで、ストックホルムに移り、そこで日英同盟の相手国、イギリスのスパイと仲良くなったことから、明石はその男に依頼し、スパイは極東の満州にある旅順に移り、そこでロシア軍司令部の信頼を得たことで、旅順港における当時は東洋一の大要塞と言われた、難攻不落の、

「旅順要塞」

 の設計図や、ロシア軍の動向などを手に入れることができた。

 それに従って。陸軍における、

「旅順艦隊撃滅作戦」

 を成功させるための、旅順攻略に役立たせることに成功した。

 旅順艦隊の撃滅は、陸軍が海軍からの要望の一番大きなものだった。

「ロシアの極東艦隊である、ウラジオ艦隊と旅順艦隊。さらに、主力艦であるバルチック艦隊が一緒になれば、日本に勝ち目はない」

 というものだったのだ。

 そのうちの旅順艦隊の撃滅は、日本という国の、いわゆる、

「皇国の荒廃」

 を示していた。

 もたらされた情報を元に、旅順艦隊を撃滅し、さらにはロシア軍の動向をイギリスからの情報によって得ることができ、バルチック艦隊の進路や予定も情報として入ってくる。さらに、バルチック艦隊の航路としては、欧州から、アフリカまわりでインド洋に入り、そこから東南アジアを通って日本近海に来るということだが、その途中にあるのがイギリス植民地だ。日本と同盟を結んでいるイギリスの植民地が、ロシアの食料や燃料の補給に協力するわけがない。寄港さえ許すわけがなかった。長い航海において、疲弊した状態でやってきた艦隊と、十分に整備を行い、士気が最高潮となった迎え撃つ日本海軍とでは、最初から勝負はついているというものだ。新兵器である、

「下瀬火薬」

 などが威力を発揮し、何と、半日でバルチック艦隊を壊滅させるまでになったのだ。

 さらに、陸軍は奉天にてロシア軍を打ち破り、ここから、アメリカの仲介で、講和に入る。まさに、アジアの小国が世界の大国であるロシアに勝つための唯一と言ってもいい筋書き通りに行ったのだ。つまり、諜報活動なくして、日本の実質的な勝利はなかったと言えるであろう。

 さて、諜報活動では、満州における諜報活動も大きなものがあった。特務機関として正式に作られたものであり、代表的なこととしては、例えば、満州国建国のために、当時、天津の日本人租界にいた、清国の最後の皇帝である、

「愛新覚羅溥儀」

 を擁立したことであろうか。

 辛亥革命によって、新子奥が滅亡し、当時の溥儀が退位させられたのだが、紫禁城においては、清国は存続することになった。しかし、溥儀が青年になった頃に、今度はその紫禁城からも退去させられ、諸外国に保護を求めたが、応じてくれたのは、日本だけだった。

 日本の租借地がある天津に、婉容皇后、さらには第二夫人である文?とともに、滞在していたが、日本が満州国建国の際に、執政として招きいれ、国家元首の座に置くため、満州へと連れてくることになる。この一連を特務機関が行ったわけで、日本は最初から溥儀を利用するという意味で、保護したのだった。

 満州国はあくまで独立国で、しかも、溥儀を皇帝につけ、満州帝国という位置づけにしたのであった。

 日本国の立ち位置は、同盟国のような立ち位置であろう。しかし、内情は、日本の関東軍が掌握していて、皇帝、国務院総理といえども、関東軍に口出しはできない。国務院総理だった男が、議会で一言も発言しなかったという話があるほどで、皇帝が何を言おうとも、議会で承認されなければ、国家での皇帝の権威はないというものだ。

 つまりは、日本の操り人形。傀儡ということになるのである。

 ただ、この満州建国はあくまでも、日本における移民の受け入れ、そして、ロシアに対してのけん制の意味だったのだが、事変を、

「関東軍による独断専行が許される」

 という前例を作ってしまったことで、中国本土での戦果拡大に陥ってしまったのだ。

 そもそもの満蒙問題解決はうまくいったが、後が悪い。

「戦術では勝っても、戦争では間違った道に進んでしまった」

 ということになるであろうか。

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