第36話 偽装夫婦の終焉 1

 書斎を出て自分の部屋に向かう。階段を上がったところで、ルイが待っていた。


「……叔父上との話は終わったのか?」


 セシアはうつろな目で、心配そうに見て来るルイを見つめた。


 ――クロードに違いない……?


 ジョスランはそう言った。

 セシアも、そうだと思う。でもルイが言わないから黙っていようと……。けれど、やっぱり見過ごしてはいけないのだ。

 なぜならクロードであれば……、


「……あなたは誰なの……?」


 自分を憎んでいるはずだから。

 セシアはルイをまっすぐ見つめたまま問いかけた。


「……何を言われた? 顔が真っ青だ。……泣いていたのか? 涙のあとが」

「答えて! あなたは誰なの。なんの目的でここに……私のもとに来たの」

「説明したはずだが。軍の命令で……」

「そうじゃないわ! あなた自身の目的よ!」


 ルイの顔からスッと表情が消える。この顔を知っている。この人は感情を読まれたくない時はこんな顔をするのだ。……だからこれは困惑している証拠でもある。伊達にここしばらく「妻」を演じているわけではないのだ。

 不意に再び涙が込み上げてきて、セシアは慌てて目元を拭った。


「ここで立ち話もよくない。ひとまず部屋に行こう」

「……どの部屋に?」

「……夫婦の部屋に。荷物はそこに運んでもらったから」


 そう、自分たちは夫婦!

 泣きたいような笑いたいような気持ちが込み上げてきたが、セシアは促されるままおとなしく屋敷の主寝室に向かった。

 両親が使っていた部屋だ。いきなりこんなことになったから、模様替えはせずベッドカバーとリネンの交換だけで間に合わせた。……ここもジョスランに荒らされたのだろうか。両親が使っていた当時のまま残されている部屋なのに。あの人はここへもずけずけと入ったの?

 悔しい。なんだかいろいろと悔しい。


 ――みんな私のことを好き勝手に……!


 ドアを開けて主寝室に入る。見た限り、この部屋はそんなに変わってはいないみたいだ。確かにセシアたちが新婚旅行で増やした荷物はここに運び込まれていた。


「……改めて話を聞こう。ジョスランになんと言われた?」


 部屋に入るなり、ルイが聞いてくる。

 セシアは唇をかみしめて、ルイを見上げた。

 切れ長の目、スッと通った鼻筋、引き結んだ唇。顔は整って男らしく、どこか硬質的で冷たい印象を与える。瞳の色は深い青、短い髪の毛は銀色。


 初めて見た時は「似ている」と思った。でも他人の空似だろうと思った。どうしてそう思ったのだろう。今見れば目の前にいる人物は間違いなくクロード。セシアの初恋の人、そしてセシアがこの屋敷から追い出した人。


 どこでどうしているだろう。いつもそう思っていた。

 いなくなってしばらくは行方を探していたが、いつの頃からかイオニア人に向けられる差別の実態を知るにつれ、セシアは恐ろしくなった。

 屋敷から追い出した祖父のことを、ルイは絶対に恨んでいる。そのきっかけを作った、わがまま娘のセシアのことも許していないかもしれない。……クロードを探し出したら、その結論にたどり着いてしまう可能性があるから、探したくなかった。

 きれいで楽しい思い出だけ、残しておきたかったのだ。


 ――卑怯者なのよ、私は。


 そして、ルイ。いや、クロードというべきなのか。

 セシアは目の前の男を見上げた。


 好きだった。好きになっていた。このままそばにいてほしいと願うくらいには。

 でも、ジョスランに突きつけられた事実は胸を揺さぶる。


『あいつ本人の目的は間違いなくドワーズ家への復讐、そして破滅だろう。違うのか? でなければなぜ正体を偽る必要がある?』


 軍の任務でここへ来たのは間違いないが、それは本当に偶然?

