第41話 この手を離さない 3
***
一番好きな季節は、夏の始まりの頃。
おじい様もおばあ様も、お父様もお母様も、みんな王都キルスへ行ってしまう。セシアにとっては寂しい季節でもあるが、その代わり口うるさい大人がいなくなるのでクロードとたっぷり遊べる季節の始まりでもある。
キラキラと輝くアルスターの森へ、何度も二人で出かけた。
気が付くとクロードがいなくなっていて、寂しくなってその名を呼ぶと、必ずクロードが見つけてくれる。
「どこに行っていたのよ!」
セシアが怒ると、
「セシアが勝手にいなくなるんだろ? いっつも探すハメになる」
クロードが困ったような顔をする。
「私たち、迷子になったんじゃない? ちゃんとお屋敷に着く?」
二人そろって迷子になっていたら、どうしよう。
見渡す限り木々に囲まれ、人の気配がない。本当にこの道であっているのか不安になる。
「大丈夫だよ、道を覚えているから」
クロードが言う。
「本当に?」
「本当だよ」
「私を置いていかない?」
セシアの言葉に、クロードがびっくりしたような顔をする。
「置いていかないよ……なんで? 今まで、一度だってセシアを置いていったことなんかないじゃないか。セシアが俺を置いていったことなら何度もあるけど」
それはそうだけど……でも、なんだか不安なのだ。
「じゃあ、手をつなごう、セシア」
セシアの不安がわかったのか、クロードが手を差し伸べて来る。
「手をつないでおけば、一人ぼっちにはならないから」
気が付くとアルスターの森は消え、セシアは一生懸命、屋敷の階段を上っていた。
誰かが手を引っ張ってくれる。銀色の髪の毛が揺れる。華奢な背中、セシアよりも少し低い背丈。なぜか少年時代のクロードがセシアの手を引いている。
ああ、クロード。あなたはそこにいたの。
ずっと探していたの。心配していたのよ。私のせいでこの屋敷を追い出されてしまって。あなたはイオニア人だから、この国では差別される。きちんとした仕事には就けないはずだとリンが教えてくれたし、実際そうなんだと思うの。今は私も少しは世の中を知っている。
あなたが幸せであればいい。ずっと願っていた。
でも本当はね、ずっと、あなたに会いたかったの。
もう一度会いたかったのよ。
クロードが手を引っ張る。どこへ行くの? そっちに行けばいいの?
階段を上る。二階を抜けて三階へ。三階はいわゆる屋根裏で、使用人と子ども部屋がある。クロードと過ごした懐かしい子ども部屋……あそこがいいわ。あそこにしましょう。また昔みたいに、一緒にお話しましょう。
一人は寂しい。ずっと寂しかった。心の中でクロードの名前を呼んでいた。でもあなたを追い出した私があなたの名前を呼んでもいいのかわからないから、一通だけ寄越してくれた手紙を眺めていた。でもそれも叔父様にとられてしまった。
もう何を頼りにあなたを思い出せばいいのかわからないの。
ねえ、クロード。
もう、この手を離さないで。私とずっと一緒にいてね……。
***
「セシア!」
ルイは血がしたたる右腕を反対の手で押さえながらセシアの名を呼んだ。
声がない。どこに行った?
「セシア、どこだ!」
二階の部屋をひとつずつ確認するか、と思って視線を走らせた先、三階に通じるドアが開いていることに気が付く。
一階は客人を招く場、二階は家族の空間、三階は使用人と子ども部屋。一、二階と三階は使う人間の階級が違うため明確に区切られており、三階に通じる階段にはドアがつけられている。三階への階段は秘される場所なので、使用人たちはドアを開きっぱなしにはしない。
ルイはすぐに三階に向かった。
二階とは違い三階は階段も廊下も狭く薄暗いから、圧迫感がある。たぶんそれが原因なんだろう、セシアは子ども部屋に一人残されることを本当に嫌っていた。特に夜が苦手で、よく呼ばれたものだ。
セシアがこの三階に用があるとしたら、その子ども部屋だろうということは想像がつく。だがセシアは何をしに三階へ?
