第3話 侯爵令嬢セシアの事情 3

「セシア、着いたぞ」


 物思いにふけっていたセシアの意識を引き戻したのは、祖父の声だった。

 はっとなって目を上げれば、馬車はいつの間にかドワーズ家のタウンハウス前に着けられている。

 祖父のエスコートで馬車を降り、二人は玄関前に立った。祖父がドアのノッカーを叩くと、ほどなくして大きなドアが開かれる。


「やあ、父上。それにセシア。久しぶりだね」


 出迎えてくれたのはジョスラン・イル・ドワーズ、その人だった。

 やや面長な顔に垂れ目は人好きする容貌だが、セシアと同じ菫色の瞳には油断できない光が宿っている。髪の毛もセシアと同じ栗色。今はすっかり白くなった祖父の髪の毛も、若い頃は栗色だったらしい。

 ジョスランと並んで立てば、セシアとジョスランが血縁関係にあるのははっきりとわかる。


 そのジョスランだが、目の前ではニコニコとしているので表面的には上機嫌に見えるものの、実際はそうでもないことをセシアは知っている。

 父の弟だけあって、ジョスランの外見は父にそっくりだ。年の離れた兄弟なので、今のジョスランは亡き父と年齢が近いから、よけいに。しかし漂う気配は正反対だった。

 父は、祖父と同じく真面目な雰囲気だった。父と顔は似ているが、ジョスランはどこか退廃的な、けだるい雰囲気がある。髪の毛を長めにしているところとか、シャツをだらしなく着崩しているところとか……。


「相変わらずのようだな、ジョスラン。そんなだらしないかっこうで人を迎えるものではない」


 祖父の小言にジョスランは軽く肩をすくめ、「まあ中へどうぞ」と二人を案内した。そして近くに立っている妻のカロリーナに、お茶とお菓子を用意するように指示をする。

 通されたのは応接間だ。三人そろってイスに座る。


「まずは遠路はるばるようこそ、キルスへ。駅から直接来られたそうですね、お疲れでしょう。ちょうど夕食の時間ですし、一緒にどうですか?」

「……まずはその前にこれの件について、話を聞きたい」


 ジョスランの誘いを保留し、祖父が手にした鞄の中から一通の封筒を取り出す。


「なんですか、それは?」

「マデリーの売買契約書だ。どういうことだ、これは」


 祖父の怒りに満ちた声音に動ずることもなく、ジョスランは「まあまあ」と祖父をなだめにかかった。


「さすがの僕もマデリーを売る気はありませんよ」

「だったらどうしてこんなものが送られてくるんだ」

「知りませんよ。こっちが聞きたい。……ああでも心当たりはあります。以前不動産を手掛ける業者に会った時に、マデリーにはどれくらいの価値があるのかは聞きましたね。それを業者が勘違いして、勝手に契約書を作成し領地の所有者のもとに送付したのでしょう。僕が売買を持ちかけたのなら、契約書は僕あてに送るように手配しますよ。僕は思慮深い方とは言えませんが、そこまでボンクラじゃないです。見せていただけますか」


 言われてみればその通りである。常識を無視して夕食時にジョスランのもとに乗り込んだのは、祖父の早とちりだったのかもしれない

 ジョスランが差し伸べてきた手に、祖父が封筒を乗せる。


「……へええ、ずいぶんいい金額ですね。マデリーにはこれだけの価値があるのか」

「本当に売る気はないんだろうな?」


 封筒の中身を確認して呟くジョスランに、祖父が鋭い視線を向ける。


「ありませんよ。僕はそこまで信用がありませんかねぇ。ただ領地を切り売りしなければならないほど困窮している貴族がいるのも事実でね、彼らの不動産は業者のかっこうの餌食ですよ。父上も覚えておいたほうがいい。すぐにこういうものを作って、送り付けてくる」