 セシアに、ドワーズ家に因縁がある人物が抜擢されるものだろうか。結婚式の時の「借り物の家族」、そして王都で会った「フランク」……イヴェールには使える部下がたくさんいる。ルイでなくてもよかったはずだ。


「私の質問に答えて。……あなたは……あなたの名前は、クロード……ね? 昔、ここにいた」


 セシアの問いかけに、ルイは答えない。

 答えない……ということは、肯定だろうか。

 セシアはおかしくなって笑い出した。


「クロードなの? お久しぶりね……なんてひどい茶番なの? あなたと夫婦ごっこだなんて」

「……俺の名前は」

「ルイ・トレヴァー、北部出身でトレヴァー子爵のご令息ね。知っているわ、東方軍に所属していてリーズ半島の戦争で部隊ごと行方不明になっているんですって」


 セシアの言葉に、ルイはわずかに眉を動かした。


「わかっているの。わかっていたの、『ルイ・トレヴァー』が偽名だということは。でもちゃんと実在する人だったのね!」

「……どうしてそう思う?」

「新聞にたずね人が出ていたのよ。さっき叔父様にその新聞を見せてもらったわ。……そうよね、軍属で行方不明になっている人物なら……、なりすますことは可能でしょうね」


 セシアは大げさに頭を振りながらルイから距離を取った。言っているうちに目の前の男が本当に信用ならなくなってくる。

 この人は信用できると思った。ちゃんとセシアのことを考えてくれると。だから好きになったのに……。

 騙されていたなんて。


「……どうして本当のことを言ってくれなかったの」

「本当のこと……は、軍規に触れるから言うことはできない。偽名を使っているのもそのためだ。ちゃんと説明しなかったせいで不信感を抱かせているようだが……、軍規だから」

「軍規! 便利な言葉ね。……で、あなたの目的は何?」


 ルイからずいぶん距離を取り、セシアはもう一度聞いてみた。


「……最初に説明したはずだ。フェルトンを捕まえる、それだけだ」

「それだけ? あなたの目的は本当にそれだけ?」

「それだけだ。用が済めば出ていく」

「この家に……私に……復讐しに来たんじゃないの?」


 セシアの問いかけに、ふう、とルイがため息をつく。


「……ジョスランにそんなことを言われたのか。復讐などする気はない。これは何度も言うが、任務だ。俺が抜擢されたのは、……アルスター出身の工作員だからだ。いつも誰かになりすまして行動する。正体がバレたら任務の遂行ができなくなる、だから正体は明かせない。というより、俺の正体はないと言った方がいい。セシアが覚えているクロードは、もういない。あいつは死んだ。俺は、誰でもない」

「……そんな。本当に、偶然なの? じゃあ、あの首飾りは」

「あの首飾りは埋めてくれと頼んだはずだ。……まさか手元にあるのか?」


 初めてルイが怖い顔をした。


「ええ、そのまさかよ。そして叔父様に見つかって取り上げられてしまったわ。あなたにつながる品だからと手紙とともに取っておいたのが仇になっちゃった」


 セシアは肩をすくめながら軽い口調で告げた。ルイは依然として怖い顔をしている。


「……面倒な品ならあなたが自分で処分すればよかったのに、どうして私に送りつけてきたの? お別れも言えないままだったあなたにゆかりがある品物を、私が捨てられるわけないとは思わなかったの」

「……なるほどな。ジョスランから何を言われたかはだいたい予想がついた。俺は任務でここに来ている。俺は自分の仕事を選べない、フェルトンを追いかけていたらたまたまその先にジョスラン、そしてセシアがいた。それだけだ。首飾りは偶然だ」

「……信じられないわ」

「信じられなくても、それが事実だ。別にセシアを騙そうとしたわけじゃない。俺は上官の命令に従ったまでだ。……セシアから見れば騙されたように思えるだろうが」

「……」

「ここを出てからいろいろあったのは事実だが、セシアを恨む気持ちも持っていないしドワーズ家に復讐するつもりもない」

「……」

「俺が信用できないというのなら別にそれでもいい。俺は俺に与えられた任務を全うするだけだ。そのために協力してもらう必要は出てくるかもしれない。……これは最初に話したはずだ」