目的の部屋はそう遠くない。思った通り、子ども部屋のドアが開いている。
そのドアを全開にして部屋に飛び込めば、夏の朝の風がふわっとルイを出迎えた。
眩しい朝日が差し込む窓は全開で、カーテンがひらひらと動いている。眩しさに一瞬目がくらんだルイは、その窓枠に手をかけて身を乗り出しているセシアに気づくのが一瞬遅れた。
「セシア、待て!」
ルイの声に気づいてセシアが振り返る。
セシアは笑っていた。
そして顔を戻すと窓を乗り越えて……
この時ほど、間に合え、と思ったことはない。
窓枠にかけられたセシアの右腕が離れる瞬間、ルイは左腕でその腕を捕まえた。
がくん、と衝撃が体全体にかかる。遠い昔、橋から落ちるセシアをつかんだ時の記憶が残っていたが、あの時とは比べ物にならない衝撃だった。持っていかれないようにあわてて窓枠に右腕をかけたら、先ほどの傷が悲鳴を上げた。
上半身を窓枠から乗り出すようにして、ルイは片腕でセシアを捕まえていた。
「セシア……あんたはもう少し、痩せたほうがいい……!」
歯を食いしばり、持ち上げようとするのだが、肝心のセシアが体の力を抜いてだらんとしているので、重くてならない。
落とさないようにするのが精いっぱいだった。それに傷口を押さえていたせいで左の手のひらもべったり血がついている。そのせいで滑りやすい。失敗した。傷口なんて押さえるんじゃなかった。
トーマにはジョスランとフェルトンの世話を頼んできたので、ルイには誰もついてきていない。誰もセシアが三階の窓からぶら下がっていることを知らない。そしてそのセシア自身、ルイの手をつかんでいないのだ。力が入らない成人女性を腕一本で支えていられる時間なんて、たかが知れている。何よりセシアの腕の方が心配だ。このままでは関節が外れてしまう……!
セシアの様子からフェルトンの薬が使われたことは明白だ。
セシアも死んでしまうのか? もうしばらくしたら、あの薬の副作用が起こるのか?
フェルトンの気味が悪い人体実験なら一度だけ見たことがある。被験者は呼吸不全に陥り、苦しみながら絶命した。……あの副作用が襲ってきたら、この手は離れてしまう。セシアが落ちてしまう。三階は高い。無事では済まされない。
「セシア、目を覚ませ!」
ルイは大声で叫んだ。せめて意識が戻ってくれたら。
「セシア!!」
セシアは反応しない。
「セシア……重いんだよ! 痩せろって言っただろ!」
ぴくりとセシアが身じろぎする。
聞こえてはいるようだ。
「両手で俺の手をつかめ! 引っ張り上げるから!」
セシアがルイの声に反応して、顔を上げる。
「ル……ルイ……? わたし……?」
焦点の合わない瞳が徐々に、光を取り戻す。そして自分の置かれている状況に気が付いたらしく、まわりを見渡して小さく悲鳴を上げた。
がくがくと震えが掴んでいる腕を通じて伝わってくる。
「俺はセシアを落とさない。絶対に手を離さない! だから両手で俺の腕をつかめ!」
セシアがルイの腕に、もう片方の腕を伸ばそうとして……
激しく咳き込んだ。
衝撃でずる、とつかんでいる部分が滑る。
セシアが落ちる!
