奏汐音と猫8

 猫の世話をしていた女性は、奏とありさの懇願にほだされたのか、折れたのか居場所を教えてくれた。


 女性の猫に対するスタンスを考えたななら前者だろうか。


 しかも意外な事に、奏と俺達が想定していたよりも、はあちゃんはかなり近くにいたんだ。


 聖天島公園を江ノ島線の方へ出て、右手を見ると、駐車場がある、そのさらに奥、白い壁がそびえ立つ。


 この江ノ島と海とを隔てる大堤防だ。


 この大堤防端の灯台付近では常時釣り人が集まっていて、そのおこぼれに預かるために猫なんかもたくさんいたりする。


 しかし、はあちゃんがいるのはそこじゃない。


 灯台とは正反対側の端。現在は立入禁止になっている表磯と呼ばれている場所だ。かつてはこちらにも釣り人の姿が見られていたのだけど、さすがに立入禁止とあって人の姿はない。


 台風によって柵が壊れてしまっていて、高波に拐われればそのまま海に落ちかねないんだから、近づかないよね普通に考えれば。


 釣り人がいないとなれば、おこぼれがない。そうなれば猫もいない。

 普通ならそんな劣悪な環境は選ばないが……はあちゃんにとっては好都合だったようだ。


 臆病で人にも懐けず、猫の仲間にも入れない。そんなはあちゃんが逃げ場所に択んだのがこの表磯だったのだ。



 はあちゃんの性格で猫の世話をしている女性も相当苦労していたらしい。

 大人を避けるはあちゃんは当然のように女性も避ける。


 餌を与えようにも寄ってこないから直接は与えられず、人が立ち入れるギリギリの所に設置をしていたと話してくれた。


 少し心配なのは、餌を取り替えに行っても減っていない事もあったようで、はあちゃんの体調面もかなり気がかりだ。


 しかも、海上ではまだ、昨日の悪天候の強風を引きずっているようで、波が高く、俺達が立っている大堤防の上にまで飛沫しぶきが飛んでくる。大堤防のあちらこちらに水たまりを作っている始末だ。


 奏が立入禁止区域に向かって、


「はあちゃーん!」と叫んで見るが当然のように返答はない。かわりに波が岩に波が叩きつけられる音が返ってくるだけだった。


「どうする?近づけそうにないぞこれ」


 強風でかき消され奏に声が届いているかどうかは定かではない。

 俺同様に奏も何かを話しているが俺の耳には届かない。

 少し据わった目をしているのが気になるどころだが、もう一回言ってと、人差し指を立てて合図をすると、次は大きな声で奏が答えてくれた。


「私、言ってくる!」


「はっ!?言ってくるってどこに?」


 奏ははあちゃんが潜伏されるとされている岩場を指差す。

 こいつ正気かよ。

 幼女であるありさでさえもその無謀さを理解できているのか、奏のショートパンツをギュッっと握った。


「やめとけよ。下手したら死ぬぞ」


「はあちゃんだって危ないじゃん!」


 奏の言っている事はごもっともだ。はあちゃんだって危ない。

 しかし、この場合、人名が最優先されるべきだ。

 また波が穏やかな日に、出直すべきだ。


「あっ!」


 奏は何かを、見つけたのか岩場を指差す。


 つられて俺とありさも覗き込むがそこには何も居ない。


 その視線の端を、何かが通り過ぎていった。


「あぶないよっ!」


 ありさが叫ぶ。

 通り過ぎていったは奏だったのだ。


「やめとけよ!」


 慌てて手を伸ばすが間一髪の所で間に合わず俺の手は空を切った。


 追いかけようかとも思ったが、ありさが俺のズボンをギュッと握っていた。

 この子をここに残して行くん訳にも行かない。


「戻ってこい!」


 奏にそう声をかけてもきっとこの声は届いていないんだ。

 風と、波にかき消されて。


 せめて無事に戻ってくる事を願うしかできない。


 と思ったのもつかの間だった、かなりの高波が岩場を襲う。


 その先には、奏が……


「奏!」


 轟音を轟かせ、岩場を叩きつけ、奏の姿が見えなくなった。


 波が引いて行く……奏の姿がない。


「かなでーっ!」


 思わず叫び声をあげる、引いていった波の中に姿を探してみるがそこに奏はいない。


 しばらく呆然としていると、岩場と大堤防を繋ぐ階段の隙間からひょっこりと奏が顔を出し、こちらにピースサインを向けるとさらに奥へ進んで行ってしまった。


 もうこちらから奏の姿を確認することはできない。


 ありさも不安げに、奏の消えていった先を涙を目にためて見ていた。


「奏。戻ってこーい!」



 どうする事もできず、俺とありさはその場に立ち尽くしてた。


 しばらく高波が岩場に打ち付けて来ることがなかったのだけが救いだった。


 永遠にも感じられる数分を過ごし、大人を呼びに行くべきかと思案し始めていた頃、奏が何かを抱えてこちらに戻ってきたのだ。


 奏のTシャツのお腹の部分にくるりと巻かれはいるが、黒いけむくじゃらがはみ出していた。


「はあちゃんだ!」


 そう、興奮気味にありさが叫ぶ。


「大丈夫か、奏!?」


「大丈夫じゃない。見たらわかるでしょう」


 俺は奏の体の事を聞いたつもりだったが、奏はTシャツの裾で巻き込んでいたはあちゃんを字面に置き、俺達に見せてくれた。


 かなりぐったりとした様子では、呼吸もかなりの弱々しい。



 よくこの状態で流されることなく、岩場にとどまっていたな。奏が無事戻って来れたのも、今のはあちゃんの状態も奇跡に思えた。


「病院に行ってくるから」


「俺も行くよ」


「ダメ。これからお仕事があるでしょう?」


 奏の言う通り、これからさくらの散歩が控えているのだ。散歩に行くのは奏でも構わないのだが、状況的に考えれば、奏が病院へ、俺が散歩へ行くのが正しいだろう。


「まあ。そうだな。そっちは任せた」


 奏は頷くと、大切そうにはあちゃんを抱え、左手でありさと手を繋ぎ、大堤防の階段を降りていった。


 そんな奏の後ろ姿を見えなくなるまで見送った後、俺も階段をくだり始めた。


「助かるといいな」




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