 ルイはどこまでも「職務に忠実な軍人」として接してくる。


「……もういいわ。もういいわよ!!」


 セシアはついに叫んだ。


「あなたなんて頼りにするんじゃなかった! レイモンドに頼めばよかったんだわ!!」


 セシアはそう叫んで主寝室を飛び出した。向かうのは自分の部屋だ。

 そこに向かいながら、自分だけの部屋もジョスランに荒らされたのだということを思い出していら立ちが募る。トーマはやわらかい言い回しをしていたが、ジョスランはこの屋敷の秩序を無視して自分の連れてきた妻や友人、そして使用人ともども我が物顔で振る舞ったのだろう。セシアの秘密を知ったために、セシアを当主の座から引きずり下ろせると思って。


 そしてそれは間違いではない。ルイだって認めた。少なくとも「ルイ・トレヴァー」という人は別にいるのだ。……リーズ半島で行方不明になっている……おそらくきっと、生きていない。他人になりすまして侯爵令嬢に近づいた。ルイはもうそれだけで十分罪を問われる。表面的にはルイに騙された形のセシアだが、平民ならいざ知らず侯爵家の相続問題が絡んでいる以上、セシアも責任を取らなくてはならないだろう。ジョスランのあの態度からもわかる通り、この結婚に関しては自分に非があるのは間違いない。裁判になったらきっと負ける……セシアはドワーズ家から追い出されるだろう。かつて自分がジョスランや、クロードにそうしたように。

 皮肉なものだ。自分の行いが自分に返ってくるなんて。

 ただ守りたかっただけなのに。父と母の面影が残るこの屋敷を、祖父が大切にしていた侯爵家としての伝統を、クロードと歩いたアルスターの森を。


 ――どこで間違えたの?


 いや、そもそも偽装結婚なんてものをしようと考えたのが間違いだったのだ。初めから間違えていた。フェルトン捜索には「普通に」協力すればいいだけだったのに、欲を出すからこんなことになってしまったのだ。

 セシアにはドワーズ家を守る資格なんて初めからなかった。自分でなければ守れないと思ったのはきっと、思い上がりというものだったのだ。恥ずかしい。


 セシアは自室に飛び込むと鍵をかけ、ぐるりと部屋を見回した。

 一見荒らされているような感じはしないが、ライティングデスクの引き出しを開けてみればきちんと整理していたはずの中がぐちゃぐちゃになっているのが確認できた。一度中身を全部取り出して確認し、適当に詰め直したのだろう。


 次にからくり箱をしまっていた本棚を確認する。本棚そのものは本を動かした形跡はないが、下の扉付き収納棚はどうだろう。膝をついて扉を開けてみれば、デスクの引き出しと同じように、中を改められた形跡が見てとれた。


 あのからくり箱は父からのプレゼントで……嬉しくて、自分にとって一番の宝物を入れようと決めて。クロードから首飾りが送りつけられた時に、ちょうどいいサイズだと思い出してしまいこんだのだ。屋敷を出て行ったクロードからの唯一の便りだったから、大切にしまっておきたくて。

 しかしジョスランに壊されてしまった。


 大切な思い出そのものを壊されたみたいで、悲しくてたまらない。涙がこみあげてくる。セシアは床に座り込んで膝を抱え、スカートに顔を押し付けた。

 なんてひどい。

 叔父にとって自分は本当にどうでもいい存在。ずけずけとセシアの領域に踏み込んで荒らしても平気な人。この人が当主になったらセシアはどうなるのだろう。叔父から逃げ切るには? でも裁判で正式に裁かれて罪名がついてしまったら、逃げ切ることなんてできない。

 最悪だ。


 どうしたらいい?