 ジョスランがにっこりと笑い、中身を戻すと封筒をテーブルの上に置いた。

 その時、応接間のドアが開いてワゴンを押したメイドと、ジョスランの妻カロリーナが姿を現わす。

 彫りの深い顔立ちにハシバミ色の瞳、癖のある赤毛。セシアたちバルティカの民に比べ浅黒い肌。


 セシアがカロリーナと会うのはこれが二度目。一年前、ジョスランが結婚の報告にアルスターを訪れた時に会ったっきりだ。

 カロリーナはこの大陸の西側にあるプラトリーノ公国の大公の孫娘なのだ。政変で大公一族は国を追われており、カロリーナはいわゆる没落貴族の娘ということになる。


 この国の生まれではないこと、没落貴族の娘という二点に祖父は難色を示したのだが、ジョスランは祖父の反対を押し切ってカロリーナを妻に迎えた。祖父は、このことを「自分への当てつけ」だと思っているようだ。


 結婚式に呼ばれることもなく、ジョスランからの事後報告を受け取った時に祖父が苦々しく呟いたので覚えている。

 それほどまでに祖父と叔父の考え方には隔たりがあるのだ。

 そして保守的な考え方をする祖父のもとで育ったセシアも、祖父よりの考え方をしているので、ジョスランのことは苦手だった。実際はセシアが生まれるよりも前にアルスターの屋敷を出ているため、それほど多く関わっているわけではない。だから「ジョスランはこういう人」と決めつけるのはよくないのかもしれないが……。


「食事の前にお茶はいかがですか。遠くから来られたのにお茶のひとつも出さないと思われたら困るのでね。それにカロリーナは、この国の作法もだいぶ覚えました。お茶を淹れるのもずいぶん上達したんですよ。見た目だけで彼女を判断しないでやっていただけますか」


 ジョスランに目で促され、慣れた手つきでカロリーナがお茶を淹れていく。その動作はよどみなく、セシアの目にも不自然ではなかった。


「ああそうだ、父上のために貴重な蜂蜜も手に入れたんです。お疲れですから、いかがですか? この茶葉に蜂蜜はよくあいます」


 ジョスランの目配せでカロリーナが、ワゴンの上から小さな容器を取り上げてみせた。


「……そういうことならいただこうか」

 祖父は甘いものが好きなのだ。

「セシアはどうする?」

「私は遠慮します。焼き菓子がありますし……それに食事前ですし」

「はは、一人前に体型を気にするようになったのか」


 別に体型のことは言っていないのに、ジョスランに笑われて、セシアはむっとした。太っているほうではないと思うのだが、このところ流行のデザインがぴっちりした細身のものなので、胸が大きめのセシアは太って見えるのだ。自分でも気にしているだけに、指摘されるのは不快だった。

 ジョスランがふたつのカップに蜂蜜を注ぐ。


「焼き菓子もカロリーナが作ったものです。ぜひ召し上がってください」


 祖父と、セシア、そしてジョスランの前にお茶の入ったカップと焼き菓子が置かれる。

 客人のもてなしは女主人の役割。

 祖父がカップを手に取るので、セシアもそれに倣ってカップに手を伸ばした。


 いい香りのお茶だ。……ちょっと意外に思えた。歓迎されていないとわかっているので、こんなにいいお茶を出してくるとは思わなかったのだ。


 ジョスランがカップに口をつけるので、それに合わせるように祖父もお茶を一口飲んだ。

 猫舌のセシアはカップを手にしたまま、しばらくお茶を飲む祖父と叔父を眺めていた。

 ジョスランがカップを置き、テーブルの上の封筒を手に取る。


「父上のために淹れたお茶ですから、遠慮せずどうぞ。カロリーナはうまくお茶を淹れられるようになったでしょう?」

「そうだな」


 ジョスランの言葉に頷き、祖父がぐいぐいとお茶を飲む。


 ――?


 セシアはその様子を不思議そうに見つめた。


 祖父はセシアほど猫舌というわけではないが、このお茶はぐいぐい飲めるほど冷めているわけではない。確かに外は暑く、セシア自身は喉に渇きを覚えていたものの、熱いお茶を一気飲みする行為には違和感を覚える。

 セシアがきょとんとしているうちに、祖父がソーサーにカップを戻す。そしてそのまま祖父はうつむいて、黙り込んでしまう。


 ――何か、おかしいわ。


 先ほどまで祖父はジョスランに怒りを向けていた。顔は上げて、ジョスランを睨んでいたはずだ。

 どうしてうつむいてしまうのだろう?