ルイは慌てて右手もセシアに伸ばした。ペンや食器を持つだけで精一杯の腕を伸ばし、セシアの腕に添える。
「ルイ……血が……!」
「俺の血じゃない。でも右腕は力が入らない、セシアがつかまるんだ! そうしたら引っ張り上げてやれるから!」
ルイの叫び声に反応して、セシアが腕を伸ばし、両腕でルイにつかまる。
よし、と思って力をかける。けがをした右腕が痛む。力が入らない。腕を伝った鮮血がセシアのドレスを染めていく。血液のせいで手が滑る。左腕は痺れて感覚が薄れていくし、右腕は傷口が痛い。じっとりと体中から脂汗が噴き出す。
なんだってセシアはこんなに重たいんだ!
その時、セシアがまた激しく咳き込んだ。ルイがつかんでいない方の手が外れ、再び片腕だけでぶら下がることになる。動いた衝動で大きく負荷がかかり、ルイ自身も持っていかれそうになり、あわてて踏ん張る脚に力を込めた。
ずる、と一段セシアが下がる。手が滑る。セシアの腕も小刻みに震えている。セシアも限界を迎えているのがわかる。
セシアが再び咳き込む。
――副作用が出てきたか……!
絶望で目の前が染まる。
セシアにも、フェルトンの試験薬の副作用が現れた。あれを止める手立てはない。まさか、そんな……こんなところで……!
早く引き上げなければ。だが、つかんだセシアの腕はずるずると血のりで滑って、もうそろそろセシアの手首に届きそうだ。
ルイは限界まで体を伸ばしてセシアをつかむ腕に力を入れた。指先が食い込むほど強く。
「もう……もういいわ、ルイ……あなたまで落ちてしまう。手を離して……私は、もう、いいの」
ルイの左腕にぶら下がった状態で、セシアが苦しい息の合間にかすれた声で呟く。
「いいわけないだろう! 諦めるな!!」
「これ……おじい様と一緒ね……息が、苦しいの」
「諦めるな、セシア! 薬を使われたジョスランの妻は生きている。無事だった! 彼女は薬を飲まされても死ななかった! だからセシアも」
言っている途中で派手にセシアが咳き込む。ずる、と手が滑り、いよいよセシアの手首をつかむことになった。もうあとがない。これ以上滑ったら、セシアが……!
「ルイ、……いいえ、クロード。あなたに会えてよかった」
咳が落ち着いたところでセシアが再びルイに顔を向け、淡く微笑んだ。
顔色が真っ青だ。いつも口づけたいと思っていた血色のいい唇が、紫色になっている。
「遺言なんて、早すぎるだろ……っ」
「息ができないの……力も……もう、無理みたい」
セシアの瞳にみるみる涙が盛り上がり、ミルク色の頬を伝い落ちていく。
「ずっと後悔していたの……あなたに謝りたかったの……ごめんなさい……」
「何を謝る!? あんたは何も悪いことなんてしていないだろう!」
「あなたはフェルトンさんを捕まえに行って。私は……もう……」
「諦めるな! もう少し、もう少しだけ耐えてくれ……! 誰か来るから! 誰かが助けに来るから!」
「わ……わたし、ね……」
セシアの菫色の瞳が少しためらったように揺れたあと、
「……わたしもね、ずっとあなたのことが……」
だが、その続きを聞くことはできなかった。
ズル、と手が滑る。
ルイの手のひらの中からセシアの腕がすり抜けていく。
十二年前の冬の光景がよみがえる。つかんだはずの手が離れ、セシアが濁流にのみ込まれていく。見開かれた菫色の瞳を忘れたことはなかった。あの時、手を離したことを死ぬほど後悔した。どうして彼女をつかんでおくことができなかったのか。もう少し力を込めていればよかったのに。それだけなのに。
そうすればセシアは大けがを負うこともなかった。歩くだけで痛む体になることも、結婚という未来を諦め、一人で生きていく道を選ばせることもなかった。
今度は絶対に離さない。絶対にだ。
そう思うのに、無情にもセシアの白くて細い腕はルイの手から離れていった。
「セシア……!!」
十二年前と違い、セシアは微笑んでいた。
「セシア――――!!」
ルイはセシアが地上に吸い込まれていくのをただ見つめることしかできなかった。
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