 誰を頼ったらいい?


 ふと、棚の奥に何かが落ちているのに気づく。手を伸ばして取り出すと、それはアレン王子の誓約書だった。

 これだけは無事だったのか。笑えてしまう……。


 ――あの時、イヴェール少佐の申し出なんかに乗らなければ。もっと冷静に考えていれば。


 だがイヴェールとしてはセシアをどうしても取り込みたかったのだろうとも思う。だから考える時間を与えずに決断を迫ったに違いない。

 時間があれば、レイモンドに……。


 ――ああだめだわ。それはできない……。


 脳裏に金髪で翡翠の瞳を持った優美な顔が浮かぶ。男性にしては華奢なレイモンドはそれなりに女性にモテるけれど、大きな秘密がある。

 セシアの友人レイモンドの正体は、彼の双子の妹、レイチェル。レイチェルが、落馬事故の影響で幼児退行してしまった双子の兄レイモンドのふりをしているのだ。伯爵家の継嗣の不在をごまかすために、この三年ほど。


 セシアはレイモンドのことも知っている。レイチェルによく似た青年だ。少しずつよくなっているので、彼の家族はよく似た双子の妹を身代わりに仕立てた。あらぬ噂が立たないように。

 だからレイモンド(のふりをしたレイチェル)は王都にも行かないし、男性ならではの誘いにも応じない。ごくたまに、セシアが同席する集まりには顔を出す。レイモンドの露出度はその程度だ。だから今でもごまかしていられる。


 とはいえ、年頃の娘が兄の身代わりをし続けるのもいろいろつらいものがあるようで、レイチェルの苦悩はセシアも聞いている。そのレイモンドに偽装とはいえ自分と結婚してくれなんて、言えるはずがない。


 ――今、私にできることをしなきゃ……。


 とにかくイヴェールの依頼に関してはまだ何もしていない。祖父を死に至らしめた薬……それを持っているフェルトン。セシアに対して使おうとしているジョスラン。

 どういう状況になれば「証拠」になるのだろう? ジョスランが「これが薬だ、飲め」なんて迫ってくるはずがないし、祖父の最期を思えばもっと巧妙に仕掛けてくるはずだ。いったん口にしてしまったら解毒することは可能なのだろうか……いいや、無理そうだ。祖父は口にしてすぐに亡くなった。あんな短時間で効く薬に対して、手の打ちようはなさそうだ。

 やっぱり未遂の時点でルイが証拠を押さえる作戦なのだろう。

 ということは。


 ――できるだけルイと一緒にいたほうがいいということね……。


 なんという皮肉。今一番そばにいたくない人物なのに。


「セシア様、そろそろ晩餐のお時間なのですが」


 その時、ドアがコンコンとノックされ、聞き覚えのあるメイドの声が聞こえてきた。

 ジョスランと同席の晩餐なんてなんてまっぴらごめんだ。一瞬断ろうかと思ったが、それではジョスランから逃げ回っているようで腹が立つ。この家の主人は自分だ。なぜ主人のセシアが逃げ回らなければならない?


「わかったわ。私、旅装のままなの。着替えなくてはならないんだけれど、手伝ってくれるかしら」


 貴族の屋敷での晩餐は正装。家族だけなら普段着でもいいのだが、客人がいる前でそれはできない。セシアは自分の姿を見下ろし、うんざりした気持ちでメイドに答えた。


「かしこまりました」

「……今ドアを開けるわ」


 そういえばドアには鍵をかけていた。セシアは頭を振ると、アレンの誓約書を手に持ってのろのろと立ち上がった。この誓約書だけは肌身離さず持って、盾にしなければ。

 今となっては、自分を守るものがこれしかない。でもはしごを外されたらおしまい。


 また考えなしのせいで大変なことになってしまった。

 どうして自分はこんなにへっぽこなんだろう。情けなくてたまらない。

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