 セシアはカップを手にしたまま、じっとそんな祖父を見つめた。セシアの視界の隅で、ジョスランが封筒から中身を取り出して眺めている。


「ところでセシア、おまえは次のドワーズ侯爵が僕になることに異論はあるかい?」


 不意にジョスランが聞いてきたので、セシアはカップから叔父へと視線を移した。


「……いいえ」

「おまえの目に僕はどう移っているんだろうね? ただの放蕩者かな」

「……何かお考えがあるのだとは思っております」

「父上によく躾されている。そういえばセシアはまだ独身だったな……父上も古い考えの持ち主だからなかなかいいツテがたどれないだろう。お相手がまだなら、紹介しようか?」

「……大丈夫ですわ、叔父様。自分の将来のことは、自分で決めます」

「おやおや、小さなお嬢ちゃんはどんな将来像を思い描いているのかな?」


 田舎者の物知らずではあるが、小さなお嬢ちゃんとはずいぶんな言い草だ。

 むっとしてジョスランを睨むと、ジョスランが軽く肩をすくめた。


「まあ、何をするにしても金はいる。そうだろ?」


 同意を求められても、話の内容が見えないので答えようがない。


 ――結局この人が気になるのは、お金のことばかりなのね……。


 うんざりしたセシアに構うことなく、ジョスランは封筒から出した書類をさっと祖父の前に差し出す。


「ところで父上、これは、大切な書類です。父上のサインを、いただけませんか?」


 ゆっくり区切るように言って、シャツの胸ポケットからペンを取り出し祖父の前に置く。

 何を言っているのだ、叔父は。先ほどこれは……。


 ――本物の売買契約書だったの? だとしても、おじい様は売らないはずなのに……。


 ジョスランは何を言っているのだろう?

 だがセシアの予想に反して祖父がペンに手を伸ばす。


「おじい様!?」

「セシア、黙りなさい」


 ジョスランに鋭く制止され、セシアは口をつぐんだ。


「父上、サインをください。ここですよ」


 ジョスランが立ち上がって祖父の傍らに立ち、サインするべき場所を指さす。

 祖父の手が震える。

 最初は小刻みだった震えがどんどん大きくなることに、セシアは不安を覚えた。


「さあ……父上の名前を書くだけです」

「待って、叔父様。おじい様の様子が……!」

「黙れと言ったのが聞こえなかったか、セシア!」

「でも!」


 セシアは立ち上がって祖父のそばに行くと、その顔を覗き込んだ。


「……!」


 うつむいたままの祖父の顔色が紫色に近い。


「叔父様、おじい様がおかしいわ!」

「……くそ、早すぎる。カロリーナ、水を!」


 ジョスランが焦ったように叫ぶ。


「何をしている、カロリーナ!」


 セシアが顔を向けると、それまでその場に立ち尽くして様子を見ていたらしいカロリーナがはっとしたように頷く。そして、急いで応接間を出ていった。


「父上!」


 ジョスランの慌てたような声に視線を戻す。床に座り込んだ状態から見上げる祖父の顔色はどんどん悪くなり、やがて口から泡を吹きながら体を大きく傾けた。

 ジョスランが支えようとするが支え切れず、祖父が床に倒れ込む。


「おじい様! おじい様!!」


 セシアは駆け寄って祖父を抱きかかえた。

 なぜ。どうして。さっきまで普通にしていたのに。

 顔色は今や完全に紫色になり、目の白い部分は真っ赤になっていた。ごぶごぶと口から泡があふれ続け、祖父の体が大きく痙攣する。


「どういうことだ!」


 ジョスランが叫ぶ。

 セシアはあまりのことに言葉もなく、あっという間に容体が悪くなっていく祖父を見つめることしかできなかった。

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